終章 予言の精霊の祝福(2)
「……あの、ずっとお祭り騒ぎなのは分かりますけど、朝早くから動かなくてもいいのでは……?」
「いやはや、女性の身支度ほど時間がかかるものはありませんよ。信頼のおけるメンバーが揃えられているとは思いますが、彼女達はプロですからね。それなりに覚悟はしていた方がいいとは思います」
「は。覚悟?」
待って、なんでドレスを着るだけなのに覚悟が必要なの?
ティーゼは思わず、肩越しにクラバートを振り返ったが、彼は意味深に乾いた笑みを浮かべたかと思うと、明確な言葉もないまま、ぎこちなく視線をそらされてしまった。
しかし、王宮でティーゼは、それを身をもって知る事となった。
※※※
飛竜が降り立ったのは、静けさが漂う王宮のど真ん中だった。
見事な城の造りにティーゼが呆気にとられている暇もなく、回廊から数人のメイドが足早にやって来て、ティーゼはクラバートから引き離された。
まずティーゼが連れられて来たのは、恐ろしいぐらいに広い風呂場だった。
メイド達は、ティーゼの胸にある大きな傷跡に驚く様子も見せず、同性だろうと他人に裸を見られる事を拒否したティーゼの意見を無視し、手早く服を剥ぎ取り、磨きに磨いた。メイド達の行動は有無を言わせず強行的で、ティーゼの予想に反して腕力も強かった。
その時点で、ティーゼの体力と精神力は底を尽いた。
しかし、浴室から担ぎ出されて、ぐったりとしている間にももみくちゃにされた。何をされているのか把握出来ないぐらいに作業は進行してしまい、ティーゼは何度か意識が飛んだ。
時間経過がよく分からない。「起きて下さいまし」と何度か声を掛けられたが、ティーゼは記憶が曖昧だった。コルセットを閉められた際には「うぎゃっ」と慣れない締め付け感に飛び起きたが、抵抗は無駄だと知って、ティーゼはまた意識を飛ばした。
「とてもお綺麗ですわ」
「でも、髪はそのままで良かったのかしら。上げた方が女性らしく――」
「わたくしたちは、あの方のご要望に従うだけですわ」
「お人形さんみたいねぇ。もっと飾ってはダメかしら?」
「駄目よ、コレット。装飾品は勝手に贈らないよう、言い付けられておりますもの」
囁かれる声に、もみくちゃにされていた手が止まっている事に気付いて、ティーゼは、ハッと意識を取り戻した。
目の前の大きな鏡には、長椅子にちょこんと腰かける短髪の令嬢の姿があった。くすんだ栗色の髪は、女性らしいウェーブを描いて青い花飾りがとめられており、濁りの混じった深緑の大きな瞳が、びっくりしたようにこちらを向いている。
ティーゼは、しばし呆然と鏡の中の彼女を眺め、彼女の胸元に薄らと浮かぶ見慣れた傷跡を見て、ようやくそれが自分である事に気付いた。
「え。これ、私……?」
思わず呟けば、ようやく鏡の中の少女に自分らしさが見えて、ティーゼは「なんだ、いつもの私じゃないか」と少し安心した。顔に薄く化粧がされているから、変な感じに見えるのだろう。
腰から下にかけてふわふわと広がるのは、深い青のドレスだった。その上から、明るい青の薄いヴェールの生地が、たっぷりとあしらわれて可愛らしい。繊細な金の刺繍まで施されたドレスは、よく見慣れた幼馴染の金の髪と、美しい瞳の色をティーゼに思い起こさせた。
ティーゼが、慣れないスカートに足を上下に揺らすと、ドレスの裾がふわふわと舞った。
「うふふ、落ち着きがないところも、実に可愛らしい方ですわねぇ」
後ろに控えていた若いメイドの一人が、鏡の中から、ティーゼに困ったような笑顔を向けて来た。
「ほんと、可愛らしい精霊さんみたいにキレイですわよ」
「はあ。あの、ありがとうございます……?」
「傷跡が目立たないように化粧を施してありますから、あまり強く擦らないようお願い致しますわ」
メイドの中で、年長者らしい落ち着いた女性がそう指摘した。
ティーゼは、自分の姿を今一度見降ろした。スカートなんて恥ずかしいと常々思っていたが、まるで少年には見えない今の自分を見ていると、人生で一度は着てみたいと思っていた可愛いドレスは嬉しくもある。
しかし、想像以上にドレスというのは窮屈に作られているらしい。ティーゼは、締めつけられた腹部を見つめ、悩ましげに首を捻った。
「……あの、これだけ締め付けられていると、ご飯が大量に入らないと思うんですけど」
「舞踏会なのにご飯ですってッ?」
「噂通りの子ねぇ。大量にではなく、適度に頂きなさいな」
「ケーキもあるから、きっと気に入ると思います」
時刻は既に、正午を回っていた。会場に案内するからと年長のメイドが告げたので、ティーゼは「やっぱり参加しなくちゃいけないのか」と思いつつも立ち上がった。
※※※
ティーゼは、少し踵のある靴が慣れなくて、ゆっくりとしか歩けない事にもどかしさを覚えた。
「立っていたら足元も見えないし、これ、普通の靴に変えちゃダメですか?」
「駄目です」
「それと、ドレスがすごく重――」
「駄目です」
「まだ何も言ってないのに!?」
ティーゼとメイドの二人が歩く長い廊下には、不思議と他に人の気配がなかった。王宮とは、こんなにも静かな場所なのだろうかと、ティーゼは首を捻った。
「あの、すごく静かですね。本当にパーティーとかやってるんですか?」
「入場までのルート上から、退避命令が出されておりますから」
「は?」
ティーゼの視線を横顔で受け止めたメイドは、済ました顔で「何でもございませんわ」としれっと口にした。護衛や見張りの衛兵も、彼女達から見えない位置に隠されているのだという事を知らないのは、ティーゼだけだ。
精霊族の血を引く人間は、心を落ち着かせてくれる不思議な空気をまとった者が多い。
メイドは、この数時間ですっかりティーゼが好きになっていたし、彼女の同僚達も、ティーゼの素直で裏表のない様子も気に入っていた。クリストファーがわざわざ人払いをしてあるのだと教えて、怖がらせたくもないと思い、知らないままにさせておこうと考えていた。
ロマンチックな『予言の精霊』の、その瞬間をお目にかかれるかもしれないと、先日に予告された多くの貴族達が、今や会場には詰め掛けて集まっているのだ。使用人達もその現場に立ち会いたいと殺到し、普段以上に仕事に精を出して、フロアをキビキビと動いている状況である。
出来るだけ緊張させない事。そして、クリストファーの企みを知られない事が、メイド達の仕事だった。
その思案を冷静な表情の下に隠して、メイドは思わず、可愛らしい精霊族の血を引いた少女を見つめた。自分は侯爵家のメイドであるので、ゆくゆくは彼女の世話も任せてもらえるのであれば、喜ばしいとは思う。
とはいえ、クリストファーは独占欲も強いので、婚姻後、屋敷に専属の使用人を置いてくれるよう説得しなければならないだろうが。
「えぇと、なんでしょう……?」
メイドに横目でじっと見降ろされ、ティーゼは、慣れない恰好を見られているのだろうか、と思ってそう尋ねた。
「――いいえ、なんでもございませんわ」
メイドがにっこりとしたので、ティーゼもつられて、ぎこちなく笑った。
「さて、予定通りの時間ですわね」
メイドは背筋を伸ばし、一つの大きな扉の前で歩みを止めた。普段は衛兵か、男性の使用人がやるところなのだが、彼女は仕方ないと内心諦めて扉を押し開けた。
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