第41話


 敬虔な教徒が見れば、それは復活を予感させる光景である。しかし、特に信仰を持たぬ者が見れば、そこに終焉しか見出せぬはずだ。イコは、競技場の壁面にて、アデルの女神により磔にされていた。四肢と胸には、女神の腕が突き刺さっている。手足や胸から流れる血は、壁を津たり、床に血だまりを作っていた。そこに反射する俯くイコの顔には、当然のように生気がない。視力のないアデルは、足元に迫る赤い水分の感覚から、イコの死を悟っていた。血だまりは、アデルの悲しみに暮れる顔を映していた。彼の輪郭をなぞる涙は、本人の代わりにイコへ触れようと、赤へと落ちていった。しかし、そこにイコはおらず、虚像の上に落ちる涙が血だまりを揺らしただけだった。必要経費と断じるには、イコの存在は余りに大きく、覚悟の上から重ね塗りされた感情は、アデルを凌駕した分だけ床に滴っていった。


 その直ぐ側には、力なくうつ伏せに倒れるラナの姿があり、彼女のズタボロの体は、イコを守るために、限界に達するまで戦ったことを物語っていた。まだ今は、背中が小さく上下している。遠くに転がる二人も、それは同じだった。


「その涙は、何の涙なの?」


 焼けた喉から発するような、とても小さなかすれ声をラナは絞り出した。


「無論、悲しみだよ。これまでに重ねてきた幾重にも及ぶ波の中でも、これほどのものは経験したことがなかった。このまま体中の水分を使い果たそうとも、足りないだろうね」

「…なら、どうして」

「象徴だよ。私にとって、これがイコンなのだ。世界を変える為の、私の誓いのね」


 背中を丸め、アデルは血だまりから目を背けて、出口に爪先を向けた。その背後には、今も尚女神が付き従っている。それがイコの代わりにはならぬことを知りつつも、消す気にはなれなかった。背後から、ドサリッ――と、イコの落ちる音が聞こえた。それでも立ち止ることなく、やや狭くなった歩幅で、世界を変える為の道取りを辿る。彼は、まだイコが子供だった頃に、その背中に乗せていたことを思い出していた。今は、イコの代わりに孤独がおぶられている。自身の行動を後悔するよりも先に、イコを殺めるしかない状況に自分を置いた世界を恨み、いつの間にか瞳には、深く憎しみを刻んでいた。もはや、道を阻む者はいない。魔術や魔導を無力化するイコがいなければ、これから起こることはアデルにとって児戯に等しい。世界が彼を魔王と呼び、彼の起こす事象を災害だと例えようとも、この場所の誓いの為に全ては遂行される。


「…馬鹿な?」


 アデルは、立ち止った。盲目な視線は下に置いたままで、瞼の裏側にイコを描いた。


「死後も続く魔導?いや、呪いじゃあるまいし、あり得ない」


 悲しみや憎しみを、驚愕が上書きする。優秀な手札を持つアデルでも、その一枚は絶対に手に入らないことを理解していた。人間ごときが、所有していい手札ではない。しかし振り返ると、小さな魔素の脈動が見えた。それはあるべき位置を変えて、アデルの直ぐ側にあった。手を伸ばせば触れることの出来る距離にあるそれを、アデルは恐れ、避けた。


「…何が…起きているんだ?」

「正解。これは呪いだ」


 返ってくるはずのない回答が、彼の口癖を添えて、とても近くから聞こえてきた。


「呪い?馬鹿な、私でも探知できないほどの呪いを…何故だ?」


 人に見える景色が見えず、人に見えぬ景色が見えるアデルは、当然のように呪いでさえその視界に捉えることができる。それでも、度々自宅を訪れるイコに、そうした反応が見えたことはなかった。


「細菌魔導の分解速度や範囲を測定する為に、ダンジョンに潜った時に呪われた。この魔導を誰にも見られたくなかったから、冒険者を雇うこともできなかった。…だから、適した魔物を選び、それ以外が存在しないダンジョンに潜ったんだ」

「…何を、テストケースにしたんだ?」


 イコの特殊な体質と、アデルにすら観測できないほどの呪いという情報から、唯一想定できる魔物がいた。すでに脳裏をちらつく答えを、より明確にするために、イコに回答を求めた。意図せず震えていた自身の声を聴き、アデルはようやく自分が恐れていることに気付いた。


「死神(ハデス)とかなんとか…あんま覚えてはない」


 割とてきとうに述べられた回答は、アデルの想定通りであり、それは考えうる限り最悪の答えだった。ゆっくりと生唾を飲み込むも、その通りの悪さから、口の中の乾燥に気づかされ、この場に存在しない件の魔物に、緊張している自分がいることを知った。


「神級の魔物、神のまがい物「死神(ハデス)」。とある迷宮を支配下に置き、自らの魔法を高める為の実験施設へと改造。出現する魔物は、全てハデスの供物となり、不思議とその迷宮は安全だった。しかし、最終階層まで進めば、当然のように待ち構えるハデスに非検体の一人として迎えられる。とあるパーティーの冒険者が、奇跡的に帰還後、その迷宮の情報を著書「神のいる迷宮」として残した。だが、著書の中に、迷宮の位置に関する一切の情報はなく、帰還した冒険者を問いただしたところ、記憶にないと回答した。帰還して丁度一年が経つと、冒険者は死亡した。彼に関わった全ての冒険者は、彼が実験後であることを悟った。私でさえ、ことの真相を知らない。それ以来、迷宮を発見した者はいなかった。何故ならば、発見者は全員死んでいるからだ」


 アデルの記憶力は、ハデスの全てを網羅していた。ダンジョン一つを丸ごと実験施設に改造するような魔法の研究者に、彼は興味があった。

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