5.冷たいのは……

 遠い人のことは、日が経てば『それだけのことだった』と思えるようになってくる。


 真駒内公園にカタクリの花が咲き、桜のつぼみが綻んできて、風には春の匂いが含まれている。

 その中を、また元気に歩くヨキと、朝の散歩を続けている。


 やはり彼にはもう会わない。最初の一度だけ。『それだけのことだった』のだ。

 それどころか、寿々花はもう彼と向き合える自信がない。

 近づいてはいけない人のように母が言い、彼の過去を知った寿々花は『近寄るには覚悟がいる人』になっていた。



『多忙のため、婚約者の女性とすれ違い婚約破棄』と母から聞かされる。


 自衛官は、家族にどのような任務を遂行しているかなどは機密情報もあり明かすことができない仕事柄。それ故か。出張も多くただただ黙って職務に励む男性とこれから夫婦としてやっていけるのかと、婚約者の彼女がマリッジブルーに陥る。まあよく聞く話といえばそうなる。


 そんな隙間に、彼女が望むとおりに毎日そばに居て励ましてくれる男性が現れる。地元同級生の男だったとのこと。


 結納を済ませたあとだったが、彼女から婚約を解消したいとの申し出。当然納得がいかない館野一尉とご両親、彼女側両親との話し合いが何度も交わされた。

 その間に判明する彼女の『妊娠』。どちらの男性の子供かと騒然とする。彼女は『気持ちは同級生の彼にあるが、身体の関係はない』と、不貞行為については断固否定。館野家側は言葉だけでは信じられないと追求、DNA鑑定をすることに。

 結果は彼女の言葉どおりに婚約者である館野一尉の子供だったとのこと。


 そこからどう話し合いがされたかは当人たちにしかわからないこと。

 落としどころが『婚約破棄』、生まれる子供は母親のそばにということで親権は彼女へ。生まれた子は男の子。彼女は望んだ相手と結婚を決め、物心つかぬ乳児はそのまま同級生の男性を父親として育てることになったと、寿々花は聞かされる。


 彼女が選んだ同級生の男性を父親として育てたいからと、面会も拒否され、館野一尉は出産にも立ち会えなかったらしい。

 血が繋がってるが故に、彼の信条で養育費は渡し、会えずとも成長の知らせは届けてもらっていると母も聞かされているとか。


 ずっと音楽ひと筋、恋にも疎い寿々花には、遠い大人の話、諍いだと思っていたが、そばに来た男性にそんな哀しい過去があったことを知ってしまう。


 あの人が放つ冷たい空気は、もう人を愛したくもない、信じたくもない、だから俺に近寄るなという警告なのかもしれない。


 こんな話を聞いてしまったら、気易く近づけないどころか、どう接して良いかわからなくなる。

 彼の過去を知らない人間だったら、もしかしたら何も知らないからこそ、彼の気に障る無神経な気楽さで傷つけるかもしれない。


 そう。大人の彼は遠いところにいるのだ。

 彼が副官のうちは、父と母が周囲をガードしていくのだろう。


  それにもう接点もないしね――。

 そんなことを考えながら緑に囲まれ始めた公園散策道をゆく。

 今日もランニングをしている人、ウォーキングしている人もたくさん見かける。

 ヨキもちょこちょこ小走りで前をゆく。

 いま散策している2キロコースと、公園外周を巡る3キロコースとの交差している地点がもうすぐ。

 そこを、白い帽子を目深にかぶってサングラスをしている男性が走り抜けていった。


 またもやリードがピンと伸びきって引っ張られる感覚!


「え、よっ君?」


 ヨキが一心不乱に走り出した。いつもの2キロコースの直線を行かず、ぐんと左折、いきなり3キロコースに突入。

 よっ君、なにか追いかけている? 寿々花の前には、先ほど目の前を通り過ぎていったサングラスに白黒ランニングウェア姿の男性。


 まさか、まさかまさか――。


 後ろ姿似ている? でも、よっ君、どうして?

 戸惑う寿々花を誘導するように、リードの先にいるヨキが全速力モードで男性の足下に並んだ。

 しかも追い抜いた。


 男性も足下に出現したワンコを知ってギョッとして、もの凄い勢いで後ろに振り返った。


「え……? よっ君!? うそだろ~」


 リズミカルなペースを保って走っていただろうに、息を乱した男性がそこで項垂れるようにして立ち止まった。


 気の抜けた声が意外だったので寿々花も茫然としてそこに立ち尽くした。


「お、おはようございます……。館野一尉」


 驚きで息を荒くしている彼も言葉がでないのか手で制してきた。


「お、おはよう。伊藤士長。じゃない、ここでは階級呼びはやめよう」


 彼がサングラスを帽子のつばの上にあげて、いつもの顔を見せてくれる。


「なんでわかったんだ。すごいな、よっ君」


 呼吸を整えるためか、彼から歩き出す。

 寿々花もリードを持って歩き出すと、ヨキが彼の足下で彼を見上げながらちょこちょこ歩き出した。

 彼もヨキを見下ろしている。笑顔だった……。


「よっ君、俺のこと覚えてくれたんだ。よく会うようになったもんな。お喋りもいっぱいしたしな」


 旅団長付きの公務車で迎えに来た時、母がヨキをだっこして見送るからなのだろう。

 彼の顔、声、匂いをヨキも覚えたようだった。


「ワンちゃんに慣れてきたんですね」

「ひと安心ですよ。上官の愛犬に気に入られて」


 そこ敬語になっちゃうんだと、ワンコより警戒されているようで寿々花の心が少ししょんぼりとしぼみそうになる。


「ちょっと休もうか」


 だが、歩いているうちに見えてきたベンチへと一尉から促してきた。なんのつもりかなと思いながらも、寿々花もその誘いに従った。


 気候がよくなった早朝。風には緑の香りが混じっている。

 館野一尉と一緒にベンチに座った。

 ヨキはベンチの周辺に生えている雑草をみつめてクンクンと匂いをかいでいる。そのうちに、館野一尉のスニーカーに鼻を近づけてクンクンしている。

 そんなヨキを、彼は微笑ましいといいたそうな優しい目で見つめていた。

 そんな顔をする人だと初対面で知っていたから……。またその顔を見せてくれたことに、寿々花はちょっと泣きそうになる。優しい彼に再会できたからではない。過去の話を聞いてしまったから、女性を寄せ付けない警戒心を少し解いて、心を安らかにできる瞬間があると知れたから……。


 寿々花が黙っていると、彼も申し訳なさそうな表情を見せた。


「どこまで知ってるのかな。しっかりしたお母様から釘をさされたと思うんだよね」

「はい。ご事情があると聞きました」


 館野一尉の過去をおもんぱかって、 両親が周囲の隊員に目を光らせていることに彼も助けられているのだろう。

 そのことについて、どう返事してよいのか、寿々花は口ごもる。彼も言いにくいのか、自分から深い事情は話してこない。


「ほんとうのことだよ。こちらの事情なのに、理解してくださる上官で助かっています。お嬢様にも気を遣わせていると思っています。申し訳ない」


 なんと返してよいかわからない。自分の子供なのに一度も会ったことがなさそうで、あるはずだったものを失った男性の気持ちに気易く触れるのがいまの寿々花には怖い。

 だが、それすらも大人の彼には見透かされたようだ。


「気を遣わせてしまうから、コースを変えたんだけどな。顔も隠していたのに、ヨキ君の鼻はごまかせなかったか。あの後、この公園ではないコースに変えて走っていたんだけれど。車の排気もない空気のよい公園で、緑と空を見ながら走る気持ちよさを手放せなくてね。2キロコースで出会ったから、じゃあ、3キロコースに変えればいいかと……。会うと、自分はお嬢さんより上官だから気を遣うでしょう。自分も、将補のお嬢様だから無下にできない」


 お嬢様だから無下にできない。彼も気を遣うということで避けられていたと知り、寿々花はわかってはいるけれど愕然とする。


「なのになあ……。こんな小さなワンコのよっ君に見つけられちゃうだなんてなあ。犬ってすごいな」


 緑の草と戯れているヨキを見て、彼が笑った。

 また一尉がにこにこ顔に。もうヨキにも触れられるようで、正面に来たヨキの小さな頭を撫でている。


「クラリネットはいつから?」

「中学からです」

「やっぱり、自衛隊の音楽隊を見てというやつかな」

「はい。父が自衛官で、家族招待で連れて行ってくれた音楽隊コンサートで大好きになりました。祖母がヴァイオリンをしていたせいもあると思います。母もピアノ科を卒業しているんです」

「なるほど。ご家庭にも音楽の存在があって影響があったんだね」


 そこで館野一尉がまた、なにかを思い出したのかクスッと笑い出す。


「内緒だよ。先週、音楽隊で午後の演奏練習をしている音楽室に、お父さんがこっそり聞きに隠れていたこと知らないだろう」

「え!? 知りませんよ! ええ、父、そんなことしてたんですか」

「たまたま、次のイベントの確認打ち合わせで音楽隊に出向いたときで……。いや、音楽隊の近くに行く口実をお父さんが作ったんじゃないかな。俺にも言わないけど、きっとそうだったと思うよ。演奏練習の時間だと音楽室に近づいてこっそり影で聴いて。クラリネットの音が聞こえてきたじーっと目を瞑って聞き耳たてていたよ。笑いたくて、笑えなくて。困ったなあれ。娘にも言うなよと言われてね」

「言っちゃったじゃないですか。いいんですか。直属上官の言いつけを破って」

「あ、ほんとうだ。どうしよう」


 急に一尉が我に返って、困り顔になったので、寿々花も笑いたくなってきた。

 でも上官だから笑えない。あ、こういう気持ちだったのかなと思ったりした。


「やっぱり、お父さんやご家族の影響で、音楽隊か。お祖父様とお祖母様が住まわれていたあのご自宅いいね。庭に、梅の木、木蓮の木とあって、玄関先を彩ってくれて。昭和のいい雰囲気が庭に残っている。お迎えにあがるとき、玄関で梅の香りがしたときは心が和んだよ。陸将補の立派な制服を着たお父様、しっかりされているけれど穏和なお母様が毛並みのよい小型犬をだっこして。そして間には、ご両親とその血筋をしっかりと受け継いだ音楽隊のお嬢様が制服姿でいる。そのお嬢様が旅団長のお父様に敬礼をして見送る玄関先……」


 和やかな笑みを見せてくれていたのに。彼から延々と語りだしたと思ったら、徐々に頬のあたりを強ばらせ冷たい横顔に固まっていく――。


「自分も『自衛官のお父さん、かっこいい』と尊敬される男になりたい」


 副官として伊藤家に初めて公務車で迎えに来たとき。彼が寿々花をじっと見つめていたことを思い出す。

 あれは。自衛官の父と、それを健気に支える妻である母と、そしてその両親の間にいる自衛官になった子供――という世界を彼は見つけ、なおかつ、娘である寿々花に、会うこと叶わぬ息子を重ねていたのかもしれないと、初めて思えたのだ。


 制服を着ている時とおなじ鋭い目線を遠く馳せる彼が冷たく言い放つ。


「いまもそれしかできない。だから、俺はこの仕事を全うする心積もりです。その道に負担になるものはなにも要らない。その決意です」


 ひどく哀しい男の顔。寿々花の胸に痛みが走る。

 誰もが得られそうであって、でも一尉のような優秀な男であっても得られないものがある。

 彼のなにもかも諦め、捨てきった姿が、途轍もなく哀しい。

 寿々花の心に焼き付く哀しき男の横顔――。

 この人の心はいつも冷たく凍っているのだ。笑顔を見せても、心はずっと。

 その冷気を放って、彼は自衛官であろうとする。

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