四章 英雄となった男(4)
ルイが五回目の練習に入った頃、ティーゼは虚無の心境に至った。
六回目、七回目となると、突っ立って手紙を受け取るだけの役目に飽きてしまい、遠い眼差しで「どこでお役目御免になるのだろう」とぼんやり考えた。
思い返せば、まだ町の食堂にも行けていないし、気楽な散策プランも発動出来ていない。立派な屋敷の温泉に浸かれた事と、極上のベッドで眠れたのは良しとするが、一人でハーブのクッキー店を経営しているティーゼには、この長い祝日はまたとないチャンスなのだ。
あの町を出て、新しい何かに挑戦出来るような事をじっくり考えながら、色々と見て回れる絶好の機会だった。
ルイが悪い人でないことは、知り合ってからの短い期間で理解していた。彼は魔王という立場でありながら、驚くほど純真無垢で一途だ。
これも何かの縁ではあるし、別れた後も、ルイの恋路を応援し続ける気持ちを忘れないだろうと思えるぐらいには、彼には好感を覚えているし、応援したい気持ちも芽生えている。
だがしかし、現場を撤退するタイミングが掴めない現状は、実に悩ましい。
相手がちょっとした貴族であれば、ティーゼも気兼ねなく「またな」と立ち去れるのだが、今回の相手は魔王。つまり、特殊なパターンだ。
ティーゼとしては、本心から二人の恋を応援するつもりではあるが、予想される進展は亀の歩みほどの可能性が非常に高く、とりあえず国際問題に発展する事を避けるためにも、今は一刻も早い解放が望まれた。
「マーガリー嬢の代わりに口説かれておきながら、死んだ表情をするのはおよしなさい。陛下に失礼です」
「ルチアーノさんは黙っていて下さい。ルイさん、せっかく背丈を無視して練習出来ているのに、私が口を開いたら『声が違う』とか戸惑うかもしれないじゃないですか」
十二回目の手紙を受け取ったティーゼは、ルチアーノの指摘にぴしゃりと返答した。
何度考えても、本日の早い時間に休日プランがは勝ち取れる未来が見えてこないことに絶望する。手紙を渡す練習だけで十二回もするとは、一体どういう心情と思考回路をしているのだろうか。もはや、乾いた笑みしか出て来ない。
そんな彼女の向かい側には、練習によって前向きな表情を見せるようになったルイがいた。
「ねぇ、ティーゼ。僕の渡し方はどうだった? スマートだったかい?」
「あ~……うまくいくんじゃないでしょうか」
あまり見ても聞いてもいなかったけど、とティーゼは続く言葉を飲み込んだ。
ぼんやりとではあるが、後半の練習では、女性が耳にしても好感触な褒め台詞が多く出ていた――ような気もする。
ルイは、ティーゼの何気ない感想に満足したようだった。彼女とルチアーノを交互に見ると「手紙を渡した後は、どうやって立ち去るほうがいいかな」と次の課題を口にした。
「マーガリー嬢の前だと、いつも緊張してしまうんだ」
そう言って、思案に入って腕を組んでしまった。彼の両手が塞がってしまったので、ティーゼは、受け取った手紙を返すタイミングを待ちつつも小首を傾げた。
思えば、ルイはいつも緊張すると口にしているが、昨日の魔王と女騎士のやりとりを思い返す限り、彼の方には緊張なんてなかったように思える。自分の目が未熟なのだろうか?
……まぁ、ルイは謙虚で良い魔王なのだ。
本人が緊張しているというのだから、そういう事にしておこう。
ルチアーノがルイへ助言を始める様子を見守りながら、ティーゼは、余計な事を言って話しを長引かせるのは利口ではないと判断して黙っていた。
しばらく噴水の方を横目で眺めていると、ルチアーノに話を聞いたルイが「なるほど、そうか」と答え、唐突に「ティーゼもそう思うでしょう?」と同意を求めて振り返った。
話しを聞いていなかったティーゼは、思わず「え」と疑問の声を上げかけた。
ティーゼはルイの顔を視て、慌てて声を呑み込んだ。ルイは自信がついて明るくなった表情をしていた。折角練習で調子を掴んだルイに対して、聞いていなかった、と答えるには雰囲気を壊してしまいそうな気がする。
うん、練習を無駄にするような行動はとらないでおこう。
彼らがどんなやりとりをしたのかは不明だが、ルチアーノを見やれば、あなたは同意すればいいのです、と目が語っていた。
ティーゼは笑って誤魔化す事にした。普段のがさつさを潜めさせて、やんわりと曖昧に微笑んで見せた。すると、ルイは蕩けるように笑みを深めて、喜びを重ねて表現するように「ありがとう」とにっこりとした。
その時、空気が凍りつく殺気を覚え、ティーゼは笑顔を引っ込めた。
肩から首の後ろにかけて感じる、押し潰されるような重圧感は、ギルドの仕事で強い害獣と遭遇した時のような緊張感を思い出させた。いや、むしろ、それよりも遥かに強い、研ぎ澄まされた殺気に本能的な危機感を覚える。
反射的に振り返ったティーゼは、そこにいるはずのない人物を見付けて目を瞠った。思わず、錯覚だろうかと数回瞬きしたが、吹き抜けた風に彼の明るい栗色の髪がなびくのを見て、現実なのだと理解した。
いや、そういうことじゃなくて……
ひとまず幽霊や幻ではないとは分かったが、問題はそこではないのだ。呆気にとられたティーゼは、そのまま彼に疑問をぶつけていた。
「……なんで、ここにいるの?」
そこにいたのは、侯爵家の男子として相応しい正装に身を包み、英雄として授与された剣を腰に差したクリストファーだった。
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