第11話


 チェリアが絶望するなか、イコはウィッチと向かい合わせるように、左手を上げた。すると腕時計から、直径十五センチほどの球体が浮かび上がった。通常なら平面であるはずの魔導陣が、何故か立体を描いている。未だ博学とは言えないチェリアの知識では、それが魔導陣なのかすら首を傾げてしまう程だった。一年という年月をデバックに費やすも、完全なる初見である。同様に、ウィッチもカタカタと顎を揺らすのを止めていた。深淵を豪語する彼にとって、それはあってはならない事実だった。頭蓋骨の代わりに、立ち上る魔素が不快感を示すように揺れている。


「輪廻獄炎道厨(エターナル・ループ・ヘルフレア)」

「魔喰増倍菌華(マバミゾウバイキンカ)」


 ウィッチの右手から、漆黒の炎が放たれ、数百の腕の形を取った。イコを地獄へ引きずり込まんとする獄炎の触手が、彼の命を掴もうとする。対照的に、同じく魔導を起動したはずのイコには、何の変化も見られなかった。ウィッチは、矮小な魔素量が、魔導を不発へ導いたのだと確信し、再度頭蓋骨を揺らし始める。やはり人間とは、なんと矮小な存在なのか、言葉のみを刃とする存在ほど、ウィッチにとって惨めなものはなかった。生意気な人間の凄惨な最期を想像し、当然の結末のみを思い描いていた。


「無様なり。矮小な人類よ」


 ウィッチが勝利を確信し、イコの一メートル以内に漆黒の手が侵入した瞬間――…


「…笑わせる」


 ジジッという異音と共に、漆黒の手が指先から抹消され始めた。圧倒的な魔素量差があるのにも関わらず、その光景は魔導の相殺に酷似していた。同質同量の魔導をぶつけ合った時、お互いの魔導が干渉し合い、魔導そのものが成立しなくなる。結果的に、形を成した魔導が魔素に戻ってしまう現象だ。同一人物が二人いなければ不可能だとされているほどの高等技術である。だがしかし、「相殺」など論じる価値すらない。何故ならば、魔素のないイコに、この技術は実現不可能であるからだ。ウィッチの目測に、誤りなどあろうはずもない。未だ彼の前に立つイコからは、何の魔素も感じられなかった。


 無礼な人類を、一撃のもと、容赦なく焼き払う予定だったからこそ、ウィッチは自身の最強の魔導を起動したはずだった。しかし、今も魔導は抹消され続けている。黒い手が消える度に、永劫とも言えるウィッチの研究が否定されているようだった。精神が擦り減る以上の速度で、自分の魔素が無意味に消費されていく。


 ウィッチという魔生物には、基本的に前世がある。それは彼も例外ではなく、前世は魔法士だった。彼には膨大な魔素量と、全ての魔法技術に関する英知があった。それこそ、歴史に名を残すべき人物であるはずだった。しかし、彼には「魔術」の才能が無かった。基本的に魔術は、精霊の力の領分が大きく、精霊に愛される素養が必要となる。しかし、それは一般的な人間ならば、当たり前の素養だった。そんな当たり前が彼にはなかった。全ての魔法学会から才無き者として扱われ、永久的に追放された日、彼は「魔導」に道を見出し、極める為に人生の全てを捧げた。そこには、自分を学会から迫害した学者たちへの明確な怨嗟の感情が介入しており、ダンジョン内で研究を進める度に、彼の体を闇の感情が蝕んでいった。そうして、彼はウィッチになった。だからこそ、彼にとって、魔導だけが全てだった。迫害という残酷な深淵を知る彼にとって、深淵こそが寝床であり、自分よりも更に深い場所に沈む者の存在が、とても疎ましく思えた。そんな彼の強い感情に答えることなく、彼の全てが消えていく。まるで、古い皮が剥がれていく皮膚のように、彼から放出される魔素は消えゆき、やがて剥き身になった魂だけが残っていた。


 そうしてウィッチは、怨嗟の深淵から浮上した。


「……素晴らしいぃ」


 現世へと浮上した魂という名の船は、尊敬の念のみを乗船させていた。


 チェリアは、現実から置き去りにされていた。長年共に過ごしてきた彼女にとっての常識とともに、徐々に現実感が損なわれていく。本来ならば、既に自分は死んでいるはず。しかし、現実はどうだろうか。今もチェリアは息をして、景色を覗いている。彼女は、現実感のない生に、少しでも理論を肉付けようと、必死に脳を回転させていた。まず大前提として、イコには魔素が無い。厳密には「0」ではなく、限りなく「0」に近い「1」である。つまり、魔導を起動する素養はある。とはいえ、現実問題として、そんな魔素量では、まともな魔導など起動できない――はずだった。そんなイコの手から、見覚えのない球体状の魔導陣が現れ、目に見えない何らかの作用を起こし、彼の何億倍にも相当するであろう魔素量を持つウィッチの魔導を無効化してしまったのだ。あるいは、高いところから落ちた赤子が、同様の状況に陥った大人とは違い生存するように、一見すると奇跡に思えるような現象の裏に、確かな理論が存在するのかもしれない。それこそ、魔導の深淵に近づけば、そうした別の景色が見えるのかもしれなかった。確信に満ちたイコの顔、これまでの彼のデバック成績、そこから連想される魔導の知識量、それら全ての事前情報が、裏側の理論をチェリアに予感させ、奇跡という利便性の高い言葉のゴミ箱に、現状を放棄させなかった。どうやら彼女と同じくウィッチも偶然や奇跡だとは考えていないようで、今も彼は彼女を置き去りにして、イコへ土下座をしている最中だった。


「頼むッ!!!吾輩を弟子にしてくれたもう!!!」

「…なんで?嫌だよ、危なそうだし」

「後生だ!」


 するとウィッチは、カタカタと頭蓋骨を揺らしながら、チェリアの方を見た。また何か攻撃されるのではないかと、ビクリと震えてしまう。


「あの男…このままでは死ぬ」

「お前がやったんだけどな。…治せないのか?」

「無理だ。魔素はあれど、光属性魔導は性に合わぬ」


 バイルゥは深手を負っており、チェリアの治癒魔導も生命維持程度の効果しか見込めない。おそらく、彼を生かしたまま王都に連れ帰れても、並みの治癒魔導士では、彼を失うだけだろう、とイコは考えていた。そこまで見極めると、とある男の顔が頭に浮かんだ。


「お前、ラインナップに転移魔導が入ってるはずだろ?この別空間に俺達を飛ばすのに使ったはずだ」


 ウィッチは、どこかへ転移しようとしているイコの意図を読み取った。そうして、自分の手札を精査してから、頭蓋骨をカタカタと揺らした。


「確かにある…だが、条件を飲むのだ」

「条件?そんなこと言える立場か?」

「まぁ聞くのだ。弟子にしてくれという提案は諦める。絶対に迷惑をかけないから、貴方様の魔導書を閲覧させてくれたもう。そして、暫く側に置いて欲しいのだ。それ以上は望まぬし、吾輩に飯は必要ないし、金銭的負担もないはずなのだ」


 イコは、数秒程バイルゥを眺めると、一度だけ頷いた。そして、一枚の小さなカードをカバンから取り出し、それをウィッチへ渡した。 


「…ま、ここで議論をしている時間はないか。条件を飲む、この座標に向かってくれ」

「心からの感謝を、ありがとう」


 ウィッチが指を一本立てると、柱の一本がそれに呼応して輝いた。転移が始まることを理解すると、イコはチェリアを見た。


「もう大丈夫だ。絶対にバイルゥは助かる」

「は、はい!」


 先輩と後輩という関係性を越えた確かな信頼感が、そこに生まれていた。

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