傘立て

 通りの向こうの、今はもう廃墟になった古い家の二階から、ぼろきれが垂れ下がって風に揺れている。目を凝らしてみれば、女だった。顔から上半身にかけて縦半分しかない女が、黒い髪をなびかせて、ベランダから乗り出した上体ごとゆらゆらと動いていた。初夏の明るい光の中で、そこだけが薄暗い煙のように沈んで見えた。

「目を合わせるなよ」

 前を歩いていた叔父が低い声で言った。振り返りもせずに、私がを見ていると何故分かったのだろう。この距離で目など合うものか、と思ったが、叔父の声を聞いた途端に本当に合ってしまいそうな気がして、慌てて目を逸らし、前を歩く背中を追った。

「あれは? 祓わなくていいの?」

 追いついた背中に問いかける。背の高い叔父の頭は遥か上のほうにあって、首の後ろでひとつに結んだ髪の束が、歩調に合わせて小さく弾んでいた。

「気にしなくていい。ああいうのは、あの場にいる分には何もしないよ。本当は風を受ける体なんてもうないのに、そのつもりになって揺れてるんだ。可愛いもんだろ。でも、目は合わせるな。呼びかけてもいけない。ついてくるからな」

「目を……」

 合わせるなと繰り返され、ふと、自分はさっき女の顔を見はしなかったか、そのときに目が合わなかったかと不安に襲われた。自分が見たものは、あの半分だけの顔に空洞のようにひらいた暗い眼窩は、あの暗闇は、自分のほうを見ていなかったか。瞼の奥に焼きついた女の顔は、遠目だった筈なのにやけに鮮明だった。記憶の視界の中で、顔の中心にぽっかり空いた暗がりが、こちらを向いた気がした。こちらを向いて、笑って——。

 叔父の手が伸びて、私の肩を抱きかかえるように引き寄せた。廃墟も女も、叔父の体に隠れて見えなくなる。

「見てないよ」

 不安を引き剥がすような強い声が降ってくる。肩を支える手に力がこもるのが分かった。

「お前はの顔を見てないし、目も合ってない。大丈夫だ。見ていないものまで、見ようとするな」

 頬に叔父の上着のざらついた生地があたる。声と腕のたしかさに、不安が解けて散った。叔父の服に顔を埋めると、肩から離れた手に頭をぐしゃぐしゃに撫でられた。この人についていれば安全なのだと、私はおそらく本能に近いところで感じとっていた。私はまだ子供で、余計なものを見てしまいがちで、生きていくにはそれなりのやり方を身につける必要があった。それを教えてくれたのは、成り行き上、私を育てることになった叔父だった。

 

 

 

 

 食卓の椅子に座る叔父を立ったまま背後から見下ろすときは、いつも少しだけ気分が良い。成長期を終えても叔父の背を追い越すことが叶わなかった私にとって、この人より目線が高くなる機会はそうそうないのだ。大人しく背中を向けている叔父の髪の表面を少し撫でてから、櫛を通す。使いこんだ柘植の櫛は、よく手に馴染んで長い髪を滑った。

 もう長いこと、叔父の髪を結ぶのは私の役目になっていた。両親を事故で亡くしてこの家に来たばかりのころ、朝の身支度で長い髪を束ねる叔父の姿をもの珍しく見ていたら、なんの気まぐれか「手伝え」と言って櫛を手渡してきたのが始まりだった。自分でやった方がはるかに早いだろうに、なぜわざわざそんなことをさせたのか、させ続けているのか、叔父の真意は分からない。私が髪をいじるあいだ、叔父は頬杖をついたり、手近な本を読むでもなく捲ったりして退屈そうにしている。遅いとか仕上がりが悪いとかいう文句を言われたことは一度もなかった。慣れていないころは長い髪の扱いに手こずって今よりずっと長い時間がかかったが、そんなときでも叔父は終わるのを辛抱強く待っていた。普段から勝手気ままに振る舞っているように見えて、案外この人は他人のペースに合わせるのが嫌いではないのだと思う。

 片手の中に髪を集めたところで、縛るものがないことに気がついた。目で探していると、叔父の腕がさっと動いて雑誌の陰にあったらしいヘアゴムを取り上げて、後ろ手に渡された。こちらの動きを見ていたわけでもないのに、と驚きつつ受け取った。

「よく分かったね」

「髪を握ったまま突然固まったからな。お前は分かりやすいんだ」

 顔は見えないが、声は愉しげだった。輪になったゴムを捻りながら髪を引き抜く動作を何度か繰り返す。叔父が髪に鋏を入れるのは不定期で、長さはそのときによってまちまちだ。今は背中のなかほどまで届いている。仕上がりの合図に、結び目の下の髪を梳きおろした。

 

 



 

 手指に残る髪の記憶は鮮明で、眠りから醒めたあとも生々しい感触として残った。障子紙越しに部屋を照らす朝日の中、布団からはみ出て畳に投げ出された右手だけが、まだ夢の中にいるようだ。夢はそのまま、過去でもあった。私より二十歳上の叔父は、そのまま歳をとっていれば今年四十五歳になる。本来であれば白髪も出ている年齢だろう。夢の中の叔父の髪にはそういったものは見当たらない。肩も背中も、六年前に出奔したときのままだった。夢の中で繰り返すのは、最後の朝の光景だろうか。あまりにも慣れすぎた日常だったので、どれがいつのものと区別することは不可能だ。右手に残る叔父の気配を曖昧な意識の中に追っているところで、目覚まし時計がけたたましく鳴った。

 

 よろよろと布団から抜け出し、身支度を整える。夢を見た日は決まって体が重かった。適当に服を集めて、着替えを済ませた。叔父の面影を追うつもりはないし、追ったところで似るわけでもないことは分かっていたが、それでも髪だけは六年の間に伸びた。その髪を自分で縛り、家を出る。

 

 梅雨の時期の束の間の晴れだった。半年に一度呼ばれる貸衣装屋からの依頼が入っていた。拝み屋の真似事のようなものを副業にしていた叔父から引き継いだ仕事だ。大袈裟なことは求められず、専ら客の応対に使う広間と敷地内のを頼まれていた。冠婚葬祭や特別な行事で使われる貸衣装は、頻繁に過度な感情に晒され、知らぬ間に良くないものをつけて返されることも多いらしい。多少ならば問題ないが、溜まってくれば澱みになり、悪さをし始める。この程度のことであれば叔父から教わった方法で対処可能なので、叔父がいなくなったあとも継続して依頼を受けている。もっと高度な、たとえば憑き物落としや除霊といったものになると話は別で、叔父はそういうものも仕事として受けていたようだが、さすがに私の手には負えないのですべて断っている。

 

「なんだか、隆史先生に似てこられましたねぇ」

 半年ぶりに会う貸衣装店の女主人は、私の顔を見て、しみじみと叔父の名前を出した。

「髪が伸びたからでしょう。顔立ちはたいして似ていませんから」

「いいえ、似ていらっしゃいますよ。お身内だと、かえって気づかないものかしら」

 女主人は愛想良くそう言って笑い、奥へ引っ込んだ。作業の間は入らないでほしいという叔父のころからの要望を、言わずとも知ってくれているのだ。

 

 照明を落とした広間は昼間でも薄暗い。仕事のためには、そのほうが有り難かった。視覚を刺激されないぶん、視神経を通さずに「見える」ものの姿を捉えやすくなる。ハンガーに掛けられたドレスやスーツ、たたんだ着物の隙間から這い出てくる、あるいはひとところに吹き溜まる大小さまざまな感情の残骸に目をこらし、必要な措置を見極める。気を抜くと喜怒哀楽の渦に自分の感情が引き摺られて、見たものを勝手に増幅してしまうので、心をしずめて流されないことが肝要になった。はじめのうちはこのコントロールが上手くいかず、暗がりで蠢くものを無闇に怖がっては、叔父に叱られた。

「お前はすぐにそうやって、見ていないものまで見たことにする。いいか、見えるものにしか目を向けるな。あとは全部、お前の脳が作った妄想だ」

 不思議なことに、叔父が確信を持ってそう言うと、恐怖が一気に消えて、落ち着くことができた。引き摺られさえしなければ、恐ろしく思えたのも案外つまらない雑念だったりするものだ。それを覚えて、ようやく私は自分にだけ見える怖いものから身を守れるようになった。

 広間の中を見渡す。蠢いているものはごくありふれた感情の残滓に過ぎず、自分でなんとかできるものであったことに安堵した。いつも通りに仕事を済ませ、奥で控えている店主に声をかけた。

 

「隆史さん、まだ見つからないんですか」

 帰り際、女主人は珍しくそんなことを口にした。今まで思い出話として叔父のことに触れることはあっても、現状を尋ねられたのは初めてだった。

「はい。手がかりは、何も」

「そうですか。——ごめんなさい、不躾なことを訊きました」

 はっとしたように詫びる女主人に、気にしないでくれと伝えて店をあとにした。謝られるようなことは何もない。姿を消して以降、叔父の情報は些細なものすら掴めなかった。当初は親族をあげて探しまわったが、それも数年で下火になった。おそらく、叔父はもうこの世に生きてはいない。それは、叔父と同じ感覚を持つ私だけが抱いた予感というわけではなく、親族や仕事がらみの関係者の間でも、同じ認識であるようだった。叔父がいなくなって六年が経つ。もう一年もすれば、失踪宣告が出ることになるだろう。気持ちのうえでも、けじめをつける日が近づいていた。いつまでも待っているわけにもいかない。店主の言葉によってそのことが急に実感を持って立ちはだかり、私は少なからず動揺していた。

 

 貸衣装店を辞したあと、あてもなく歩きまわっていたらしい。いつの間にか日が傾いていた。自分が見覚えのない場所にいることに気づいて、慌てて駅を探して電車に乗った。ずいぶん遠くまで歩いていたようだった。歩きまわった疲労のせいか朝の夢の名残りなのか、体は重く、泥を引き摺っているように感じた。

 家についたころにはすでに夕暮れどきになっていて、灰色の空の端に名残のように一筋だけ黄色い縁取りが残っていた。暖かい季節とはいえ、日が落ちると気温は下がる。梅雨どきの湿気の中に、急に首筋に肌寒さを感じて、慌てて玄関に飛び込んだ。家の中は暗く、当然ながらひっそりと静まりかえっている。それでも、叔父がいたころの習慣で、暗い部屋に向かって「ただいま」と声をかけることはやめられていない。

 

 驚いたのは、だれもいない筈の部屋から「おかえり」と返答があったせいだ。低く穏やかに響くその声に、私の思考と体は凍りついた。間違えようもない、長年聞き慣れた叔父の声だった。

「おじさん?」

 暗がりに声を投げる。目が慣れてくると、食卓の椅子に座ってこちらに顔を向ける叔父の姿が浮かび上がった。体の力を抜き、食卓に頬杖をつくようにして、椅子に腰掛けている。長い髪もそのままだった。帰ってきたのか、と言いかけて、慌てて打ち消す。叔父の姿に見覚えがありすぎた。六年前に姿を消したときのまま、何も変わっていない。どんなに変わらないと言っても、それだけの期間会わずにいれば、齢をとって多少なりとも記憶との差異が出る筈だ。それがなかったということは、今そこにいる叔父は、実体ではなく私の記憶と願望が見せた幻影か、そうでなければ幽霊だ。それでも、姿を見られたことが素直に嬉しかった。

 迷った末に、照明をつけた。明るいところで叔父の顔を見たかった。明かりのもとでも、叔父は変わらずそこにいてくれた。懐かしい光景に、胸が張り裂けそうになる。声が詰まって何も言えないでいる私に、叔父は「お前、随分大人になったな」と笑いかけた。

「……六年もたってる。大人にもなるよ」

「そうだな。髪は? 伸ばしてるのか」

「…………結ぶ相手がいなくなったから、」

 やっとの思いで答えると、叔父は笑って「すまない」と詫びた。そうして、立ち上がって、今まで座っていた椅子をこちらに向けた。

「たまには梳いてやる。こっちに来い」

 手招きする叔父に引かれるように、食卓に近寄った。傍に立ってみるとやはり叔父の背は高く、身長だけでも追いつけなかったことに悔しさを感じた。促されるままに、叔父に背を向けて椅子に腰をおろした。髪をまとめていたヘアゴムが引き抜かれ、頭に櫛の歯があたる。あたりの柔らかな、叔父がいつも使っていた柘植の櫛だと分かった。

「伸びたな」

 独り言のように呟いて叔父は静かに手を動かす。背中の方にまで櫛が触れ、そんなに長くなっていたのかと今さらながらに思った。自分のことは、案外見えていないものだ。

 ひとしきり梳かし終えても、叔父は黙ったままだった。頭に櫛とは異なる包みこむような感触があり、撫でられているのだと分かった。この人に頭を触られるのが何年ぶりなのか、もう思い出すこともできない。幼いころの、いつも叔父にくっついて守られていたときを思い出した。

「お前はまったく、本当に、余計なものばっかり見るよな」

 不意に、溜め息とともに叔父の声が頭上から降ってきた。叔父の手が頭を滑り降りて、離れていく。私は思わず身をよじって叔父に縋りついた。縋りついたつもりだった。叔父の体をとらえる筈だった私の手と腕は、空を搔いただけだった。勢いづいた動きにつられ、椅子の脚が床に跳ねて派手な音を立てる。振り向いたところに、叔父の姿はない。ただ、生気のない部屋だけがあった。

 カツン、という乾いた音で我に返る。さっきまで叔父が握っていた柘植の櫛が、床に落ちていた。落ちた衝撃のせいか、歯が一本欠けている。細い櫛の輪郭は、瞬く間に溶けて滲んだ。この櫛を使うことはもうないのだと、私ははっきりと理解していた。きっと夢も、もう見ない。喉から押し潰した声が漏れた。

 耐えきれず椅子から崩れ落ちた私の耳に、降り出した柔らかい六月の雨が軒に落ちる音が届く。雨は徐々に強くなり、暗闇の中で屋根を、窓を、静かに打ち続けている。

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傘立て @kasawotatemasu

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