第8話

「あなたも、梯子を登って来たのですか?」


 すると、老人は不味い物でも食べたような顔をして、デイビーを見やった。


「馬鹿を言っちゃいけない。登るのは君達のような若者だけで、わしらはカゴで引き上げてもらうのだよ」


 ああ、そうだった。すっかり忘れてしまっていた。


 デイビーは、少し恥ずかしくなって頬をかき「すみません」と謝った。登る事ばかりを考えていた自分が恥ずかしくて、小さくなって俯いた彼に、老人が呆れたように息を吐く。


「お前さんは、それを誰かと競ってでもいたのかね?」


 吐息交じりに問われて、デイビーは事実を認めて頷き返して見せた。


「はい。僕らの村で、登り名人に憧れる子は沢山いて……」

「ほぉ、登り名人? 言い伝えの名残りが、今はそうやって残っているのだな」


 老人は懐かしそうに目を細めて、ふうっと息を吐き出した。


「わしもいつかは、と思っていたが、この歳になるとさすがに登れん。お前さんなら、きっと立派に登りきれるだろうさ。しかし不思議だ、ここまで登ってきたお前さんは、もう子供達の誰よりも一番の登り名人だろう。それなのに、一体ここまで来て、誰と競おうと思ったのかね?」


 老人に問われ、デイビーはようやくオーティスの事を思い出した。すっかり遠い昔の事のように、彼の事を思い出すのも何故か一苦労で、デイビーはもごもごと口を動かした。


「えっと、すごく立派な牛飼いの一家があって、そこにオーティスという僕と同じ年の子がいたのです。彼が先にこの梯子を見つけていたので、追い越されてしまう、と僕は心配して……だって、僕には登る事しかないのに…………」


 デイビーは、言葉が続かず口をつぐんだ。


 老人はしばらく黙っていたが、一度深く頷くと「そうか」と言葉をもらした。青年は、俯いたデイビーの斜め後ろで微笑み見つめている。


「競い合う相手がいるという事は、良いものだ」


 しばらくして、老人が思い出すようにしてそう言った。


「きっと彼は、お前さんをライバルと見ていたのだろう。そうして、誰よりも一番、お前さんのいいところを知っている。まだ若いのになぁ。追い抜かれてしまった彼だけが、そこへ残されたのか…………わしと同じように」


 デイビーは、言葉を切った老人を見やった。彼は疲れたように背を丸めて座り直し、もう一度「ふぅ」と息をついている。


「おじいさんは、誰かをここで待っているのですか?」


 なんだかそんな風にも感じてしまって、デイビーはそんな事を尋ねていた。


 すると老人が、疲れた顔にようやく微笑みを浮かべて、デイビーと視線を合わせた。深く刻まれた皺が、優しげな曲線を描いていて、デイビーは何故か胸と目尻が熱くなった。


 老人は、しばらく何も答えてこなかった。どのぐらい見つめ合っていただろうか。デイビーが身じろぎした時、ようやく老人が小さな口を持ち上げた。


「ああ、ずっと待っていたよ。そして、わしはやっと、待ち合わせの場所へと辿り着く事が出来た。あの時、わしが手を離してしまったために、すっかりわしを追い越してしまった彼を、ここで待っているのだ」


 すると青年が頷いて、「もうすぐで天馬が降り立ちます」と言った。


「きっと、その彼は、その時もう一頭の天馬を引き連れて、あなたのもとを訪れるでしょう」


 それを聞き届けた老人もまた、微笑んで頷く。


「『上』にある星を見るのは、二人で、とずっと決めていたんだ。だから、わしは、ここで彼を待とう。星を入れる、この袋を携えて」


 老人が、そう言いながら腰横に触れるのを、デイビーは静かに見つめていた。彼の手の先には、小さな牛皮の袋が提げられている。


「あなたも、星を?」

「ああ、そうだ。美しく輝く星を、一つだけ」


 それ以外は要らないのだ、と老人は続けて、まるで孫を見るような暖かい目でデイビーを見つめた。


「さぁ、お前さんは登り切るのだろう? 次は、星を取りに行きなさい」


 デイビーは頷くと、青年を振り返った。彼は白銀の梯子に手を掛け、ごぉん、ごぉんと美しい響きを奏でている上の雲を、懐かしげに眺めていた。


 ふっ、と青年が気付いてデイビーへ目を向ける。


「さぁ。行こうか、デイビー」

「うん、行こう」


 青年の名前を出しかけたデイビーは、それが喉元で途端にあやふやになって口をつぐんだ。青年は気付いた様子もなく、梯子を登り始める。


 デイビーは、最後にもう一度だけ老人を振り返った。


「さようなら、おじいさん」

「ああ、次は満天の星の下、天馬が降り立つ場所で会おう」


 デイビーは「そうですね」と答えた。嬉しそうに微笑んだつもりなのに、何故かひどく悲しい気分になって開きかけた口を閉ざした。「おいでよ、デイビー」と言う青年の声が少し上から聞こえてきて、「今行くよ」と答える。


 デイビーは、ゆっくりと白銀の梯子を登り始めた。ほとんど身体の重さを感じなくなり、ふと下を見やると、はるか下に金緑と白の光りが波打っているのが見えた。


 もう、ここまで登ってしまったのか。


 ぼんやりと、そんな事を思ったデイビーの脳裏に、先程老人が言った言葉が過ぎっていった。


『美しく輝く星を、一つだけ』


 まるで、未来のオーティスが言ったみたいに感じた。まるで変な想像をしたと、デイビーは、静かに上へと視線を戻した。


 青年が少しの距離で止まって、優しい表情でデイビーを見つめている。


「さぁ、美しい星を取りに行こう」


 デイビーは「うん」と答えて再び梯子を登り出した。するすると青年のもとへと行くと、不意に足が浮くような感覚を覚えて、デイビーは下を見やった。


 梯子から離れた彼の足は、もう宙を浮いていた。梯子を掴んだ手だけが、デイビーの身体を支えている。上を見てみると、青年もまた宙を浮いて手で梯子を掴んでいた。


「ここからは、もう伝って行くだけだね」


 それを知っていたデイビーが言うと、青年が「そうだよ」と続けてにっこりと笑い、白く美しい手を差し出してきた。


 デイビーは梯子から手を離すと、浮かぶ手を青年の掌に重ねた。とても懐かしい温かさに目を細め、デイビーは自分を優しく上へ上へと引き上げて行く青年を眺めた。


 その向こうに、白銀の眩しい光が、ぼんやりと雲から覗いているのが見えた。


 ああ、なんと美しい光景だろう。


 デイビーと青年は、ゆっくりと雲の中へ入っていった。デイビーは全身を包む温かい光りに、思わず目を閉じた。瞼の裏も眩しくて、温かい。


「もうしばらくで、天馬達がいらっしゃいますよ。皆さん、もう星はお持ちですか? ああ、まずは四組いらっしゃいましたね。では、お先にどうぞ」


 どこからか、そんな声が聞こえてきた。


 デイビーはだんだんと、雲が開けていくのを感じた。

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