3.パパのおともだち

 父親同士の方向性は定まった。

 この日までに、彼が手際よく、迷いなく準備をしてきたことを寿々花は思い出す。


 札幌に転属してきてから、寿々花は久しぶりの実家住まいを続けているが、休日は彼のマンションにお邪魔するようになった。

 彼の住まいの質素さを見た時、寿々花は改めて孤高に生きてきた男の寂しさや哀しさを感じたものだった。『拓人のためだけに生きていく』と決意していた館野一尉の姿が、暮らしにも深く浸透していたことを知ってしまったからだ。


 彼の部屋に、寿々花は調理器具、コーヒーメーカーなどを持ち込んだ。

 母に教わった料理を作ったり、または母が持たせてくれた惣菜を手土産に持っていったり。食器も好きで集めていたものを持ち込むと、急に食卓が華やいだので、館野一尉が驚きおののいていた。

 暮らしのものだけで、そんなに日常の彩りが変わるのかと――。

 そんな『やさしい日常』を寿々花は心がけている。


 彼とのささやかな休暇を重ねている時、弁護士から連絡が入ったのだ。


『寿々花、拓人のことだけれど……』


 寿々花にもすぐに相談してくれた。

 育ての父親に会うこと、養育費は今後も払うことなど、とことん話あった。

 だが今後は、自分たちが結婚をして生活していくことも念頭に置いて、息子を育てることについて、彼がどう『意識を変えるか』も、きちんと考えてくれていた。

 


 いままでは。『息子のためだ』と独身であることを自ら望み、だからこそ自分のことより息子へと養育費を多めに送っていたと、寿々花にも教えてくれる。


 いまだからこそ将馬は振りかえる。『俺も息子のためだけに生きることで、二度と傷つきたくないと頑なに殻にこもりすぎていたし、でも見捨てた父親という気持ちになりたくなくて、養育費を届けていたんだと思う』と。


 目が覚めたいまの彼は『犠牲になって甘んじていることが、逆に鳴沢家にとっては良くない影響を与えていたのかもしれない』と思い始めたそうだ。今後は自分本位になることを優先し、鳴沢家に対し厳しい姿勢で臨む方針に変えるのだと、意識を強めていた。


 だから彼の心は、もう揺らがない。自分と息子のために前を向き始めている。

 彼の作戦もだいたい筋書きが固まっている。今度はそれを父親同士で再確認をしていく。


 将馬が『甘んじすぎていた』ことのひとつが『養育費』。

 そこについては岳人パパも案じていることがあるよう。


「今後、懸念していることですが、俺の稼ぎもなくなって、館野さんからの援助もなくなったら、アイツ、ずっと専業主婦だから収入源がなくなるので暮らせなくなると思うんです。特に館野さんからの養育費は、一般的平均額より多めでしたよね。ボーナス時も多かったので、まるで自分がボーナスをもらうみたいに、妻はうきうきしていましたからね」


 自衛官の男が身を挺して稼いでいるものを、拓人のためのものだと諭すことにも苦労があったと岳人パパが顔をしかめ教えてくれる。

 そのような『許せない感覚』が諸々露見し、徐々に積み重なって、いまの有様になったと彼が苦悶の様相を見せた。


「ですから今後も、絶対に働かないと思いますよ。そうすると、俺の稼ぎを手放さないために離婚をごねて、養育費をもらうだけのために拓人を手元において、俺たちから金だけ取ろうと言い出すかもしれない」


 だがそんなところも、将馬は今日までに、あらかたの対策を講じていた。

 とにかくスピーディーに行こうとキビキビと物事を決めていく決断力を、寿々花はそばで見てきた。


「いえ、弁護士に聞いたところ、拓人をあっさりと手放したのも『再婚のための婚活をはやくしたい』とのことで、岳人さんともはやく離婚したいようですね。どうせ鳴海の父と母は、娘のいいなりで振り回されて余裕がなくなるでしょうし、そちらに必死になっているいまなら、こちらが望む形で法的に固めることができそうです。それから、親権を放棄しても彼女が母親である以上、こちらも養育費を請求できます。まずそれを要求し、おそらく『嫌だ』と言い出すと思うので、養育費免除の条件として、私たち父親と親族と、拓人に対しても『きつめの条件を入れた接近禁止』に同意してもらう作戦にしたいと考えています。そうすれば法的効果が発生しますから、そこを手早くいまのうちにやってしまいましょう」


 躊躇いのない作戦に、岳人パパも表情が明るくなる。


「お、いいですね。となれば、すぐに動かないと。あ、俺、館野さんが札幌にいる間は、こっちに住もうと考えているんです。許していただければ……ですけど……。婚約破棄の原因になった男ではあるんですけど……」


 本来なら許せない男のはず……。

 寿々花は将馬の表情を窺う。でも、彼は、ここ最近よく見せてくれるようになった穏やかな目をして、僅かに微笑んでいる。


「もう充分です。拓人を、健やかに育ててくださったことで充分です」


 彼の心の楔がひとつ抜けた瞬間だと、寿々花には思えて……。ひとり滲みそうになる涙を堪えていた。

 それは岳人パパもおなじなのか。胸の重しがなくなり、罪深さから解放されたのか、彼も目を潤ませていた。


 しばし、感慨深さを噛みしめる男ふたり、黙ってコーヒーを味わいひと息ついている。

 やがて。ふたりの視線は、また枯れ葉舞う外にいる息子へ。

 父と母とヨキとたわむれる姿に、秋の木漏れ日が注がれている。


「そちらの寿々花さんとご結婚されるのですか」


 岳人パパの問いに、将馬が少し照れを見せる。


「そのつもりですが、拓人のことが落ち着いてからと考えています。陸将補も彼女も承知しています」

「そうですか――。おめでとうございます。あなたには誰よりもしあわせになってほしいです。でしたら、あそこで拓人と遊んでくださっているご両親は、新しいお祖父ちゃんとお祖母ちゃんになるってことですね」

「そうですね。なので、今日、一緒に会いに来てくれました」

「大丈夫そうですね。拓人も……。陸将補までなられた方ですから安心です」


 将馬との付き合いを父は許してくれた。館野は男としては申し分はない。ただ、館野には『切るには苦労がある縁を持っている』。それをお前も一緒に背負っていけるのか――と聞かれた。


 寿々花も覚悟はできている。館野一尉が鋭利な冷たさを放っていた孤独を見せつけられ、突きつけられ、それでも寿々花は彼の崇高な精神に惹かれていった。彼のそばで少しでも力になりたいと強く思った。彼が寿々花をそばにと望んでくれてからは、彼が歩んできた過去に怖じ気づく気持ちなどなかった。


 母もおなじで、寿々花の女性としての気持ちに気がついていたと言い、『でも、寿々花が決めたことならば見守りますよ』と言ってくれた。

 それならば。館野が婿になるのなら、拓人君は我が家の孫にもなる。父も母もその覚悟を決めると言ってくれたのだ。

 だから今日もついてきてくれた。


 男同士、気持ちをぶつけ合って、思いがひとつにまとまりひと息ついている静けさの中、将馬が唐突に言いだした。


「あの、ほんとうは私が自衛官だからと、気を遣って拓人に自衛隊のことを教えてくださっていたのではないですか」


 岳人パパもその問いにやや当惑し動きを止める……。だが、そのあとすぐに彼がおどけた笑みを見せた。


「えっと、俺も男子なんで。自衛隊、好きですよ。いつか会うかもしれないから、拓人には自衛隊がどんな仕事か少しずつ教えておこうと思っていました。消防に警察、戦隊ものヒーロー。興味を持ち始めたころ、自衛隊の車両なども混ぜ込んで『日本を護っている人たち』と教えました」


 将馬が『やっぱり』と笑む。


「初めての対面の時、『自衛隊好きです』と言ってくれて、うっかり涙が出てしまいましたよ」

「拓人から戦車に乗っただの、装甲車で一周してもらったとか、ヘリコプターが地面すれすれに飛んでくれたとか聞いて。うわ、俺もめっちゃ体験したい!! と、羨ましい限りでしたよ」

「では、次回の記念日には、今度はパパと拓人を招待しなくちゃですね」

「マジですか! っていうか。館野さん、その胸のバッジ。レンジャーですよね! 幹部だからもちろんレンジャーだと思っていましたけれど! 金色のバッジは幹部レンジャーですよね、しかも、その雪山のバッジは冬季遊撃レンジャーじゃないっすか! すっげ!」


 岳人パパは素の自分がでているだろうことも忘れ興奮し、今度はスマートフォンを取り出した。


「あの、金色レンジャーと冬季遊撃のバッジを一緒につけているなんて凄いので胸元だけ記念に撮っていいですか」

「SNSなどに掲載せず、お手元で大事にしてくださるだけでなら」


 彼も、館野一尉の佇まいに戻って許可をする。でも、嬉しそうだった。


「うわー。このことも、拓人が理解できるようになったら教えていきたいです」


 話がだいたいまとまり、父親ふたりが親しげにコーヒーを飲み始めたのを見計らったのか、マスターが『パフェができますよ』と店のドアを開けて、ドッグランにいる両親と拓人君を呼んでくれる。


 ドッグカフェなので、ヨキも一緒に店内にはいったところで、拓人君の元気な声が聞こえる。


「よっ君も一緒にお店にはいっていいの!?」

「うん。ここはワンちゃんと飼い主さんが一緒にごはんができるお店なのよ」

「わ、よっ君。僕といっしょのテーブルでいいかな」

「いいわよ~。じゃあ、おばちゃんがいつも座る丸い大きなテーブルに行こうか」


 すっかりうちとけた様子の母と拓人が、ヨキのリードを一緒に持ちながら奥のテーブルへと向かっていく。

『話し合いが終わったなら、みんなで一緒にどうか』と父が様子を窺ってきた。将馬と岳人パパが頷き合い、母が気に入っているという奥のテーブル席へ向かう。


 奥まった場所に大きな丸テーブルがあり、窓からは豊平川の河原が見える。そこに木漏れ日が降り注いで、みなで集まる。

 母の足下にはワンちゃんマットがあり、ヨキがそこにちょこんと座った。そのすぐそばの椅子に拓人が座って、ずっとヨキをにこにこと眺めている。


 父と母にも温かい飲み物が届き、拓人の目の前にも『ちいさなチョコレートパフェ』が届く。

 外で元気に遊んできたぶん、少しお腹が空いているのか、拓人がぱくぱく元気に食べ始めた。


 そんな息子を優しく見つめているパパと、愛おしそうに見つめている自衛隊のお父さん。

 拓人のそばに席を取った岳人パパが、息子にスマートフォンを向ける。そして撮影をしながら、呟いた。


「拓人。パパと『いちい』、お友だちになれたよ」


 チョコレートソースが口元についてしまったまま、拓人がまた目をおっきく開いてふたりを交互に見た。


「ほんとに! じゃあ、パパといちい、また会ったりするの」

「うん。すげえかっこいいお友だちだから、パパさ、もっと仲良くなりたいから、ここ北海道に住もうと思っているんだよ。拓人とお引っ越しになるけどいいかな」


 まだ詳しく聞いていない父と母は、父親である男二人がそんな話を決めていたことに驚きを見せていた。だが落ち着いたいつもの様子で、口を挟まずに笑顔のまま黙っている。


 それまで元気にパフェを食べていた拓人が、スプーンを握ったまま泣きそうな顔になった。

 ああ、やっぱり。育った場所、慣れた幼稚園、可愛がってくれたおじいちゃんおばあちゃん、そしてママと離れたくないのかな――。そうはうまくはいかないかと寿々花は感じた。


「パパと、ほっかいどうきたら、ママもうおこらない?」


 その言葉に、そこにいる岳人パパ以外の大人全員の息が止まったのがわかった。

 その渦中にずっといた岳人パパだけが自然な笑みを息子にむけている。


「怒られないよ。ママはいまママじゃないんだ。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに治してもらうまで、拓人はパパと一緒にいような。でも幼稚園はバイバイになる。でも『いちい』と音楽隊のお姉さんと、『しょうほ』と、ヨキ君のママと、ヨキ君と、今度はすぐ会えるようになるよ。北海道で一緒にいてくれるって、約束してくれたよ」


 美味しそうに食べていたパフェのスプーンを手放した拓人が、すぐ隣に座っているパパへと抱きついた。

 口の端にチョコレートがついていたのに。それが着ているシャツについても岳人パパはおかまいなし、優しく微笑んだまま、脇に抱きついた拓人の頭を撫でている。そのまま、拓人がわんわんと泣き出したのだ。


「頑張って、我慢していたと思うんです。今日まで……」


 やるせなさそうに呟く岳人パパの言葉を聞き、いまここでやっと我慢せずに泣いている小さな子を見て、寿々花だけじゃない、父も母も怒りに震えているのがわかった。自分の孫と重ねたのだろう。


 そして、誰よりも怒りを燃やし、テーブルの上で握りしめている拳を震わせている男もひとり。その男は部隊で恐ろしい顔をしている彼そのものだった。


 おなじく険しい目つきで頬を強ばらせている父が言い放った。


「館野、容赦するな。徹底抗戦だ。上官からの厳命だ。徹底的に行け、叩きのめせ」

「もちろんです」

「手を緩めるな。おまえ、ヒーローになれるよな。自衛隊はヒーローなんだぞ」

「当然です」


 ちょっとちょっと、私服なのにおっかない陸将補が猟犬を野に放すように煽っているし、制服姿の自衛官が仕事同様の冷徹さを醸し出しているし! プライベートだけど、戦闘員の意識を高めちゃってる!


 でも母もなにも言わない。『そうね、そうだわ。そうしちゃいましょう!!』とプンスカ一緒に怒っていた。


 もちろん寿々花もだ。

 それと同時に寿々花も心に決める。『母』とは名乗らない、母になろうと――。


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