第7話 子どもとの出会い


 落とした視界の中にはポプリが入ったボウルを抱えた私の手。それでも部屋を出てきた時よりはポプリが減っているから、貰ってくれる人はいるわけで。


 それはこの二ヶ月、テレーズに助けてもらって、みんなの好意に助けてもらって、築いてきた関係性だと思うから。


 私はまた顔を上げる。戒めつつも、築けてきたと思っても良いではないか、と自分に言い聞かせながら。自分の力だと過信しているわけでもない。これは全部、テレーズを始めとした周囲の力で、みんなが優しくしてくれているだけに過ぎないと解っている。驕りではない。それに。


 此処へ来て変わった部分があるのは本当だ。来たばかりの頃なら私ひとりで屋敷の中を歩き回ることなんて思いつきもしなかった。顔見知りが増えることだってなかったはずだ。だから、胸を張っていなくては。


「……え?」


 気持ちを新たにしようと思ったら、顔を上げた先にあるものに目を奪われた。広大な敷地のヴリュメール邸は中庭も広い。綺麗な庭園はトマが世話をする花が今が咲き頃とばかりに色とりどりに乱れ、暑い夏には必要な木陰のために並木道もある。その樹木の一本、枝から白い布が垂れている。シーツでも飛ばされて引っ掛かっているのかと思って私は目を擦った。


 何回見てもそれはシーツではない。人の脚が見えている。裸足の、細くて小さな脚。もぞもぞと動いている。


「……!」


 私は慌てて中庭へ出た。子どもの脚がのぞいているなんて、どういうことだ。


 この屋敷に子どもはいない。少女はいるけれど、子どもと呼ぶには少し大きい。それなら何処かから迷い込んできた子ということになる。例えば物盗り。子どもの物盗りなんていて欲しくはないけれど、貧しい子どもはいる。身軽な子どもなら木を伝って外から入り込み、見つからないように隠れていることも考えられた。もしくは何処か怪我をして、降りられなくなっていることもあるかもしれない。


 恐る恐る問題の場所へ近づいて、私は下から木の上を窺った。木の葉が生い茂る一番太い枝を選んで子どもがしがみついている。


 白い布が垂れていると思ったのは間違っていなくて足首に巻いている包帯が外れかかっているようだ。何処か痛むのだろうか。包帯はまだ新しい物に見えた。


 けれどその上、ぼろ布のようなものを纏い、顔は汚れて黒くなっている。手足の色が私とは違って、異人だ、とすぐに気付いた。黒髪の間から鋭い目が私を睨んでいる。近付く私に気付きながら、それでも逃げ出さないのは私のことを脅威と思っていないか、やはり動けないのだろうと思う。手を出すなと警戒し威嚇するような視線は追い詰められた手負の獣のようで、私は一瞬息を呑んだ。


「あの……あなた」


 それでも枝にしがみついている様子からは降りられないのではと思って私は声をかけた。包帯を巻いているなら怪我をしている可能性が高いし、包帯は白いけれど傷口が開いているとか、そういったことも考えられる。そんな足で無理して木になんて登ったら降りられなくなっても不思議はない。怪我をしたばかりなら、尚更に。


「大丈……」


 大丈夫、と尋ねようとして目の前一杯にその子どもが近づいたから何も考えられなくなった。ひゃあ、とかいう情けない悲鳴が喉から出る。子どもが飛びかかってきた、と本能に近い部分で理解して、抱えていたボウルを投げ出して抱き止めるために腕を伸ばす。何てことをするのか、と思った。怪我をしたことを忘れているのではないか。


「うぐっ」


 頬を鋭い痛みが走り、ごつん、と子どもの頭が胸に当たる。鈍い痛みを受けたけれど、子どもの方も呻いた。骨と皮ばかりのような細い体は細く、薄く、上から落ちてきた衝撃だけを私は受けたようだと思う。


「ぶ、無事……?」


 胸の痛みに息が詰まって、呼吸がしづらかった。でも目の前の子どもの方が一大事で私は尋ねる。男の子か女の子か判断しかねるくらい中性的な顔立ちで、綺麗な子だと思った。鋭い目は相変わらず私に敵意を向けていたけれど、細い腕では抵抗らしい抵抗もできていない。


「わ、凄い熱出てる。風邪? それとも怪我の痛みで熱でも出てるの? 何処か痛くない? ぶつけたところは? 大丈夫?」


「……うー……」


 子どもは威嚇する時の猫みたいに唸った。警戒している様子があって、もしかして言葉が分からないのだろうかと私は気付く。異国の血が入っているのは明白だけれど、移民の子という可能性もある。この国で生まれたなら言葉は分かるかもしれない、と思ったけれど、単純に喋れない可能性にも気付いた。いずれにしても治療が必要だ。医者が来るという話だったし、診てもらえないか打診しようと思った私は誰かを呼ぶために顔を上げた。ら。


「おーおー。よく捕まえたな、嬢ちゃん。お手柄だ」


「!」


 不意に声がかけられるのと私に影が落ちるのは同時で、息を呑んだ。悲鳴も出ない。知らない声だったし、恐る恐る更に視線を上げて声の主の顔を見ても知らない青年だった。ただ、子どもと同じで一目で異国の血が入っていると分かる風貌だったから、この子の関係者だろうかと期待した。


「その坊主、足を怪我してんのに脱走してな、探してたんだわ。

 色んなところで売られて来たからまた売り飛ばされると思ったか? 嬢ちゃんを緩衝材にして逃げようとしたんだろうが、残念だったな」


 不穏な言葉と捕まえようとする腕が伸びるのを、私は見た。


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