4.凍てつく白に彩りを


 話がまとまり、今後の手続きを早めに進める日程調整すらも、父親ふたりはとんとん拍子で決めていった。


 今日は札幌のホテルに泊まることになっているという鳴沢父子を見送り、父と母とは伊藤の実家でひとまず別れた。

 十六時、午後四時。夕暮れの時間といいたいが、この季節の北国は既に日没している。もう夜の空だ。

 街のあかりが煌めく中、自衛隊制服の外套を着ている姿で、二人揃って真駒内の街を歩く。


 黙って歩いている彼がなにを思っているのか。寿々花はそっと彼を見上げてうかがう。

 いつもそう、考え読み取れない無表情さで寡黙であることが多い。

 でも、じっと見上げている彼女に気がついて、やっと彼が微笑む。最近、寿々花にだけ見せてくれる柔らかな笑顔でほっとする。


 そんな一尉が急に、寿々花の顔を見て『クスッ』と笑い出したかと思うと、そのまま口元の緩みがとまらないまま、静かにニヤニヤしているのだ。


「え、私、なにかおかしいのでしょうか」

「いや……。かわいかったなと思って」

「私が、ですか」

「寿々花の顔がかわいいなと思ったら、急に拓人の顔も思い出しちゃって」


 カノジョ『かわいい』と思ったのと同時に、息子の愛くるしい表情も思い出してしまったということらしい。


「あのさ、よっ君と一緒に床に座って撫でていただろ。その時の夢中で真剣な顔を、上から見ていたら、ちいさな唇がとんがっているんだよ。あー、子供のかわいい顔って、こういうことかーって」

「あ、わかります。拓人君が下を向いたときに、唇だけがつんってでているの。私も何度か目について『きゃー、かわいい』って思ったことあります!」

「おなかいっぱいって、腹をつきだしていただろ。ちいさいお腹をぽんぽんって叩いていてさ」

「あー、あれ、かわいかったですよね。そのお腹、私がぽんぽんって触りたくなっちゃいましたもん」

「俺もだよ~。でも、まだ二度しか会っていないおじちゃんだからなあ。無闇に触ったらダメかなと、必死に抑えてた。だっこしてぇー」


 ふたりの感覚が揃って、あっというまに『拓人かわいい集』ができあがる勢いにヒートアップ。『それでさ、あの時の拓人、チョコレートが口について』、『ちいさな手でスプーンをぎゅって握って、お口に持っていく時とか』と、どの仕草も『かわいかった、かわいかった』と熱く語る帰り道になった。


「でも、なんですか。私と拓人君を重ねるだなんて。たまーに、私を子供の位置で見ているときありますよね」

「そこは、上官の娘さんとしてかな。将補の父親としての気持ちを察している時は、俺も親目線で、『俺が父親だったら、娘にこんな哀しい思いはさせたくない』とかね。そんな時、拓人と重なるときがある。っていうか、寿々花は、隊員ではないときは、お嬢ちゃんってかんじで子供とおなじような無垢な愛らしさがあるんだよ」


 寡黙だった男が素直に惚気るとかなり強烈な熱風が吹き付けてくるようで、寿々花はいつも頬を熱くしている。


「もう~子供じゃないです、アラサーですからねっ」

「あはは。拓人とおなじ、一生懸命に料理をしている時、寿々花もくちびるが尖っているよ」

「うそ~! うそでしょ、そんな顔していないです! うそだって言って」

「だから、それがかわいんだって。拓人みたいに」


 もう~なんなのなんなのと憤る寿々花だが、こうしてすぐ顔に出るところを子供っぽいと思われるのは仕方がないのもしれない。それに彼は、これまでずっと父親として生きてきた男。父親の心のほうが先に育っていて、いままでも遠い目で『他人の子供』を見かけては、拓人の姿をその子に当てて幻を見て生きてきたのだろう。寿々花のことは『上官のお子様』として、将来の拓人を写していたところもあったようだから……。


 それに。制服を着ているのに、彼が楽しそうに声を立てて笑っている姿が嬉しくなっちゃうから困る。これ、部隊では絶対に見せてくれない彼の顔で、寿々花のもの。寿々花といることで気を緩めている、信用してくれているからとわかってしまう瞬間なのだ。


 からかうだけからかって気が済んだのか。笑い声を収めた彼の表情が穏やかに落ち着く。

 綺麗に整った男の顔は、鋭利な冷気を放っている時より、静かにやわらかな面相の時のほうが、数倍も素敵に見える。色香もほのかに漂う。

 その落ち着いた大人の顔で、急に彼が甘い眼差しを寿々花に落とすと、そのまま長い腕が寿々花の腰に回って抱き寄せてきた。


「岳人さんが、『拓人の添い寝ができなかった夜は、ちいさくてあたたかい彼がいないことで、余計に寒くなる』、拓人といきなり離れるのはそんな感覚だと言っていただろう。あれ、わかるな。いまの俺は、寿々花がいない夜は、すでに人肌恋しい男になっているよ」


 それって夜は一緒に眠っている時のことだよねと、寿々花は神妙になる。そしてやっぱり複雑なんですけど? 拓人君はほわほわ愛らしい身体で微笑ましいけれど、寿々花の場合は……素肌、のはず……。また顔が熱くなる。


 ほどよく綺麗に鍛え上げている一尉の逞しい裸体が寿々花の脳内に現れる。あったかく眠ろうね、じゃないよ。そこ一尉の場合『寿々花が気を失うまで手を緩めない』って、なんでベッドでも獰猛な目つきになるのと、寿々花は毎回ヘトヘトになる記憶しかない。ああ、そうか。これが一尉が言っていた『甘く貪る』か……と痛感したものだった。


 彼と『一緒に眠る』というといまのところ『あったかい』なんて生ぬるいものじゃなくて、『燃え上がる』といいたくなるほど熱烈なものだった。

 そんなことがすぐに頭の浮かぶようになった己の邪な思考にも恥ずかしくなる。こんな自分になったこと知られたくない、初めての愛欲を覚えてきた女の頭の中を知られたくない。


「寿々花いま『私の時って裸よね』――と思って黙っちゃったのかな」


 わーー! なんなのこの一尉!!

 頬を染めてギョッとして見上げた寿々花を見ても、将馬は楽しそうに笑い出す。


「もう~、一尉が変な比べ方するからじゃないですかっ」

「あ、また一尉に戻っちゃったな。二人きりの時は階級は禁止だって何度言えば」

「自衛官だから、根底に残っちゃうの! どーーしてもそこ解除できない訓練されちゃってるでしょ。それに一尉ったら、最初からすごい威圧感を私に向けて放っていたくせに」

「寿々花だけじゃないよ。部隊では誰にでも。遊撃レンジャーの教官にならないかという打診も来ているからね。上官オーラの訓練中とも言えるな」


 これは本当の話で、まだ内々の案件になっている。


 父が来年度で旅団長からまた転属になると、館野一尉も副官解任となる予定。真駒内に転属してきたのは、遊撃レンジャーの教育隊への配置を今後展開する予定が組まれているから、らしい。寿々花の予想では、彼はその前、来年度には父の副官の状態で三佐になるのではないかと思っている。数年は彼がここにいる予定なので、その間に結婚をして、拓人をみなで見守っていけると、二人の間ではその心積もりを整えているところだった。



---❄



 彼の自宅に到着すると、小雪が舞い降りてきていた。

 真駒内公園の緑が目の前に見える彼の自宅にお邪魔する。

 リビングに灯りをつけてカーテンを閉める時、ちらちらと落ちてくる小雪を見つめて、寿々花は呟く。


「拓人君が喜びそうですね」

「そうだな。本州では滅多に雪は降らないだろうし。雪遊びをいっぱいさせてあげたいよ」

「自衛隊のお父さんは、スキー技能も取得しているから、教えてあげられますね」

「岳人さんにも言われたよ。こっちの近所で暮らすようになったら、一緒にスキー旅行に行きたいって。俺にもスキーを教えてくださいねって言われたよ」

「わ、いいですね。それ。トマムとか子供と一緒に行っても楽しいと思いますよ」

「いいな、それ。二月の連休に間に合うかな。はあ、そのためにも年内で片付けるか。うまく行くといいんだけれど」


『親権手続き』についてはいろいろ不安があるけれど、でもこれからの彼にはしあわせしか待っていないと寿々花は思っている。


「一尉が本気を出したらひとたまりもないでしょう。お父さんも本気だったしね」

「旅団長に睨まれたらお終いだからな~。普段はにっこり穏和そうなお顔をしているけれど、隊員達のやること鋭く細かく見ているよ。この前も、帰りの公務車で、正面玄関を通過するときに、いきなり『けしからん!!』と車を止めて、門警備の隊員を叱りつけたんだよ。もう怒られた隊員の直属の上官まで震え上がっていてさ。実は俺も『恐ろしい……』と震え上がっていたんだけれど、内緒な」


 父が陸将補である時の厳しい姿を聞かされ、寿々花も驚かされる。しかも館野一尉ほどの冷徹な男まで震え上がらせるって凄いなと……。


「でも、それは。陸将補になったからこそ、常に気を引き締めているということだよ。偉くなって楽になった部分もあるだろうけれど、何百万人という管轄地域にいる国民の生活と何千人という隊員の生命を常に背負っているからだよ。門の警備は常に本番体勢、怠慢を見逃してはいけないところだ。その目ざとさも、目の良さとして持っていなくちゃいけないんだと、俺も肝に銘じたほど」


 そうなんだ……。お父さんの使命だもんね……。そんな話を神妙に聞いていたのに、まだ制服を着たままの彼がはたと我に返った顔になった。


「しまった。うっかり仕事の話をしているな。はあ、俺って……。せっかく新しく結成するファミリーで休暇を過ごそうと楽しい話をしていたのに。なんで、すぐ仕事の話題に……」

「お互いに自衛官だからでしょう。しかも、私はあなたの上官の娘だし……。私は、父の旅団長としての姿が聞けてよかったと思ってるよ」


 カーテンを閉め終わり、寿々花は制服の外套を脱いで、ソファーの背に置いた。

 その途端だった。おなじく外套を脱いだばかりの彼に正面から抱きしめられていた。


「寿々花だから……。息子の話も、仕事の話も、気兼ねなくしてしまう」


 なんだか申し訳なさそうな顔をしているのを、抱きしめられた胸元から寿々花は見上げる。


「ほんとうに俺でいいのか、寿々花。寿々花は初婚なのに」

「え、将馬さんも、初婚でしょ」

「初婚未遂の子持ちというか……」

「拓人君、かわいいから。これからあなたと、岳人さんと、たくさん思い出をつくってあげたいと思っているよ。だから、トマムに一緒に行こう。ちびっ子が遊べるウォータースライダーとかある温泉もいいね」


 彼の胸元から微笑みを見せたら、また妙に思い詰めたような彼にきつく抱きしめられている。


「ありがとう、寿々花。ありがとう……」


 泣きそうな彼の声が耳元で響く。彼の熱い息が涙を堪えているものだということは、知らぬ振りをする。

 寿々花の黒髪の頭を、彼がいつまでも愛おしそうに撫でてくれるから、寿々花は彼の逞しい背中を包むように抱きしめた。


 増えていくの、これから。

 質素でなにも欲しなかったあなたの部屋に、少しずつ暮らしの彩りが増え始めたように。

 数枚しかない拓人君の写真立ての横に、これからたくさんあの子の笑顔の写真と、彼が成長していく写真も増えていくの。


 一緒に増やしていくからね――。

 あなたも、もう独りではないからね。


 もう一度、寿々花は将馬の身体を、彼より小さな身体で強く抱き寄せた。


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