6.君たちの微笑みのために


 白い雪ばかりの山中で、雪の壁を築き、そこを盾に銃を構える雪中迷彩の隊員。白い戦闘服を着込むその男に、寿々花も釘付けになる。

 見間違えるはずがない。ゴーグルで目元は隠れているが、笑みのない冷たい横顔。夫の将馬だったからだ。


「あ、三佐。もしかして三佐!」

「うん、そうだ。館野だよ」


 拓人も見抜いた。彼に取ってももう良く見知った顔になってくれていて、寿々花の胸からじんわりとしたものが込み上げてくる。

 そうだよ。たっくん。きっと、たっくんが生まれたころ……。三佐があなたを奪われていちばん辛いときに、この訓練をしていたはず。心の中を無にして、いや……、忘れたいからこれほど厳しい訓練に身を投じて、なにも考えたくなかったのかもしれない。


 神楽教官はその時から将馬の境遇を知っていて、訓練を見届けた恩師なのだ。

 その子がいま。将馬が父親とは知らないのにそばに来るようになって、その子が父親とは知らないのに『父の日のプレゼントを大好きなパパと同じように渡したい』と言ってくれるまでになった。教官もきっと『ここまできた。その間、君のお父さんがどんなふうに頑張っていたか知っていてほしい』と思ってくれたのだろうか。


「雪中遊撃の訓練はね、北海道の海からなにかが侵略してきたら、雪の中でも防衛するための訓練なんだ。こうして護っていかなくちゃいけないんだ」

「……戦争するってこと……?」


 一目見れば、大好きな将馬おじちゃんが危ない仕事をしていることがわかってしまう戦闘員の姿。いつもは『かっこいい』と目を輝かせる拓人が不安そうな顔になった。

 それでも、神楽教官は優しい笑みを拓人に注いでくれる。でも目つきはは真剣だった。


「いちばんは、戦争をしないように努力すること。相手が襲ってきても、追い返して戦争は避けること。襲ってきたら最小限の被害で食い止め追い払うこと。戦争をしないために、少しの力で返せるように頑張っていくのが自衛隊だよ。でも、雪の時になにかがあったら、館野が行く。自衛官だからだ。雪山のバッジはその仕事が出来る証明で、彼が自ら得た使命なんだ」


 拓人が黙ってしまった。泣きそうな顔をしていた。

 寿々花が抱きしめようとしたその時、神楽教官がいつもの優しい微笑みを絶やさないまま、拓人の黒髪を撫でてくれる。


「どうして頑張れると思う? たっくんがしあわせに笑って楽しく学校に行けるようにと思ってだよ。奥さんになった寿々花ちゃんが、これからもずっと、沢山の人々に素敵な演奏を聴いてもらうためのお仕事を続けられるように。拓人君と岳人パパがしあわせに、ずっと一緒に暮らすため。館野の雪山バッジを付けている胸の奥に、君たちがいるから、絶対に護るという気持ちがあるから、頑張れる男がここに行けるんだ」


 それは拓人のため。本当の父子ではないと思っている拓人にとっては、まだぴんとこないところがあるのかもしれない。でも、ここにいる事情を知る大人たちにとっては、写真の中にいる険しい横顔の男が秘めた信念が伝わってくる話だった。

 決して会えない息子のために。せめてもの父親としてできること、自衛官という生き方を選んだ男が最大限にできることでもあったのだろう。


「伊藤のおうちにいる遥ママがピアノを弾いて拓人君と楽しく唄ったり、芹菜ママが安心してお菓子を焼いて、笑顔で皆にお茶を煎れてお喋りをして、ユズに広海君が売っている『荻野のお菓子』が毎日無事に生産できて、たくさんの人が美味しく食べられる。そんな普通の日が普通にある。それを護っていくためだよ。そのためなら館野は吹雪の中も向かっていくよ。拓人君、だから、館野を応援してあげてくれよな。今日の応援、館野はすごく喜んでくれると思うよ」


 今度の拓人は神妙にこっくりと頷いた。

 その後も拓人は、神楽教官がめくる『冬季遊撃レンジャー』のアルバムを真剣に眺めていた。

『かまくら』のようなものをつくって休息をする姿に、凍ってるだろう食料を頬張っている姿もあった。最後は無事に訓練を終えた日の集合写真。その端に、現役だった神楽教官がいる。自衛官の男は職務中は笑わない。そこには隊員を厳しく鍛え抜くためだけに存在する強面の教官がいた。いつも楽しくお茶目な神楽のおじさんではなかった。


「教官、怖い顔してる……。でも『陸将補』も、制服の時は怖い顔するんだよ。三佐も……。お仕事の顔なんだね」

「うん。そうだね。でも、教官はおうちでは『うほうほのパパ』だったよ。ユズがよく知ってるよ。館野も、拓人君と寿々花ちゃんの前では、優しい男だろ」

「うん。パパの親友で、すっごく優しいよ。だから、ずっとパパとお友だちでいてほしいんだ……。ずっとすずちゃんと、パパと三佐と一緒にいたいんだ」

「いてくれるよ。絶対に」


 今日は将馬おじちゃんが号泣する日だと思っていたのに、寿々花が号泣しちゃいそう。もう~涙を堪えに堪えても、ぽろぽろ出てきてしまってハンカチで何度も拭った。

『すずちゃんなんで泣いてるの』と、拓人がきょとんとした顔で寿々花の顔を覗き込む。


 しんみりしたテーブルに優しい空気を運んできたのも、芹菜ママだった。


「すずちゃん、将馬さんが雪の中、頑張っている姿に感動したのよね。さあ、お茶しましょう」

「はい。拓人君が好きな『いちごチョコサンドさくさくパイ』。ユズがお店から持ってきてくれたよ」


 芹菜ママが素敵なティーカップに紅茶を煎れてくれる。広海さんからも、荻野製菓のお菓子の盛り合わせをだしてくれる。拓人はもうそちらに気が向いたようでウキウキとお菓子を食べ始めた。

 寿々花もそれに釣られて、涙をふいて、拓人と一緒にお茶を楽しんだ。


「私、娘がほしかったの。だから、かわいいユズちゃんがお嫁さんになってくれて嬉しかったのよ。でも……。たっくんを見ていると、やっぱり男の子もかわいいわね~。広海がちいさい時を思い出しちゃう」

「母さんったら。拓人君を見るたびに、俺が小さい時を思い出すって言うのやめてくれよ。もういい年齢の中年になろうかとしているんだからさ」

「いや~。私も娘ふたりだったから、ちいさな男の子がこうして乗り物や自衛隊に興味をもってくれると嬉しいもんですね~」


 こちらのお宅でも、拓人を中心にして、ママと教官と息子さんが和気藹々と目元を緩めて和やかな空気になっていく。

 楽しいお茶の時間を過ごしていると、クッキーも焼き冷ましが完了し、ケーキ生地も焼き上がった。


 芹菜ママと一緒にクリームを塗って、拓人も真剣な顔で生地をくるっと丸める。ホールのケーキよりもくるっと上手に巻けたことが嬉しいようで、できたできたと寿々花に向かって拓人ははしゃいだ姿を見せてくれる。その様子ももちろん動画撮影済み。


 雪原をイメージしたロールケーキには白い生クリームを。広海さんのアイデアでホワイトチョコを削り落として雪が降り積もったようにデコレーションをして、最後に拓人がデザインをして焼いた雪山バッジのクッキーを乗せる。抹茶クリームのロールケーキはフォークでつんつんとクリームを立たせて緑の草原風に。そのうえにジーンズのクッキーを乗せる。

 最後にアイシングでメッセージを描いたプレートも乗せた。



 ケーキが出来上がると、芹菜ママがまたお洒落な箱に詰めてくれる。

 ほんとうにお店で買ってきたような姿に整ったのは、このママのセンスのおかげであって、荻野製菓に勤めている広海さんがいろいろな商品包装の知識もあり、会社から見合うものをもらってきてくれたからだった。


 寿々花はいちおう材料費を渡そうとしたが、受け取ってくれなかった。

 これは母親の遥も予測していたことだったので、それならばと季節のフルーツである『さくらんぼ』のギフトセットを御礼の品として持ってきた。そちらを喜んで受け取ってくれた。



「おじゃまいたしました。今日は素敵なケーキづくりを手伝ってくださり、本当にありがとうございました。将馬さんも岳人さんも喜ぶと思います」

「ありがとうございました。たのしかったです。プレゼントできあがってうれしいです」


 御礼で丁寧にお辞儀をする寿々花の隣で、拓人もきちんとお辞儀を倣ってくれる。


「また来てね。でも芹菜ママ、今度はたっくんの『赤いスイートピー』聴きたいわ。ママもあの曲、大好きなの」

「じゃあ、こんどはすずちゃんにクラリネットを持ってきてもらって、唄うね」

「あら。素敵! 寿々花さんの演奏も聴きたい! だって自衛隊の音楽隊演奏者ならばプロですもんね!!」

「ご迷惑でなければ、その機会にぜひ」


 芹菜ママは本気のようで『絶対よ。またバーベキューをしましょう』と、嬉しそうな笑みを見せてくれた。

 息子の広海さんと神楽教官にも御礼を述べて、ケーキを大事に後部座席にのせ、寿々花と拓人は伊藤の家へと急いだ。


「パパたち帰って来ちゃうかな」

「そうね。そろそろかな。急ごう」

「すずちゃん。箱を開けるまで内緒だよ」

「もちろん」


 運転をしながら寿々花はフロントミラーを見る。そこには後部座席のチャイルドシートに座っている拓人が映っていて目が合った。ふたりでにっこりと笑い合う。


「帰ったらクラリネットの準備もしないと……」

「ピアノのことも内緒だよ」

「もちろん、もちろん。たっくんも遥ママと頑張ってよ」

「こっそり練習したから大丈夫だもん」


 もうひとつのミッションも密かに準備済み。

 日が長くなった北国の初夏。大きな川沿いを走り抜け、真駒内にある実家へと寿々花と拓人は急いだ。


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