第2話 伯爵の不在


 ウィリアム・ヴリュメール伯爵は美しい人だった。にこりともしないその表情はまるで彫刻で、冷たさも相俟って氷像のようだと思う。先代の遅くにできた子で、歳は確か私より七つ上の二十五歳。先代は既に他界している。


 すらりとした体躯はちょっとした競走馬を思わせた。私とは頭ひとつ背が高い。顔を見ようと思うと首が痛くなりそうだ。


 黒髪を後ろに撫で付け、控えめながらも着飾った様子なのは結婚式だからなのだろう。仏頂面でつまらなさそうだけれど別段面白いものでもないし、好きでもない娘を妻として迎え入れるのだから楽しさもなくて当然だ。それは理解できる。理解できるけれど、当人である妻の私だって面白くはない。


 食事は美味しかった。我が家の畑で採れたものとは違う。きっと本業で生産している農家から仕入れているものだ。することも喋ることもないから私たちは無言で料理を食べるくらいしか間を持たせる術がない。それも間が持っているのかと問われれば首を傾げるしかない有様ではあるけれど。


 苦行の結婚式が終わり、両親は客間へと案内される。私は当然、両親とは別の部屋だ。


 いわゆる初夜、というものを迎えるのだと考えるとさっき食べたものが戻ってきてしまうのではと思うほど緊張した。だって、初夜って。初めてなんだもの。母には違うことを考えていれば終わると言われたけれど怖い。貴族の務め、貴族に嫁入りする者の務めと言われたって、怖いものは怖いのだ。


 奥様はこちらへ、と案内してくれるテレーズは私付きの侍女だという。伯爵が私のために同世代の侍女をと選んでくれたらしい、けど、侍女なんていたことがないからどうして良いのか判らない。取り敢えず彼女の後について歩いて行った部屋は実家の部屋より何倍も広くて眩暈がしそうだった。


「旦那様は明日、朝早いので。奥様はこちらで休むようにって言ってました」


「え」


 ということは、別室で休むってこと? と私が確かめると、はい、とテレーズは頷いた。慣れた手つきで私を寝巻きへと着替えさせ、支度を整えるとおやすみなさいと言って部屋を後にした。私はふかふかのベッドに寝転がり、初夜がなかったことに安堵の息を吐く。と同時に馬車に揺られた疲れや苦行の結婚式で張っていた気が緩んだこともあり、眠りに落ちていた。


「奥様、朝ですよ」


 一瞬で朝を迎え、私が動揺しているうちにテレーズはまた支度を整えてくれる。ご両親がお帰りになりますから、お見送りして差し上げないと、と言われてようやく昨晩此処へ嫁入りに来たことを思い出した。


 伯爵は本当に今朝早くに外出したらしく、食事の席にも見送りの場にも現れなかった。でも使用人たちの愛想は良くて、皆にこにこしている。お気をつけてお帰りくださいねと両親へお土産も持たせてくれて、昨夜とは打って変わった様子に私も両親も面食らった。昨晩の、伯爵の前とは随分と態度も様子も違う。


「ジゼル、私たちは帰るが……健康に暮らすんだよ」


 父が困惑しながらも私に優しい目を向けて言った。はい、と私は頷く。健康は我が家の家訓だ。何をするにも健康第一。体が資本。此処でもそれは変わらない。


「此処の皆さんと仲良くね」


 母が微笑んだ。使用人の感じの良さに安心感を覚えたのだろう。はい、と私は母にも頷いた。誰かと仲良く、なんてしたことがないけれど、そんなことを教えてもらえる状況ではない。


 伯爵が用意してくれた馬車は、今度は両親だけを乗せて戻る。その姿が見えなくなるまで玄関先で見送って、私はこれからどうしたものか、と思って緊張した。


 どんな生活が始まるのだろう。伯爵夫人としての振る舞いなんて私は知らない。縁談が急に決まって此処へ来るまであまり時間もなかったから、そういう教育を受ける暇はなかった。


「……奥様」


 声をかけられて私は振り返った。背の高い青年が私を見下ろしている。くるくるとした黒い巻き毛はクセが強いのか、好き勝手な方向へ跳ねていた。身だしなみに気を遣っていないわけではなさそうだし私が言えた口ではないけれど、その髪で目元が隠れている。引き結んだ唇は真一文字で、不機嫌そうだった。


「えっと」


 何の用事か測りかねて困惑する私に、ビルです、と青年が口を開く。名乗ったのだと私が理解するまでに数秒かかった。


「家令を務めております。伯爵不在の間、この屋敷の管理を任されています。本来なら女主人たる奥様の仕事となるのでしょうが、まだ此処へ来たばかりですから。伯爵から任されていることもあります。奥様にも俺の言うことに従って頂きます」


 家令という割には随分と若く見えるけれど、昨日見た使用人たちも軒並み若い人たちばかりだった。その中では確かに彼が一番歳上に見えるかもしれない。それに私は確かにこの家には来たばかりの新参者だ。使用人の顔も名前もしきたりも知らない。私が指示をすることなんてないだろう。


「それは別に構わないんですけど……伯爵は不在にするんですか?」


「ひとつ、伯爵のことを嗅ぎ回らないこと」


「……」


 嗅ぎ回ったつもりはないのだけれど、そう言われるのは心外で私は思わず眉根を寄せた。ビルの表情は変わらない。目元が見えなくて表情が判りづらい。


「とは別に言われてはいませんが、あなたも探られて良い気持ちはしないでしょう。伯爵からことづけがあります。

『あなたとは偽装結婚だから、地下室にさえ行かなければ屋敷の中で自由に暮らせば良い』、だそうですよ」


「はぁ」


 そう言う以外になくて私の口からは困惑した声が出た。



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