悪魔の足音と神の贋作 -4

 マーレット教周辺には、スラムの人口が多い。

 それぞれが必死に生きている中で顔を覚えているなんて少ない事で、むしろそちらの方が多い。誰がどこで生きて、どこで死んでいくのか。誰がどこに、住んでいるのか。

 そんなスラムの、外れ。

 エヴァはふらふらと、覚束無い足取りで歩いていた。元々シスター達の服は、本来運動には不向きなものとなっている。そんな中で馬車を使わず移動をするのはかなり身体を酷使するもので、現実エヴァも体力の限界が近づいている。

「だめです……」

 つい、そんな弱音が零れ落ちた。

 スラムの子どもの顔を見て心の声を聞く。ただでさえ人の心に聞き耳を立てる行為はエヴァとしてはかなり精神を削るもので、それに足すような形で歩き続けているのだ。疲れない方がおかしいと、そう思ってしまう。

「そもそも、リベリオ様は人使いが荒い……」

 エヴァがこうしてスラムを駆け回っているのは、すべてリベリオの発案だった。

 どこにいるのかわからないなら、心の声に聞くのはどうか。

 そんな他人事のように言った言葉は聞き間違いではなく、つまりエヴァが能力を使う事が決定的な内容だった。リリアから相談を受けた時を考えれば確かにこの方法が一番であるとわかっているが、今回は範囲が前よりも広い。

 確かにエヴァも、侍従役の範囲ならやると言った。しかしこの能力を使う事は、はたして侍従役の範囲なのだろうか。

(神よ、これもあなたが課した試練なのですか)

 薄い信仰心で、そんな事を考えた。

「いたか、シスター」

 曲がり角の待ち合わせ場所、手分けをしていたリベリオはエヴァの顔を見るなりそんな言葉をかけてきた。疲れた表情から、リベリオの方でも収穫がなかったとわかる。

「いえ、まったくです……あの庭で遊んできた子どもでしたら顔を見た事があるはずなので声が聞こえると思うのですが……」

 まさに、八方塞がりだった。

 これだけの人の中から、一人を探す。

 彼を見つける事であの話をしてきた親らしき女性にたどり着くかもしれないのに、そこまでの道のりが遠く途方もない。

(諦めて、別の方法を探すべきでしょうか)

 探せる場所は、ほとんど回った。ならばもう、違う場所を探した方がいいかもしれない。そう諦めながらもとぼとぼと歩いていると、角を曲がったところで小さな影を見つけた。エヴァの半分くらいしかない身長で、茶褐色の髪が特徴的な。

「あれ……」

 見た事がある顔だと、そう思った。

 つぶらな瞳の彼もどうやらエヴァとリベリオに気づいた様子で、こちらに顔を向けてくる。

『シスターのお姉ちゃんだ』

 そんな、どこかで聞いたような声だ。

 曖昧なエヴァの記憶だったが、それだけで今のエヴァにはじゅうぶんだ。

「あっ……」

 いた、この子だ。

 エヴァの直感が、そう言っている。

「ね、ねぇ僕、ちょっといいかな?」

 おそるおそる声をかけると、彼は疑う事なく首縦に動かした。スラムという環境でここまで素直なのも心配になるが、今はそれどころではない。

「私達はお母さんに用事があるのですが、お家を教えてくれませんでしょうか?」

「おうち?」

「えぇ」

 さすがに、怪しい大人に見えたのか。

 一瞬そんな不安も脳裏をよぎったが、どうやら考えすぎだったらしく彼はさっきと同じく楽しそうにいいよ、と笑っていた。これで、もう無理に動かなくても――

「じゃあ、おうちまで競走ね!」

「えっ」

 変な声が、エヴァの喉の奥から飛び出した。

 競走という事は、つまり。

「はやくきてよね、よーいどん!」

「あ、おい!」

「ちょっと、待って!」

 勢いよく走り出した彼の背中を、エヴァとリベリオは追いかける。子どもの底を知らない体力相手に勝てるつもりはもちろんなかったが、それでも今は走る事しかできなかった。

「……無理はするなシスター」

「無理はしてないので、ご安心を!」

 嘘をついた、無理はしていると自分が一番わかっている。あまり運動は得意ではない中で、すでに体力もかなり消耗した後。そんな中で元気がありあまっている子どもを追いかけるのは、正直かなり大変なものがある。

 それに輪をかけるのが、スラムの環境だった。物が溢れ人が地面で寝ている以上、なにも考えずに走るとすぐ躓いてしまいそうだった。

(心の声ではなく、未来が予知できればこなかったのに!)

 あいにくエヴァの能力は、そこまで万能ではない。

 それはエヴァ本人が一番わかっているはずだが、ここまで己の能力の不便さを恨んだ事はなかった。

 そんなスラムを、どれくらい走っただろうか。

 前を走っていた彼が、ふと突然立ち止まった。合わせるようにエヴァとリベリオも足を止めると、彼は嬉しそうにこちらを見てくる。

「ついた、僕の勝ちだね!」

 肩で息をするのがやっとで子どもの体力を改めて実感した。

「いいよ、入って!」

 見るとスラムの中では比較的しっかりとした造りで、ドアは布のカーテンであったが屋根も作られている。テントより家の形をしたそこだったが、彼の意思だけで家に上がってしまって本当にいいのだろうか。

「いくぞ、シスター」

「あなたと言う方は……」

 そんな悩めるエヴァの横を、リベリオはするりと抜けていく。当然のような顔で上がるリベリオを少し睨んだが、睨んだところでどうかなるわけでもないからと仕方なくエヴァも後に続いた。

「……お邪魔します」

 少しだけ遠慮気味に、中を覗く。

 子ども二人と親が生活するには少し狭い印象ではあったものの、それでもスラムという場所を考えればじゅうぶんなものだ。

(あれは……)

 周りには、お菓子のゴミが散乱している。

 どれもあの夜小屋で見たもので、コーラルの開いていた集会に参加をしていたのはすぐにわかる。

「ゴミは落ちているが……そこまで汚いってほどでもないな」

 ぐるりと目線を向けたリベリオは、そんな事を言いながら落ちていたお菓子の袋へ手を伸ばす。かさり、と音がしたと思ったがそれはリベリオではなく部屋の奥から聞こえたものだ。

「お兄ちゃん、この人たちだれ?」

 少しだけたどたどしい、まだ言葉を覚えたばかりのような発音。

 声のした方、部屋の奥に目をやるとそこには顔のよく似た少年がいる。問題の弟である事はエヴァもリベリオもすぐにわかったが、肝心の母親がどこにもいない。

「……突然申し訳ない、私はマーレット教会の祭司リベリオです」

 祭司の仮面を貼り付けたリベリオが、怖がらせないように言葉を選ぶ。

 教会の名前を出したからか、それともリベリオの言葉選びが正解だったのか。最初は知らない客人に驚いていた二人も、すぐにごきげんよう、と簡単に挨拶をしてきた。

「……弟くんは、少し身体が弱いのですか?」

「うん、けどさっき知らないおばさんがきてね、お薬置いてってくれたの、これはお母さんからだよって。これで治るよって!」

 エヴァの脳裏には、昨日聞いた告解があった。

(やはり、お金を盗んでいたのは母親の方……それなら、知らないおばさんというのは?)

 お金を使い込んでいたと言っていたからには、おそらくそのおばさんも夜明の鷹であると容易に想像がつく。しかし、その答えを持っても、エヴァにはわからない事があった。なぜ、シェシリエがあのような間違いをしたのか。

「一つ伺いたいのですが、先日休日ミサにきてくださった際……お母さんはどこにいたのでしょうか?」

「んん、わからない……庭で遊んでてって、いつも言われるだけだから……」

(なるほど、この子が犯人だとシェシリエが間違えたのは、彼がくる日にお金がなくなるから……けどそれは、裏を返せば母親も一緒にいる事になる。それでお金を使い込んだという告解とこの子がきた時にお金がなくなるという、二つの話が出来上がってしまった)

 けれども、子どものミサに乗じてお金を盗む事もエヴァは理解ができなかった。理解はできなかったが、少しだけ悲しい気持ちになったのも事実だ。

(スラムは、薬を買う事もやっとと聞いた事があります……)

 そう思えば、エヴァは恵まれているのかもしれない。路地裏に捨てられるでもなく、教会で孤児として育てられ。そして、成り行きではあってもシスターとして生活に困らずにいる。あまりにも幸運で、だからこそ目の前の状況を見ていると申し訳なくすら思えてきてしまう。

『悪魔に弟も取られなかったし、本当によかったー!』

 純粋無垢なその声が、今のエヴァには痛く突き刺さる。

 悪魔、その必要悪だったはずの彼がなぜこうも独り歩きしているのか。それがエヴァにはわからなかった。

「――ねぇ、お母さんどこかな?」

 悪魔について聞きたい事は、もちろんあった。

 しかしそれを聞くのは今ではないと思い、目線を合わせたが。

「いない、帰ってきてないよ」

『昨日の夜から、どこ行ったのかな』

「っ……!?」

 ふいに聞こえてきた心の声に、エヴァは肩を揺らす。

(昨日の夜という事は、告解部屋の帰りにはもう……)

 あの時の、動揺した声と指先。それは一晩明けた今でもエヴァは鮮明に覚えている。恐怖が滲んだ心の声も、すべて。

『まだ帰ってこないかなぁ、シスターのお姉さんにこの前もらったお菓子、一緒に食べたいのに』

 心の声は、あくまでも誰かに聞こえていない事が前提。エヴァが反応しなくとも問題はないし、むしろしてしまっては気味悪がられるのは目に見えてわかっている。それでもエヴァは、反応してしまいそうになる。目の前にいる純粋な少年の声が、自分にはあまりにも苦しかった。

「ねぇ、シスターのお姉ちゃん」

 くいと服の裾を掴みながら、エヴァの顔を見てくる。 

「お母さん、いつ帰ってくるかな」

『早く帰ってこないかなぁ』

「それ、は……」

 エヴァには、なにも答えられなかった。

 なにも知らない、お金の事もすべて知らない彼らの純粋な声は痛いほど聞こえてきて、エヴァに突き刺さる。あの時の声を、罪悪感に満ちた彼女の声を思い出すとエヴァには帰す言葉を選ぶ事ができなかったから。

 できる事は目線を合わせ、簡単に相槌を打つだけ。

(こんな事が、知りたかったわけじゃない……こんな悲しい声を聞きたくて、告解部屋にいたわけじゃないのに……どうして告解部屋の外は、こんなにも苦しいの?)

 苦しく締め付けられるような感覚は、エヴァを静かに支配していた。

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