8.ワンコは忘れない

 もう彼に顔向けができない。

 きっと寿々花が好意を寄せていることをわかっているだろうし、『心配無用』ということは、もう関わらないで欲しいという意味で突っぱねられたのだ。


 つまり、恋をしたと自覚した瞬間、ふられたのだ。

 元々、恋愛には疎かった。否、チャンスがあるようでなかっただけなのだが、それほどに心を捕らわれた男性もいなかった。

 やっと湧き上がった恋心が、まさかの、女子が憧れる王子様みたいな存在。かえってありきたりすぎて、恋に疎い寿々花があっという間に心をさらわれたのも、経験が少ないからかもしれなかった。


 そう思えば。『誰もが通る道を通って洗礼が終わった』――とも思えた。

 大人になろう。今更だけれど、大人になろう。

 土まみれの訓練とか、身体をいっぱいに動かして健康的に職務に励んで、音楽に彩られる毎日。いつか恋ができればいいかな~。でももうすぐ三十歳も目の前、そろそろ動いたほうがいいのかな~。めんどくさいな。と思っていたら、今回の衝撃……。


 二十七歳になって情けないけれど、寿々花ももう館野一尉に会えそうにない。

 彼が大人すぎた。冷たくて近寄りがたい意味もわかった。

 自分が子供すぎて恥ずかしい。


 だからもうヨキのお散歩、行きたくないな。

 あの日の夜、母にそう言おうと心を決めたのだが、母から思わぬことを言いだした。


「あ、寿々花。もう雪も溶けたし、お母さんの足もだいぶ良くなったから、朝の散歩はお母さんが行くね」


 すごいタイミングの良さに寿々花が呆気にとられたが、渡りに船の気持ちだった。




 翌朝から、母が朝食前にヨキを散歩に連れて行くようになった。

 そのかわりに、寿々花と父が朝食の準備をすることになる。

 ある程度、自炊をしてきたので苦ではないが、思った以上に父の指示が細かい。


「あ、おまえ。我が家はそこでだし醤油を入れるんだからな。メーカーはこれだ」

「メーカーまで決めているの~」

「嫁に行くまで、この家を出るまでは、我が家ではこれを使うように。あとは結婚したら寿々花の自由だ。夫と決めたらいい」


 だし巻き卵を作っていたら、父からそんな指示。

 父が朝食の手伝いをしていたことも驚きだった。


「お父さん、いつからご飯の手伝いをしていたの」

「寿々花が独立して、ヨキが来たころからかな。仕事場でも部下がいろいろしてくれるようになって、なんか手持ち無沙汰をかんじたんだ。ずっと動き回っていたのに、これなんだ――と妙な気持ちになったんだよ。母さんがひとりでせかせか動いていて、そのうえ、ヨキの世話までこまごましていて、ひとりでニコニコしているんだよ。なんだか置いてけぼりをくらった気持ちになったんだよ」


 もうすぐ定年。その気持ちもあったのかもしれない。

 なにかできることを。それが父も家事に参加すること、ヨキを一緒に世話することだったらしい。

 そのせいで『味付けにうるさくなった』ようだった。ただしお母さんには押し付けない、自分がやるときは拘るとのこと。


「って。娘には『こだわり』押し付けてるじゃん。メーカー指定で」

「致し方あるまい。娘がただの陸士長だと思うと、つい従えと思ってしまうのだ。自衛官のさが

「はあ!? ここ、自宅なんですけど! とかいいながら、私も心の隅で『陸将補にさからえない』とか思っちゃってる」

「だろだろ」

「将補、だし醤油、他素材も投入完了です!」

「よし、焼きたまえ」

「ラジャー!」


 父子で高らかに笑い合った。


「面倒くさいけれどな、大根おろしも絶対つける。ただし、母さんが準備するときはなくてもよし、食べたければお父さんの分だけ擦って準備、あるいはお父さんがお母さんのぶんまで擦るなどなど、だ」


 父は定年しても大丈夫そうだなと安心できる姿だった。

 一応、定年後も民間企業で働く予定はあるらしい。


 自衛官の父と娘で、あたふたとした朝を過ごしているせいか、寿々花も『あの日』を忘れつつある。


 あれから一週間。

 ヨキの散歩に行かなくなって一週間。

 こうしてきっと、あの嵐のように高まっていた気持ちも鎮まって、徐々に薄れていくだろう。


 父と作った朝食を食卓に並べているところで、玄関先から『ワンワン』と吠える声が聞こえてきた。


「ん? ヨキか。母さんが帰ってきたかな」

「珍しいね、よっ君が吠えて帰ってくるって」


 しかも玄関のチャイムが鳴った。母なら鳴らして帰宅することなどはない。

 父と顔を見合わせ、父がインターホンに出た。

 そこに映っている母の姿を見て、父が驚き、寿々花も驚き、二人揃って玄関へ直行する。


 父が慌ててドアを開けたそこには、母をおぶさっている男性が立っていた。


「おはようございます、将補」

「ごめん、お父さん……。また足、痛くなっちゃった」


 母をおぶった館野一尉だった。

 いつものランニングウェア姿で母を背負い、彼の背中に乗っかっている母がリードを握りしめ、一尉の足下にずっとついてきただろうヨキもいた。


「よっ君が館野さんを追いかけて、追いつけなくて転んじゃったの」

「申し訳ありません。ヨキ君が追いかけているとは知らなくて、吠える声で気がつきました」


 よっ君……。寿々花は力が抜けそうだった。

 ここしばらく、寿々花流の散歩に慣れて、館野一尉をみかけたから追いかけてしまったのだと思った。

 たとえヨキが走り出してもリードをコントロールすれば、犬はそれなりのスピードに抑えてくれるが、それでもいまの母の足では負担になるスピードだったのだろう。


「そうだったのか。すまない、館野。すぐ俺に連絡してくれても良かったんだぞ」

「いえ、お手間かと思いまして、朝は朝食を作っているとのことだったので、それなら自分がと。副官なので近所住まいですからついでです」

「それにしても――」

「将補。自分は、レンジャーですよ。これしき。妥当な判断だと言っていただきたいです」


 レンジャーは夏季も冬季も40キロの装備をまとって訓練をする。夏の暑い時期も、氷点下極寒の冬山でもそれで進行する。

 父もよく言っていた『寿々花を背負って歩いているようなもんだ』と。

 だから、館野一尉にしてみれば、女性ひとり背負って歩くなど、またもや言葉通りの朝飯前ということらしい。


「でも、私……。レンジャーの装備より10キロぐらい重いと思う……」


 母が気恥ずかしそうに言いながら、館野一尉の背中に顔を隠した。


「ぜんぜん重くないですよ、奥様」


 そこ、上官の奥様にはさわやかに笑うんだと寿々花はちょっとムッとしたりした。


「そうか。完治していないということだな。あとで自衛隊病院に連れて行ってやろう」

「それならば。本日はお車をこちらに回します。将補の登庁の際に、お連れしたらよろしいかと」

「そうだな。ならば、今日は少し遅れて行く」

「かしこまりました。では、お支度ができた時間に連絡をください。自分は旅団長秘書室で待機しています」


 館野一尉の背中からそっと降りる母を、父が支えにいく。

 父に支えられ、母がヨキと一緒に玄関に上がろうとしたところで、寿々花がヨキを抱きかかえる。

 そこで館野一尉が『では』と立ち去ろうとしたのに、父が呼び止めた。


「せっかくだから、館野も朝食を食っていけよ。ちょうど娘と仕上げたところだ」


 寿々花もだが、館野一尉もギョッとした顔になって固まっている。


「え、いえ……。自分は、帰宅して支度もありますし」

「どうせ、お前も今から朝食だろう。時間短縮になるし、常々、俺の朝食を食べさせたいと思っていたのだよ~」


 あ、断れないパターンに追い込んだ……。

 おなじ自衛官の寿々花は『陸将補がそこまで言ったら一尉ごときは断れない』ことを察知する。

 真顔の一尉だったが『そんな、将補のご自宅で食事なんて』と逃げたい口実を一生懸命考えていることが伝わってくる。助け舟を出すかな。おなじ下官としての助け舟、娘としての助け舟。『お父さん、やめてあげて』――と。


「あら、いいじゃない! ねえねえ、館野さん。お父さんね、ここ二、三年なの、朝食を作り出したの。すんごく上手になったの。褒めてあげて、食べてあげて!」


 わ、奥様援護が入っちゃったよ。こりゃダメだ、終わった。

 寿々花もがっくり項垂れる。そのため、可哀想な館野一尉が『それでは』とおずおずと、伊藤陸将補宅の玄関へと入ってしまった。


 すでに整っているテーブルに、もうひとり分の席を作り配膳をする。

 エプロンをしていた寿々花が準備をした。


 そのテーブルの席についた館野一尉が目を瞠っている。


「これ。将補がお作りに? 旅館みたいな食卓ですね!」

「なかなかいいだろう~。夫婦で力を合わせてつくると、こだわったものが準備できるぞ。ま、今日は娘と一緒に作ったのだけれどな。我が家の味をビシバシ躾けているところだ」

「お父さん、こだわっている味を躾けるだなんて、モラハラに聞こえるからやめて」


 いつもの調子で父親だからこそ、自然に茶々を入れたのに、館野一尉がくすっと笑いをこぼしている。


「よろしいですね。お嬢様と一緒に朝食を作れるお父様ですか。素敵な朝食です。喜んでいただきます」

「よしよし、たくさん食っていけ」


 ご自慢のこだわり朝食を部下に食べさせられて、父も満足げだった。

 転んで汚れた服から着替えきた母がダイニングに戻ってくる。一緒にテーブルについて、今日敷地内にある自衛隊病院に行くことを、父と館野一尉と話し合っている。


 寿々花はヨキのご飯を準備して、食卓に着き、司令部の上官ふたりと母が話し合っているうちにサッと済ませて、自室へと戻った。

 いつもどおりのペースで制服に着替える。いつも通りの支度をして、いつもの時間に家を出ようとした。


 でかけようとしたら、ダイニングにはもう館野一尉はいなかった。

 父も制服に着替えはじめ、母はヨキが留守番できるようにして、自分も病院にいく準備をしている。

 そんな母に寿々花は話しかける。


「お母さん、明日からまた私が散歩に行くよ」

「そうね、よろしく頼むわね。まだちょっと早かったかな」


 もしかして。まだ無理かもと思っていたのに、散歩に復帰した?


 あのタイミングで復帰すると言いだした不自然さと、母の復帰はまだ早い段階での決断に、寿々花はますます違和感を持った。もしかして、寿々花の気持ちに気がついていた?


 足を痛々しそうに引きずっていたので、母の診察が終わったころ、帰りは寿々花が仕事を抜けて、母に付き添うことになった。タクシーに乗せて自宅まで送る、そこからまた部隊に帰り仕事に戻ることにした。


 その母を自宅に送って、戻って来たのは昼休み過ぎになった。

 いつも入る門を通過して、歩いてしばらくすると、制服姿の男性が立っていた。

 館野一尉だった。寿々花も立ち止まる。もう二度と真向かって話すことはないと思っていた人がそこにいる。

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