4.近づいてはいけません


 あれから彼と会うことはなくなった。

 寿々花自身も新天地に慣れることで必死だった。


 新年度、新しい勤務地へと転属してきた隊員は寿々花だけではない。

 異動してきた隊員を含めた自己紹介や、新しい音楽隊活動を確認するミーティングなどで多忙となる。


 札幌市南区にある真駒内駐屯地での生活も、十日もすれば慣れてくる。


 子供のころ、父がここに勤務していたので馴染みもあった。

 父の『一憲かずのり』が若い時にここの駐屯地に勤めていたことで、近所に住む母と出会ったというのが馴れ初め。


 この十日の間も、父が登庁するためのお迎えで、実家まで館野一尉が訪ねてくることが数回あった。しかし、どの時も母だけが見送り、寿々花はしゃしゃり出ないよう控えていた。娘だから、娘です、だから出てきました――というふうに見られたくなかったのだ。


 いまでもあの凍った館野一尉の視線が忘れられない。あれは彼からの合図だったと気がつく。

 笑顔と冷たい顔のギャップを見せられた時に『俺はもう、あなたの父親の部下。あの顔はできない』と彼が目線だけで諭してきたのだと、わかってしまったからだ。


 駐屯地でも遠目に見かける程度。父も素知らぬふりの顔をしているし、互いに近寄らないようにしている。

 駐屯地の隊員たちに、同僚に上官たちも『旅団長、陸将補の娘』とは知っていて、でも口に出さないよう意識しているのさえ伝わってきた。


 父とおなじ職場になって、寿々花は初めて『高官の娘とは』、どのような立場であって、どのような心得でいるべきかを身をもって知る。自慢でもない、甘えない、余計な気を遣わせない、ごくごく普通の隊員であろうと密かに心でコントロールすることは、なかなかに苦労するものだった。


 だからなのだろう。よっ君の朝の散歩でも、一尉には出会わなくなってしまった。

 優秀な彼のことだ。余計な接触はすまい――と、よっ君の散歩時間もコースも外してしまったのだろう。


 さらに気になることが、あとひとつ。

 女性隊員たちが、父のそばに控えている『眉目秀麗』な副官が着任したことを知り、浮き足立っている。これはもう抑えようがなさそうだった。


 そうなれば近しい同僚、先輩後輩たちから『伊藤陸士長、お父様の副官として顔見知りでしょう。会える機会とかないの?』と探られる。『そんなチャンスがあれば、その時は是非一緒に』――という言葉が続いてきそうだ。だがまだそこまで誰も踏み込んできていない。

 おなじ音楽隊の女性たちだけではない。部署が近くもない見知らぬ女性隊員が、寿々花を見かけたら近寄ってきておなじように探ってくる。


 当然『陸将補である父に関する業務の邪魔にならないよう、近づかないようにしている』と告げれば大抵の隊員は一歩退いてくれる。

 寿々花の自宅に招待をしてほしいと切り出されても、『旅団長の父と、それより厳しい目を持つ母がいる』とわかれば、まともな自衛官は上官とその奥様に畏怖して諦める。


 それでも申し出が多いこと、多いこと。


 転属してから半月ほど。駐屯地周辺の残雪が解けきり緑が息吹いてきたころ、寿々花はついに母に愚痴をこぼした。


「館野一尉と繋いでほしいという女性隊員が多すぎてうんざりなんだけど」


 夕食を終え、母が焙じ茶とお手製の胡麻プリンを出してくれたデザートタイムにこぼしてみた。

 父はまだ帰宅していなかったので、母とふたりきりの時に呟いてみた。父がいると、やはり気を遣うのだ。父親であって、やっぱり旅団長。へたなことを言って説教されるかなという恐れがある。もちろん母も同様だが、女性側の相談は女親に限る。


「そんなに? 近づきたくても館野さんは近づけないでしょう。お父さんが旅団長なんだから。館野さんもそこは心得ているようよ。女性をいっさい寄せ付けない雰囲気を放っているでしょう」

「ああ、うん。そうだね。いつも怖い顔をしてるよね」


 自分も『女性自衛官』とわかった途端に、向こうから近づくなとばかりに制されたからよくわかる。

 そこで母がため息をついて、寿々花の向かいへとヨキをだっこしたまま座った。

 一緒のデザートタイム開始かなと思ったが、正面の母がじっと娘を見据えている。胡麻プリンをひとくち頬張ろうとした寿々花の手が止まる。


「そうね。寿々花には言っておきますね」


 あ、自衛官の妻である顔だと察し、寿々花はスプーンを手放し、姿勢をただした。


「お父さんと予測していました。独身であれだけ眉目みめのよい男性隊員ですから、女性の視線を集めるだろうと。そうすると、近づこうとする女性が現れる。旅団長副官だから、旅団長の娘である寿々花へと伝手つてを頼る。まだ陸士長であるあなたが、少しでも先輩である隊員に押し切られる事態も起きるかもしれないと。ですから、今後は館野一尉について『どうにかならないか』と押しかけられたらこう告げなさい、『父と母の許可を得ないと紹介はできない』と。それでもきかない隊員は、所属部隊、部署、氏名をお父さんに報告しなさい。ほんとうに館野さんに相応しいかどうかを、こちらとご本人で精査します。館野さん自身がお近づきになりたいと言えば、彼から出向くようにいたします。旅団長を通して紹介するという形にしてください。そしてあなたも無闇に館野一尉のことは話題にしてはいけません」


 そこまでしなくても――と寿々花は少し大袈裟に思ったのだ。それに父に言いつけるなんてやり方はしたくはない。だが、母は娘のそんな甘い心持ちを見抜いていたからか、険しい目つきに変わった。


「自衛隊という職場はなにをする場所ですか。伊藤陸士長。お見合いですか」

「違います。国民を護るための業務を全うする場所です」

「もちろん、自然に出会って結婚する隊員もいます。ですが、万全の態勢を保つため、司令部にいるお父さんと館野さんを煩わすトラブルの根は、早いうちから摘み取ります。伊藤陸士長、あなたのところでも止めてくださいね」

「はい……。奥様」


 母であってそうではない。旅団長の妻として言っているのだとわかったから出てしまった他人行儀な言葉、『奥様』だった。

 そして、思った以上に夫と妻で連携をして『素早いリスクヘッジ』を既に展開していたことにも驚かされる。母も影で自衛隊を支えている人なんだと改めて思わされた。


「あとひとつ。あなたにも早めに言っておきますね。館野さんは数年前に婚約破棄をされていて、ですけれど、お子様を授かっています」


 寿々花の呼吸が一瞬だけ止まる。

 婚約破棄? 子供もいる? 独身であって、そうではなかったということに……。

 驚いている寿々花を傍目に母は続ける。


「いまはそのお子様のためだけに生きていると言っています。ですから、館野さんは女性に対して興味がないの。そのうち噂になって、また根掘り葉掘り、聞きやすい陸士長のあなたに探ろうとするでしょうけれど、知らぬ振りを通しなさい」


『わかりました……』と小さく答えることしかできなかった。

 

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