第5話


 魔導の修正が終わると、イコは離席してしまった。自席を離れ、フラフラとどこかに行ってしまうイコの様子を、ミームは視線で追いかけた。自由な人だな…と思いつつも、彼の圧倒的な魔導センスを羨望している自分がいることに、ミームは気付いていた。


 もはや、デスマーチに突入しつつある残業のなか、ラナが持ってきた案件は、どれも中級魔導だった。既に持ち込みから三時間が経過しており、…イコならば、と考えてしまう自分がいることに、ミームは少しだけ自己嫌悪していた。


 強化魔導によりギンギン肉弾戦車と化したチェリアが、隣で命を摩耗させるかのようにデバックを続けている。そんな彼女とは対照的に、自分の手元にある仕様書を見下ろすだけのミームは、いつになったら帰れるのだろうか、と溜息を落とした。無気力にペラペラと仕様書をめくると、一枚ずつ捲れる度に、鼻先に弱い風が返ってくる。弱弱しく鼻先を撫でられるも、そこに母の温もりなどなく、少しずつ熱を奪われていくだけだった。終わらない仕事に追い詰められ、精神的に摩耗し、徐々に苦痛が増していく。やがて、業務から逃げ出す代わりに、仕様書から手を放して、彼女は自分の鼻先を握って温めた。


「これ、食え」


 森の奥深くに住む部族でも、もう少しマシな言語を用いるのでは?とミームは感じていたが、そうした疑問は、鼻先を撫でる新たな温かい風により、直ぐに消えてしまった。


 ミームの眼下には、一枚の皿があり、そこに黄金色の美しいオムレツが乗っている。触れずとも、その柔らかさが想像できるほどの品だった。口内を満たす涎を零さぬよう、喉に力を込めて呑み込んでから、ミームは背後に立つイコを見上げた。


「…こ、これって?」

「焼いた、食え」


 見れば解る、そう答えるよりも先に、ミームはイコが持っていたフォークをひったくり無意味な問答を止めて、オムレツを頬張った。未だ半熟のトロトロが、歯を入れると口内で洪水をおこし、先ほどまでの疲労感を上回る幸福感を溢れさせた。


「お、おいひぃれすぅ」


 口をぱんぱんに膨らませ、ミームが感涙を流す。


「それ、交換用だから、よこせ」


 横暴にも、イコはオムライスで口をパンパンにしたミームから、彼女の手元にある仕様書をひったくった。え?とミームがイコを振り返るも、既に彼は自席へと戻った後だ。いきなり仕事がなくなり、オムライスだけが机上にポツンと残った。それは優しさなのか、それとも魔導に対する探求心の伴った本能なのか、とかくミームの手元から、彼女を摩耗させていた仕事は無くなった。そうして机の上に残った黄色い塊に、ミームは母と同じ温かさを感じていた。ふと一かけオムレツを割ると、そこからまた湯気が登った。


――◇◇◇――


 二日ぶりに、イコは帰路についた。呼気を大気と交換する度に、内側が浄化されているかのような感覚があった。肺を通過する空気は、イコの貯めこんだ職場に籠る嫌な熱を、じっくりと体外へと追いやった。


 疲労のせいで、足取りはおぼつかず、夜道を漂う酔っ払いに紛れて、イコはもの静かな路地裏に入っていった。ビルとビルの間の疑似的な谷底は、二人分の道幅しかなく、地面には空き缶や菓子の袋といったゴミが転がっていた。暗い谷底の中腹には、一人の女性が立っている。女性のもとまでフラフラと近づくと、その隣で立ち止まった。先ほどまでイコの顔を支配していた疲労は、いつの間にか消えている。


「例の物は?」

「あぁ、持ってきた」


 綺麗なソプラノは、やや粗い言葉を奏でていた。女性は、足元のアタッシュケースを開くと、そこから茶封筒を取り出してイコに渡した。


「ありがとうございます」


 と、何故か敬語で応対しつつ、イコは茶封筒を覗き込んだ。中身を俯瞰から観察すると間違いなく目的の品だった。満足気に一つ頷く。


「気にするな。金は口座に」


 イコとは対照的に、女性は粗暴な口調のままだった。取引において最も重要な金銭について確認した後、さっさと歩いて行ってしまう。取引に要した時間は、全体で5分もなかった。イコの歩いてきた方向へ去っていく女性の足音が消えると、ようやく彼自身も歩き始めた。但し、彼女とは逆方向に。取引も終わり、疲労を隠す必要がなくなると、イコは路地の壁に手を付きながら歩いた。視線も下がり、注意力散漫ながらも家路を進む。


 ――ガシャンッ!


 その場にイコは倒れた。彼の頭から、ゆっくりと血が広がっていく。その周囲には、植木鉢の破片が飛散していた。彼の頭の側には、赤く染まったパンジーが土を失って彼をなぞるように倒れていた。散らばった土が、彼の血をスポンジのように吸い上げている。


「つッ…」


 イコは、頭を撫でながら上体を起こした。お気に入りの一張羅は、もれなく血によってまだらに染められている。


「い、痛かった~」 


 その呟きは、どこか他人行儀で、重傷を負った人間の声色とは思えぬほど、健常な色合いを持っていた。そのままビルをなぞるように見上げると、ややベランダからはみ出して危険な位置にプランターを置く一室が目に入った。丁寧に窓の数を数えれば、そこが十五階であることが分かった。…そりゃ痛い訳だ、と他人事のように思うと、力なく地面に落ちたパンジーを眺めた。重要な荷物を持っている今、何らかの敵性存在を危惧していたがどうにも本当に偶然的に鉢植えが落ちてきただけなようだった。何故なら、未だにイコの手元には茶封筒が残っており、尚且つ命もある。15階という高度に、死を確信した可能性も十分にあるが、経験を積んだプロなら生死の確認を忘れるはずもない。広がる血だまりに足跡はなかった。


 …ついてねぇ。イコは、サッと立ち上がると、何事もなかったかのように歩き始めた。普通なら死んでいるような事故にも関わらず、足取りは小鳥のように軽い。


 路地裏には、血だまりと赤いパンジーだけが、意味深に残っていた。

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