ジョニーが凱旋するとき

緑茶

本編

 人間性というものがどこからくるのかをわたしは知らない。

 そのひどく雄弁に聞こえて、その実何も語っていないような三文字について、わたしは彼と出会うまで、否、彼と一度別れるまで、考えたこともなかった。

 そのうえでわたしは、あらためて知ることのできる機会を経て、結局知らないと言っている。

 

 わたしの彼は戦場で死に、生き返った。

 そのあとの彼は、ほんとうに彼だったのか。

 いまもなお、分からないでいるからだ。



 世界はよくなっている、なり続けている。それは各種のデータを見ても明らかだ。

 経済成長。環境保全。どれほど多くの氷がとけて崩れて、どれほど多くの種が地上から姿を消しても、それでもそのように言い張ることが出来る。

 人類は一度も歩みを止めたことはないし、滅びが訪れぬ限り、いかなる負の情景も、成長の痛みとして取り込まれる。

 ゆえに、あらゆることは差異でしか、偏差でしかない。

 

 皮膚をただれさせる毒をまき散らす、手製の太陽があらゆる地上で炸裂するリスクを避けるために、世界はあらゆる闘争、紛争をさざなみのように広げ続け、ついには、どこまでが戦闘区域か、どこからが聖域であるのかが一切不明瞭になるまでに、地図を塗り替えた。

 誰もそれを戦争とは呼ばない。ただ命の損耗と、それを糧にして循環する経済があるだけだ。


 ならば、あえて神妙な顔をして振舞う必要はない。

 今は中世ではない。

 決闘は存在しないし、領土はモザイクで、誰もかれもが英語を話す。


 だからあっさりと、人々は選んだ。

 自律兵器による代理闘争。

 日常の、買い物の延長で起きる爆発。消滅。

 それが顧みられることもなく日々は続く。

 無限の「まだ大丈夫」の後退。

 茹で上がるまで水にいると信じているカエル。

 特別なことなどなにもない。

 日常と非日常に、死と生に、大した違いなどない。

 過去と、未来も。



 だからわたしも飽いていた。おきまりのように、うたかたの日々が退屈で、きっと色にたとえるなら灰だと。

 だが安心するといい、どうせみんな同じだ。死ぬときは死ぬし、それがなければ、今がずっと続くと。


 そう思っていたときに、わたしは彼と出会い、さかんに恋をした。


 何も思わなかった。

 胸が高鳴り、その腕に抱かれるとき高揚感をおぼえ、やわらかな布の感触をいとおしいと感じた。

 しかし、ほかの大勢と同じように、それがいつか終わることも予期していて、それでもなお、あえて旧世紀の人々と同じようにふるまった。

 恋物語の、再演。

 だからわたしはいくぶんかの皮肉を込めて、彼を愛した。

 彼もまたわたしを愛したのだと信じる。お互いに。

 

 彼が再び戦地に赴くと聞いた時、わたしは彼に、毛糸のマフラーを手渡した。


 これをわたしだと思っていてください。

 そうすればあなたは人間として生き続けられます。

 生きて帰ってきて。

 死なないで。


 アナクロニズムだ。このやりとりそのものが滑稽だ。

 きっとそう感じていたに違いないけれど、彼はそれを甘んじて受け止めた。

 そしてわたしを残して、ティルトローターのざわめきと、ほこりをまきちらす風の向こうへ消えていった。


 忘れよう。そのほうがいい。

 わたしは今泣いている。

 けれど、その涙も、そのうち、あのなめらかな日々の中に溶けていくだろう。

 世界はまどろみに落ち込みながら、ゆっくりと滅びつつあるのだから、わたしもそれを受け入れるだけだ。


 そう、思っていたけれど。わたしは少し、見誤っていた。

 眠りをこばむかわいそうな人たちは、いまだ戦場のなかにはびこっていたのだ。



 ひとは自分のためだけには生きられません。

 となれば結局は生きるのも死ぬのも誰かのため、ということになっていく。

 ならばそのどちらも、他の何かに決定権を与えてはならないのです。

 我々のあずかり知らぬところでそれらが動くことは、きっとおそろしいことでしょう。


 啓蒙を、理性を、感情が激情が、上回る。

 大部分から共感を得られない以上、それは信仰だ。

 でも、それを信じている人たちが確かに居た。


 戦争の機械化に反対する軍人連盟。

 旧世紀の傷痍軍人たちで構成された数人ばかりの寄り合いはいつしか、ただ単純に機械による闘争というものへの茫漠とした嫌悪感を持つ、もとの成り立ちをまるで知らない若者たちを含めることで、大規模なゲマインシャフトと化していた。

 自社の戦闘兵器の売り込みに躍起になる他の企業と同じぐらいに。


 わたしの彼はそこにいた。

 そこにいて、ドローンの銃撃の雨に突っ込んでいき、人間の、種としての「有用性」を、世界に知らしめるためのモルモット部隊として、あらゆる場所を転々としていた。

 野放図な茶番も、繰り返せば繰り返すほど、それが決してジョークなどではないことが分かる。自分たちに目を向けるようになる。

 自ら銃を掲げることがもはやかなわない老人たちの、それは黄昏のゆめだった。


 そして、それはそれなりの成果をあげていた。

 機械は無理をしない。不調が起きれば撤退し、控えの予備機と交代するし、論理的に欠陥のある作戦には賛成しない。

 勝てる戦いしかやらない。


 しかし、人間は違う。

 修復不可能なほどのダメージを無視して前に進むには、故郷に残してきた女のことを考えて前進すればいい。そうすればアドレナリンが出る。

 突破不可能な鉄壁の城砦を打ち破るには、向こうの予想がつかない行動をとればいい。そのためには理性のいくらかを、アンプル注射で吹き飛ばすことだ。

 とたんに、こころをもたないつめたい機械たちはパニックを起こし、遮二無二突っ込んでくる、恐ろしい形相をした男たちに対応できなくなる。

 華々しい勝利、アピール。どうです、せんそうというものは依然として、人間のためにある。流される血も、消費される銃弾も、われわれのものだ。

 世論は少しずつ変化を起こして、彼らに居場所を与えるための声が上がり始める。


 そこで立ち止まり、これまでを顧みるのは、機械がやることだ。

 人間はとまらない。

 彼もまた必然、戦いを続けた。

 夢を見る死にかけの者たちが本当に死ぬまで、彼らの進む戦場は過酷さを増していく。それはひとつの流れであり、とめどないものだった。


 その時その時の一瞬一瞬で、彼が何を考えていたのかはわからない。

 ただ確かにわたしに伝えられた情報によれば、彼はいつもわたしの話をしていたということだ。

 この仕事が終われば自分は帰る。

 今はダメだった、なれば、次こそは、次こそは。


 目減りしていく帰還への希望を決して手放すことなく、彼は同胞たちを励ましあい、戦い続けたのだという。

 はじめは確かにカネのためだったのかもしれない。

 しかしいまは、わたしのためという理由が出来ていたということだ。

 愚かなことだ。


 わたしがそれをおろかだと断じる理由はひとつしかない。

 

 彼はあるときある戦場で、塹壕に潜んでいた際に、敵の砲弾の直撃を受けたからだ。



 銀河系のようにネットワークがのびているため、荒い写真しかお送りすることができず、申し訳ございません。

 若い士官の言葉とともに、今の彼の姿がうつった。


 芋虫。

 呼吸する芋虫だ。

 手足が失われ、残った胴体は包帯に巻かれて奇妙な丸みを帯びている。

 視力も聴力も、むろん、会話をする能力も失われた頭部には、生命維持のための四角い装置が嵌められていて、それがパイプを通して、わたしには構造理解ができない複雑な延命機構に繋がっている。


 心中お察しします。

 どうかこらえてください。彼は立派にやりました。


 わたしはふるえていたが、その理由を、傍らの若い男は知らなかった。

 わたしはただ、この運命に対し、狂笑したかったのだ。


 わたしは泣くべきだった。叫んで、神なるものを呪うべきだった。

 それがきっと、彼と彼の所属する寄り合い所帯の留飲を下げたはずなのだ。

 そうしなかったのは、わたしと彼の行き着く先が、収まるべきところに、あまりにもぴったりと収まったような気がしたからだ。


 結局のところ、これが答えだ。

 誰かを愛することが憎むことが人間の本質だとして、それが他のあらゆるものに対する優越を意味するわけでは決してない。

 なぜなら彼は今、死に続けて、生きているからだ。どれだけ抵抗しても無駄で、すべては差異に回収される。

 

 時代の要請ツァイトガイストのなかにいることは酩酊に似ていて、わたしはその後の時間を夢見ながら過ごした。

 提示されるその後の彼へのあらゆる選択肢をわたしの目は見た。

 延命処置。そのまま闇に閉ざされて生き続ける。

 決断。機構を停止して、彼を安楽死させる。

 第三の選択肢。

 わたしは戸惑った。

 それを選択することでどんな未来が待っているのか、予想が出来なかったからだ。

 わたしは、あろうことか立ち止まり、迷った。

 考えた。

 そうこうしているうちにまた時間が過ぎて、わたしの知らないうちに、処遇が決まっていた。


 第三の道。

 新たな戦争技術への、その生命の活用。

 彼は、そのテストベッド、プロトタイプとして生まれ変わることが、正式に決定された。



 戦場の様相を一変させたければ、相手の通信を数秒間遅らせることだ。

 そのためには、その根源に潜入し、スピーカーに向けて何かを叫ぶ者を暗殺すればいい。

 たったそれだけで、劣勢は優勢に変わり、血を噴き出すユニフォームの色が逆転する。

 そんな離れ業など、出来れば苦労はしない。

 ではその声に応えて見せましょう。当社の開発したサイボーグユニットであれば可能です。


 搭載するのは彼の頭脳。兵士として戦場を駆け巡った経験を駆使し、その鋼鉄の四肢が一輪駆動車モノサイクルを駆り、夥しい命の損耗のただなかを潜り抜けて、敵の中枢へともぐりこむ。

 ステルス機能により、誰が、どこから入ってきたのか相手はまるで分らない。

 その混乱のなかで、彼は背部の高周波刃を頸動脈に突き立てる。一瞬で肉と血が焼き切れるので、その場では、放心してひとりでに崩れ落ちたようにしか見えない。

 戦況が大幅に移り変わり始めた頃に、彼はモノサイクルで、何事もなかったかのように元の場所に戻る。

 阿鼻叫喚をすり抜け、相手に致命傷を与える一本の弓矢。


 ギュゲス・システム。それが生まれ変わった彼に与えられた名だった。

 意思を持たぬ殺意の指輪は、所有者の意のままに、善行も悪徳も成し遂げる。

 彼がやったのは、戦場での兵士の有用性獲得、その説得材料を、より強固にすることだ。

 人間の本質はその複雑な頭脳にある。頭脳が判断し、時に矛盾した状況の中、柔軟な対応を見せ、戦場を切り抜ける。

 それが可能なのは、人間を素体に使った、漆黒の強化兵士たる彼だけだ。

 そんなうたい文句とともに、彼は華々しくデビューした。


 わたしはといえば――困惑していた。

 彼のことが、わからなくなっていたのだ。



 彼が斃れ、心臓の鼓動が止まれば同じだと、忘れられると思っていた。

 この身を切り裂く感情も、消えてなくなる。そうすれば一切の時系列から解放されるのだ。


 だが、彼は強かった。兵士として、存分に有用性を発揮していた。

 その新たな身体で、あまたの戦場を疾駆していった。

 その果てに、彼は名を高めていく。


 そして恐れていたことが、きっと老人たちが恐れていたことが起きたのだった。


 我々のギュゲスシステム搭載型戦闘義体は、作戦行動時におけるあらゆるリスクを除外して行動することが可能です。

 凡ての環境において、最良の結果を裁定し持ち帰る。

 彼にはそれが可能です。

 

 文字が踊り、彼は見初められるようになる。ひとつの製品として。


 老人たちの顔も見たことないような若いスタッフたちがそんなキャッチコピーをつけたせいで、あらゆる戦争法人が彼に注目し、その引き抜きを迫るようになったのだ。

 

 老人たちは、いっそのこと自分たちの居るカサブランカに爆弾でも落としてくれればよかったのにと思ったことだろう。

 しかし戦争法人たちは、真綿で首を絞めるがごとくに、より緩やかな手段で迫った。買収。

 そして彼を、自分たちの世界、自分たちの資本に取り込もうとしていった。


 つまり彼は、わたしの彼は、事実として、死ねなくなっていった。

 ただの兵士としての役割を果たすことが出来ず、いたずらに戦場を駆け続けることもなく、交渉が沈静化するまで生き続けることを強いられた。

 それはつまり、遠く離れた場所にいるわたしの諦めが、いつになっても決着しないということを意味するのだった。


 それは苦痛の引き伸ばしだ。

 彼と離れて苦しい、寂しい。

 その思いが人工的であるに違いないのに、いつまでも続くのはやはりつらかった。


 だからわたしは望むようになっていった。

 彼の速やかな死を。彼の安らかな眠りを。

 そうすれば彼は、セピア色の思い出になる。わたしの重荷ではなくなる。


 そう思っていたのに、世界はわたしなど、ただの点としか見ていない。

 あらゆるカメラの目が、いつしかわたしにも向けられるようになった。

 あの無敵の鋼鉄兵士の恋人、故郷を離れて彼を思い続ける彼女の心中とは。

 いくつもの目、目。


 わたしは逃れるために、故郷を捨てることになった。

 ヤバくなったら、俺のセーフハウスを使ってくれ。職業柄、世界中にある。

 その通りだった。

 わたしは、うさんくさい彼の「旧友」の手も借りながら、世界中を転々としていった。

 しかしそれでも、わたしの胸のうっとうしいざわめきは、ひとつも楽になることがなかった。

 わたしは疲弊し、現実と空想の入り混じる世界を行き来しながら日々を暮らすようになった。

 食事も隠れてする。眠ろうとすると瞼の裏にレンズが見える。

 そして彼だ。彼がわたしから離れない。


 ほんのたわむれでしかなかった、彼の存在。今となっては何よりも大きくなっていた。

 わたしから皮肉はなくなって、彼の中身、肉そのものに向かい合う必要が出てきた。わたしの中で繰り返される問いがあった。

 わたしが彼のせいでこんなにくるしんでいるのは。

 それは、私が本当に彼を愛してしまっているからではないのか。

 もしそうなら、ああ、とうに捨てたはずのそんな想念が本当にわたしのなかにあるなら。

 わたしが彼を戦場に送り出したことは、大きな罪に違いない。


 陳腐にさえ響く罪なる言葉を平気で吐けたのは、わたしがとうに疲弊していて、わたしの奥の奥にある根源的な欲求に向き合わざるを得なかったからで

 つまりそれは戦争という現実が取り去られ、白紙の本能タブラ・ラサとなった際にいかなる狂態を示すことになるか、のモデルケースだったからだ。


 わたしはいま、彼の愛人であったという女に銃口を突き付けられている。

 明らかに正気ではないし、皮膚に浮腫がある。おなかにいるのよ。おんなのこなの。

 そんな言葉もどこまで本当か分からない。周りにはきっとカメラドローン。居ようが居まいが同じだ。現実は差延だからだ。


 彼を返して、返してよ。あの人があんな人間になったのは、あなたのせいよ。


 あなたにはあれが人間に見えるのか。


 最初はもっと優しかった、でもどんどんおかしくなっていって。


 違う。最初、彼は機械だった。わたしに出会って、人間になった。それが最初だ。あなたは知らないだけだ。


 でも、だけど。

 きっと、それを含めて。わたしのせい。

 わたしが居なければ、という部分には、全面的に同意する。

 だからわたしは謝ろう。


 ごめんなさい。


 わたしはそのとき、生まれて初めて、まともに、慈悲の気持ちをもって、笑みを浮かべることが出来たような気がして。

 銃口がこちらを向いて、トリガーが引き絞られようとしていた。


 そして、現実は溶け合った。



 モニターはもう一つのリアルだ。

 わたしはわたしたちは、それを見ていた。


 今まさに彼は死にかけていた。

 鋼鉄の身体は引き裂かれ、絶え間なく黒い人工血液が流れていた。

 各種駆動機関が正常化を図るために必死の働きを見せて、結果その四肢はけいれんするかのように震えている。

 腕は刃をつかもうとするが滑り落ちる、その動作を何度も繰り返す。


 向かい側に立っていて影を落としこむのは、彼とほぼ同じ姿をした兵士だった。

 違うのは、無傷であるということだけ。


 こちらの技術が盗用されていた。

 あの企業も同様の兵士を採用したのだ。

 有用性の雌雄がここで決する。


 そして彼は終わるのだ。

 いくつもの視線を介して作り上げられてきた彼の英雄叙事詩は、ここであっさりと幕切れする。自分と同じ力によって。

 まるで対消滅するように。


 わたしはその後の沈黙を、彼が死にゆくはずの数分を、なにもせずにすごした。

 なにもしなくていい、なにもおきないのだ。

 だれがしんでも、かんけいない。


 そう思っていた。

 それで済むと思っていたのに。


 誰かがかたずをのんだ。

 誰かが「あっ」という声を出した。


 わたしが画面を見たとき、それは起こっていた。


 彼の震える腕が、それをつかんでいたのだ。

 いつの間に、とか、どうやって、とかは、無意味だ。いくらでもやる余地があっただろう。わたしはいっさいを曝け出していたのだから。


 だから、彼が、わたしがあの日手渡したマフラーを、とうにボロボロになっていたそれをしっかりと握りしめて、まるで聖骸布のごとくに、その首元に巻き付けて、

緩慢に立ち上がったことも、きっと、合理的で、道理が通っていることなのだろう。


 賭けはうまくいった。

 老人の声がする。

 反響して、いくつもの動揺が口々に叫ぶ。その中には、あの女の人も含まれている。


 機械を人間が超えるのは、やはり0と1の狭間からくるものでもなければ、事実の蓄積でもない。人間だ。人間であったという事そのものが、変数を呼び起こす。埒外を引き起こすのだ。

 我々の勝ちだ。

 彼が再び立ち上がり、我々は有用性を獲得する。

 我々、兵士たちの。


 わたしにはもう聞こえていない。


 うそよ、もうやめさせて。これ以上戦わせないで。

 狂ったように叫ぶ彼女は取り押さえられていて、もう見えなくなっている。

 わたしは宗教画を見ている。

 理解の及ばぬものをみたとき、人は涙をながす。それは古来より遺伝子に刻まれた覆しようのない機構。設計図のない、神秘に満ちたシステムだ。


 わたしが見つめる中で、彼はゆっくりと立ち上がり、同胞に向き合った。

 相手は動揺するように後ずさった。まるで人間のように。


 それだけだ、それだけで十分だ。

 あとは勝っても負けても同じことだ。

 老人たちの痰の混じった宣言のなかで、わたしは彼を見ている。


 彼はマフラーを片手で掴んでいる。

 ひょっとすると、とうの昔に誰のものであったのかを忘れてしまったはずのそれを。

 今それを支えにして、彼は立ち上がった。

 彼自身でさえ、説明のできない衝動によるものかもしれない。


 捨てきれなかったのか、老人たちが保存していたのかはわからない。重要なのは結果だ。

 彼が機械の仮面の奥で咆哮し、刃を構えて突進するところで、映像は途切れた。


 わたしは涙を流している。

 不快だった。

 しかし不快さを感じるというのは、いつしか快さを感じることに繋がるのだろうか。

 だとしたらこれはやはり、そういうことだ。


 わたしは彼を。

 あなたを――。



 人間が白紙の脳みそに己の思惟を書き連ねていくだけに満足しなくなったのはいつからだろうか。


 人はいつしか、あらゆる外部記憶装置を駆使して、それを自らの精神と、心と呼んだ。

 やがてそれらに整合性を求めるため、つなぎあわせ、バラバラの場所から意味を運んできて、一枚のタペストリーを保持するようになった。


 それを、誰かが「物語」と呼んだのが、はじまりだった。


 わたしにとっての、あなたが曝け出した姿のすべてがそうであったように、あなたにとっての外部記憶装置は、マフラーだったのだろう。


 なぜなら、あなたは今も戦い続けているからだ。世界の遠いどこかで。


 あの後、どうやって、どのようにして、あの場を切り抜けたのかはわからない。相手が死んだのかどうかも、わたしは知らない。

 どうでもいいことだ。

 全てが終わるとき、全てが語られるはずだ。


 しかしそれまでは、あなたは生き続ける。

 あなたの物語が、わたしの、快さと不快さを感じる、駆動する生命の、外部装置として機能し続ける限り。

 あなたもまた、わたしの捧げた物語を背負い続けねばならない。


 しかし、あなたはまだ生まれたばかりだ。

 祝福するには、多くのものが不足している。

 あなたは一度死んで、生き返った。

 あなたがあなたであることを再定義するためには、もっと多くのページが必要だ。


 だからわたしは、あなたのために、この物語を書いている。

 いまは省略されている部分も、いずれは完ぺきな形で届けられることと思う。

 だけど、あなたが聞いても引っかからないように、いくぶんかを作り替える可能性がある。

 きっとそれくらいは、ゆるされる。


 現実と空想の境目が差異でしかないというのなら、何もかもを諦める必要だって、きっとありはしないのだ。


 だから、生きていてほしい。

 あなたはこれから先、多くの物語を獲得し、「あなた」として、存在を定義するために、この茫漠とした世界で足掻き続けなければならない。

 それまでは辛抱して。

 わたしも、一緒に頑張る。


 あなたが帰ってくる、その日まで。

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