四章 英雄となった男(7)

 クリストファーの姿が見えなくなってすぐ、ルイが少し考えるように首を傾げて「なんかごめんね? 僕は手紙を渡して来るから、ティーゼは先に少し休んでいるといいよ」と言った。


 ルイがマーガリー嬢に手紙を渡すべく向かった後、ティーゼは、ルチアーノに連れられて別荘へと戻った。


 暖かな日差しがあたる別荘のテラス席には、湯気の立つ紅茶と、卵サラダがたっぷり詰まったサンドイッチが用意されていた。もはや何も言うまいと、ティーゼは促されるまま腰を落ち着け、それらに手をつけた。



 というより、ルイに頼まれた分のミッションはクリアしたはずなのに、どうして自分は、ここに戻って来ているのだろうか。



 ティーゼは少し遅れて、流されるまま再び魔王の別荘に来た事に気が付いた。


 ルイがクリストファーに「後で別荘に来て話すといいよ」と告げていた事を考えると、まぁ仕方ないのかなとも思う。しかし、手紙を渡す事に関して一人で出来るのであれば、あそこでティーゼを解放しても良かったのではないだろうか。


 そうしていたら、わざわざクリストファーに、余計な時間を取らせず話し合えたかもしれないのに。


 クリストファーは律儀な男なので、今頃、どこかを歩いて時間を潰しているのだろう。祝いの途中で探しに来るほど、心配するとは思ってもいなかったから、王都からこんなに離れた所まで来た彼には、悪い事をしたなと思う。



「あれは英雄というより、まるで人間族の魔王のようですね」



 ティーゼがサンドイッチを食べ終えた頃、ルチアーノが唐突にそう切り出した。


 先程の幼馴染の様子を思い出して納得してしまいそうになったが、ティーゼは、少し遅れて自分の知るクリストファーを思い浮かべ、「いや違うんですよ」と否定の言葉を口にした。


「普段のクリストファーは、優しくて温厚なんです。多分、昔の事でも思い出して不安定になっていたんだと思います」


 彼の心配性は、例の事件からずっと続いている。それを、ずるずると引き延ばしてしまったのは自分なのだとも分かっていたから、ティーゼは申し訳なさが込み上げて、飲みかけていた紅茶カップをテーブルの上に戻した。


 ルチアーノが足を組んだまま、珍しく頬杖をついて、溜息混じりに言葉をもらした。


「温厚な人、ですか……」

「なにか言いたそうですね、ルチアーノさん?」

「たかが幼馴染にしては、ずいぶんと執着されている様子でしたので」

「執着ですか?」


 ルチアーノは噂を知っているから、きっと例の事件の事を言っているのだろう。考えるまでもなく、それはトラウマ物の心配性なのだと、ティーゼは複雑な心境を覚えた。


 それと同時に、一体どんな噂がそう思わせているのか、非常に気にもなった。


「ルチアーノさんは、英雄に関わる噂で、私の怪我についても聞いたことがあるんですよね? 私は、どんなふうに噂されているのか知らないんです。教えて下さいませんか?」


 ちらりと尋ねてみると、ルチアーノが肩眉をやや引き上げて「まぁ、よろしいでしょう」と興味もなさそうに言葉をつづけた。


「怪我を負わせてしまった女の子のもとへ、英雄が罪滅ぼしで足を運んでいるという噂は人間側では有名な話ですね。一部の貴族達の中には、それを良く思っていない者もいるようです。平民が遊んで暮らせる分だけの金を『エルマ』に支払い、その関係を切ってしまおうと画策した派閥がいたそうですが、英雄のプライドがそれを許さなかった、とか」


 ティーゼは、実際に流れている噂について詳細を聞いたのは初めてだったので、金の件に関しては驚いた。


 確かに良くは思われていないだろうな、と予想はしていたものの、自分はそこまで邪魔者に思われているのかと、少なからずショックを覚えた。


「……あの、なんか色々と黒いものを感じるのですが……もしかして私、英雄ファンに相当嫌われているんですか?」

「さぁ、どうでしょう。人間の事情なんて気にした事もありませんから」

 

 なんとも彼らしい台詞だったので、ティーゼは、まぁ当然かな、と妙に納得して口を閉じた。


 その時、ルチアーノが不意に口角を嫌味たらしく引き上げて、「それで、真実はどうなんです?」と続けて訊いて来た。


「英雄の逆鱗にもなると噂されている『エルマ』がいることですし、せっかくですから訊いてみましょうかね」

「逆鱗ってなんですか。怪我に関しては私が勝手に負っただけですし、あの時クリストファーを庇ったのは私だけじゃなくて、他にも四人の男の子がいたんですよ」


 妙な勘違いをされるのも嫌で、ティーゼは、幼馴染の心配性の原因について、当時の様子を思い出しながらルチアーノに語った。


 これまで詳細については人に話した事はなかったから、ぽつりぽつりと語る間に何度も言葉を途切れさせてしまったが、ルチアーノは普段のように冷やかす事も、話を遮ることもせず聞いてくれた。


 大怪我で大人達に叱られ、心配されて泣かれた事。全員が最低でも十日間は療養のためベッドから出られず、その間、クリストファーが何度もお見舞いに来ていた事。皆で彼を励まして、ティーゼも仲間達に励まされた事……



「ルチアーノさんも言ってたじゃないですか。女の子だと、傷一つで嫁の貰い手がなくなるって。クリストファーは貴族として教育を受けているから、多分それを気にしているんだと思います。怪我が治るまでの間は毎日花を持って来て、すっかり治った後も、時間があれば都度様子を見に来ていたぐらいです」



 話している間に、カップに半分残っていた紅茶は冷たくなってしまっていた。風が二人の間をすり抜け、ティーゼの柔らかい髪をすくっていった。


「実際に、あなた自身で気にした事はないのですか?」

「気にした事はないですね。平民の場合だと、必ず結婚しなければいけない訳でもありませんし、考えた事もないです」


 だいたい、この件に関してはクリストファーが気にし過ぎなのだ。十年も経てば傷跡は薄くなるし、今ではそんなに目立たないというのに「服をプレゼント出来れば良かったけれど」と申し訳なさそうに口にしたりする。


 思い出したら腹も立って来て、ティーゼは続けて愚痴った。


「あいつ、昔は塀の上を走ったり、木登りもした事がないお坊ちゃんだったんです。私達といるようになって、初めて友達が出来たってはしゃぐぐらいの箱入り息子で、喧嘩だって全然出来ませんでしたよ。ちょっと川で遊んだだけですぐに風邪を引くし、少し転んだぐらいで護衛の人が付いて来たり……受け身さえ取れない事を皆が知っていたから、だから、私達は反射的に彼を守ったんだと思います」


 あの時、幼いクリストファーは半魔族の容赦ない攻撃に耐えられないと、ティーゼ達は同じ事を思って動いていた。


 彼が貴族である事が脳裏に過ぎらなかったといえば嘘になるが、自分達が怪我をするよりも、彼が倒れてしまう方が、より多くの人間の悲しみや混乱を招くだろうと思った。


 仲間同士、同じ痛みを分けあうのは当然だ。しかし、クリストファーの場合は少しだけ違っていた。彼は新参者であったし、面倒を見ている隣近所の仲のいい子供達と似たように、ティーゼ達にとっては守らなければならない弟分のような存在だった。



 あの時、守れ、と叫んだのが誰だったかは覚えていない。ティーゼは直後に、猛烈な痛みと衝撃を受けてよくは覚えていなかった。



 ティーゼは思い出したその情景についても、ぽつりぽつりと口にした。腹が立ったのは自分の不甲斐なさのせいだと実感して、声は弱々しくなっていた。

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