第2話


 甲斐甲斐しく治療を続けること一週間、ようやく少年は目を覚ました。まだ色あせない疲労感を蓄えた瞳は、目覚めてからも虚空を無気力に見つめ続ける。アデルに視力が備わっていれば、少年が尋常ではない状況にあると理解できただろう。だが盲目だからこそ、アデルは不用心に森を歩く兎のように、少年の棘まみれの茨路へ踏み込んだ。


「君は、どうしてあの森に?」


 少年は、アデルを見る。アデルは、少年の視線が自分にあることに気付かない。自分を見ているようで、どこか遠くを見るようなアデルの不思議な視線を、少年は敏感に感じ取っていた。少年を捕えているようで捕えていないアデルの視線は、大きな網目の虫網で蟻を捕まえようとしているのと同じく、網目から少年の心を逃がしてしまった。


 アデルは、言葉のない少年に訪れた不幸を、これまでの経験に基づいて推測した。


 生まれつきの盲目であるアデルは、音波触策魔導を開発するまでは、魔素を探知することにより、臨時の視界を確保していた。しかし、その探知方法では情報の解像度が低く、現在の方式へと移行することになったが、今でも魔素に対する鋭敏な感覚が残っている。


 初見から気づいてはいたが、少年はとても魔素量が少ない。アデルによる目測では、常人の十万分の一程度の魔素量しかなかった。


(捨て子だ。おそらく良家の…)


 急激な技術成長を遂げた昨今、日陰を覗けば、今も悪しき風習が残る。例えば、捨て子もその一つだ。特に良家であれば、子が期待通りでなければ、恥と考える一族もある。


(彼は被害者だ)

 

 アデルは、この言葉のない少年の世話をすることを決めた。



 それから一年後、アデルが机の上で魔導を開発していると、彼はアデルの裾を小さな手で引っ張った。


「それ…魔導?」


 アデルは、この日初めて少年の声を聴いた。久しぶりに音を放ったからか、少年の声帯は上手く震えず、石を擦り合わせたかのような掠れた音を鳴らした。


「あ、あぁ…そうだよ。魔導を知っているのかな?」

「…うん、知ってるよ。…好きだったんだ」


 子供らしい高い声が、深く沈んでいく。アデルは、自身の推測が正しかったのだと結論付けた。愛する両親から魔導を与えられ、そして魔導により愛する両親を奪われた。少年の両親が愛すべき存在だったかはさておき、「好きだった」という過去形の理由は、容易に想像することができた。


「それは、何の魔導なの?」


 必然的な静寂を破ったのは、少年の高い声だった。


「これは…秘密だ。これが何の魔導か調べるのが、君の最初の仕事だよ」


 少年には、何か生きる目的が必要だと、アデルは考えた。それが少年を苦しめた魔導でいいはずもないが、アデルには魔導以外何もない。母親代わりになってくれそうな人間関係も、彼は自ら遠ざけてきた。視力すらもない自分に唯一あるもの、それが魔導だった。 


 魔導は世界を救う、それが一人の少年すらも救えないはずがない。もはや願望に近い思いを、アデルは魔導に託すことにした。


 一年後、少年が六歳だとアデルは知った。


 硬かった心の扉も、過ぎていく日常の中で少しずつ隙間風を通した。少年とアデルは言葉を交わすようになり、小さな信頼感も生まれ始めていた。人間関係を嫌っていたアデルの中でも、それは大きな変化である。そこに不快感はない。


「イコ、これも君が?」

「うん、そうだよ父さん」


 少年の本名は、ネロ・イコ・ラス。しかし、そのままの名前で生きていれば、いつか必ずラス家に目を付けられてしまう。幸いにも、ラス家は世界に一つだけではなく、ネロという名前の方がアデルには珍しく思えた。そこでアデルは、少年に「N・イコ・ラス」と名乗らせるようにした。今ではネロではなく、イコと呼ばれる方が、少年には自然に思えるほどに笑顔も増えていた。


 アデルは、イコの手元の紙を手に取った。


 紙には、アデルにも記述が見えるように、魔素を練りこんだ特殊なインクが用いられている。だからこそ見えてしまった事実に、アデルは困惑していた。


 イコがラス家にいる間、どの程度魔導を学習していたのか、アデルは聞かなかった。当時を思い出させることは、傷口に塩を塗り、ピンセットで開いているようなものだ。あれから二年が経ったとはいえ、そう簡単に心の傷が治らないことをアデルは知っている。


 しかし、それならば、これは一体どういうことだろうか。アデルは、一枚の紙を見て首を傾げる。通常なら、魔導の開発は、学習を開始してから5年の年月がかかると言われている。その年月も、初級に相当するもので、アデルの手にある紙には、中級魔導以上の情報量が書かれている。とても六歳の子供に開発できる魔導ではない。


 アデルは、限りなく魔素のないイコに、魔導開発の才能という光明を見た。


「今日からは、バヘイラ魔導学院へ向けて勉強を始めよう」

「バヘイラ魔導学院?」


 幼き頃に両親に捨てられたイコに、俗世の知識などない。魔導以外の知識は、無垢な赤子同然の状態だった。アデルは、優しく微笑み、実の子に施すように頭を撫でながら口を開いた。


「あぁ、バヘイラ王国で最も優秀な学院だよ。バヘイラ王国は、世界をけん引する国家と言っても過言ではないから、世界で一番の学院でもあるんだ」


 暫く机を見つめてから、イコはアデルを見上げた。


「…父さんは、僕が魔導学院に入ったら嬉しい?」


 イコの無垢な瞳を見つめ、この選択の正否をアデルは悩んだ。しかし、永遠にイコを育てるには、人とは余りに儚い。子の未来を背負う恐怖は、爪を剥がす行為に酷似する。爪を剥がす痛みと共に、人体としては余りにいびつな内側の景色を観なければならない。この選択は、アデルにとって未知と既知を合わせた複雑な恐怖を含んでいた。


「あ、あぁ…嬉しいよ。君が幸せになるのが一番だ」


 本心と疑心を混ぜつつ、アデルは水面を投石で濁すように言葉を放った。


「うん、僕目指すよ。バヘイラ魔導学院!」


 ふと差す木漏れ日を、アデルはイコの笑顔に感じていた。


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