7.だから。笑わない、のですか


 それでも寿々花は引き下がらなかった。

 司令部庁舎まで出向いた時の衝動をぶつける。


「ですが、一尉は父の副官で、悪い噂がたつ副官と騒がれたら」

「プライベードのことであれやこれやと言われることで、自分が築いてきた実績を揺るがしたことはありません。いままでもそうでした」


 すごい自信に聞こえるが、実際にそうだった。

 上層部は、そんな噂は嘘だとわかっているだろうし、調べるだろうし、そして幹部でもない隊員が好き勝手に言い広めたところで、上層部が認めるのは一尉の実績と仕事ぶり。

 彼には揺るがない事実で自信なのだろう。


 そう思うと……。ほんとうに頭に血が上って、稚拙だったのは自分だったと寿々花は自身に落胆する。


「好都合なんですよ。モラハラ男とかストイックすぎて女を思いやれない男と思われたほうが。今回もそう。女性が笑顔でこちらを見ている視線には気がついていましたから、余計な接触を避け甘い顔をしない。これが第一段階。いまが第二段階。悪い噂が広まり、俺を避けるようになる。そのまま遠巻きにされ誰も近づいてこなくなる。これで、鬱陶しいことから解放されます。婚約者と別れた途端に、つきまとわれそうになった事態が起きたので、以後慎重にしています。そういうことです」


 そこまでわかっていて毅然としているのだと知り、寿々花はさらに肩の力を落とした。


「申し訳ありません。余計なことをするところでした」

「それに。女性たちが言うところの『酷い男』というのは間違っていませんよ」


 どうして――と寿々花は彼を見つめた。そんな人に見えないのは、わたしがあなたをまだなにも知らないから?


 また館野一尉が少しばかり驚いた顔を見せた。

 寿々花の目に涙が浮かんでいたからなのだろう。


「寿々花さん」


 初めて名前で呼ばれ、寿々花は硬直する。


「あなたのお父様は理想のお父様だと思いますよ。自衛官の顔でない時は、優しくて楽しいパパさんですね。お母様もです。自衛官の妻の鏡ですね。お子様もすくすくと成長され、立派に成人して独り立ちしています。このような理想的な家庭であれたのは、やはりお母様が家庭を守られてきたのが全てだと自分は思っています」


 ごくごく普通のあたりまえの家庭だと寿々花は思っていたので、きょとんとしていたと思う。

 だが、そんな伊藤陸将補の家庭を語り始めた一尉は、公園で見せていたような微笑みを浮かべはじめていた。

 あんなに冷たい目をしていたのに、薄暗い夕暮れのせいかのかもしれないが、頬が紅潮していくようにも見えた。


「夫が不在でも家を守る、この覚悟がないと自衛官の妻は務まりません。災害が起きても、自衛官は家族を置いて出場します。家族を置いて、国民の救助を優先します。その間、妻のみで家庭を守ってもらうことになります。あなたのお母様はその覚悟を持って、あなたたちを育ててきたのです。それができる妻でないとなりません」


 わかっているつもりであって、自衛官の妻はそんなものだと普通に見てきた寿々花には不思議な感覚だった。


「ほら。寿々花さんは、そんなの当たり前という顔をしている」

「……確かに。兄が高校生になる時に、あの真駒内の家に母と兄と私だけで戻って来て、祖父母と一緒に暮らして、父は単身赴任。父はたまに帰ってきていましたけれど、その間は祖父母がいたとはいえ、母が留守を担っていました」


「それを受け入れて生きていける女性と、それを望まない女性がいるということです。自分は、自衛官を辞めない道を選びました。彼女が大切で取り返したいなら、どうしても血の繋がった父子と妻としての家庭を築きたいなら、自衛官を辞めればよかったんです。それができなかったこと。彼女のほんとうの気持ちに気がついてやれなかったこと。だから、自分は『現代的な理想の夫』にはなれない『酷い男』なんです」


 自衛官の妻になれなかった彼女を責めるのではなく、彼女の理想の夫になれなかった男だと責めているようだった。


 それがごく一般的な、民間の夫妻のあり方だと、寿々花が考え及ばないのは自衛官の娘だからだと彼は言いたいようだった。

 そう言われたら、寿々花もなにも言えなくなってくる。口を閉ざし、じっとうつむくままになってしまった。


「伊藤士長、あなたのお父様は自衛官だ。あなたも自衛官。もし、有事が起きた場合。自衛官が率先して防衛に身を投じる。帰還する保証はない。最前線に立った者から犠牲になる。特に自分のような年代の男性隊員からその可能性が高くなる。そんな男を夫に持つことは、将来安泰とは言い難い」


 それは自衛官なら誰もが覚悟することだ。父も母も胸の奥底に秘めてきたのだろう。

 寿々花自身も、有事の時は自衛官として音楽以外の職務を遂行する訓練をしてきたので、その心積もりはできている。

 だがそれは『理想の夫ではない』と彼は言う。


「彼女は、そんな未来をもつ俺と一緒にいることが不安で不安で仕方がなかったのでしょう。世界の情勢を知っては、将馬君は大丈夫だよね、どこにも行かないよねと必死で訴えてきましたから。結婚式の日取りが決まってからはなおさらに。不安にさせていたのは俺です。彼女の気持ちが安まるのは、同級生の彼のところだった。安心して子育てができるのも彼のところだった。精神が安定している母親と、つねにそばにいてくれる父親のもとで、息子はすくすく育っている。それでいいんです。自分はもう、女性とどうなろうとは思っていません。ですから、悪い男でいいのです」


 自衛官として人生を捧げ終える覚悟をしていると知り、寿々花は茫然とする。だが、それが本来の自衛官のあるべき姿だった。

 戦争が起きないと言い切れる? いつまでもおなじ情勢が続くと保証されているわけではない。

 彼は、結婚を諦め、そこに人生を捧げようとしている男……。

 だから、良い男として見られようが見られまいが、どうでもいいのだ。


 寿々花の目から、また涙がつたってくる。

 そこまで気持ちを追い込んでいる自衛官に初めて会った。

 確かに、自衛官は心の奥底で覚悟を決めている。でも、そうでない日常では、温かで柔らかい場所に帰って癒やされ安らぎも持っている。いつか、もし。があっても。

 でも館野一尉は帰る場所を決めず、気持ちを追い込んで生きているだけ……。それが哀しいのだ。


「だから。笑わない、のですか……」


 涙顔で寿々花が問うたそんな時だけ、彼が憂う笑みをそっと浮かべた。


「……自衛官としては。ただ、あなたとは、自衛官として出会う前に出会ってしまった」


 そう言われ寿々花の心に今まで以上の狂おしさが襲った。

 優秀で素敵な彼を見て、一目で惹かれる女性たち。間違いなく寿々花もその一人になってしまっているとわかってしまった。


「ですが、自分はお父様の副官として務めるだけ。心配無用です」


 そう告げられ『もしかして。好意を抱いているのなら諦めて欲しい』と、遠回りにやんわりと伝えられているのだとも悟った。


 公園で会ってしまったばかりに。誰も見ることがない彼の笑顔を知ってしまったために。よけいに惹かれていく心を育ててしまった自分を寿々花は呪った。

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