雪の日

北緒りお

雪の日

「蜜の味って何度思い出してもたまらないなあ」

 大きな身体から発せられる声はやたらと力強く、説得力のない内容でも、なんとなくそうなのかと思わせるような自信あふれる発言に聞こえるからすごい、とテントウムシは思うのでした。

 クワガタの越冬は朽ち木の中でするはずなのですが、なぜかこの木の皮の間にできた小虫の集まりに混じっています。

「大きな木に沸いてるのは、花の蜜やアブラムシやアリが吐き出すのと違って、なんか柔らかい甘い香りがしていて、あれを口にすると他のじゃ物足りなくなるもんなあ」とその味を思い出したからなのか、その長いクワを少し持ち上げ、暑い盛りに味わった口の感触を思い出しているかのようなのでした。

 この大木の皮が剥がれかけている隙間は、虫たちにとって格好の越冬の場であり、長い冬を乗り越える間に無数の無駄話が繰り返されます。

 とくに今日みたいな冷たい雨が降り、そんなに強くはないものの風がある日というのは体中が冷え切り、動くところか考えるのもままなりません。

 そういう日は「寒いな」とか「つま先のカギもうごかん」なんかの一言二言が少しだけ発せられては、誰も反応せず、もしかしたらわざわざ反応しないのか、とにかく、静かな空間になるのでした。

 そうかと思うと、風もなく穏やかで外は雲もないのだろう日差しが出ている日、こういう日は木の表面が暖められて、皆が少しだけ元気になります。そして、昼の一番暖かい時間から日が傾き駆けるまでのわずかな間、虫たちの雑談が広がっていくのでした。

「ああ、よく寝た」

「夜露で羽が濡れてるなぁ」

「苔の間に寝てたら、体中が苔の匂い」

とか、気ままに思いつくままに話をしているます。

 蜜の話をしていたクワガタは、寒さの眠りから普通の眠りになって大いびきを始めました。

 テントウムシはその鮮やかに光る赤と黒の甲をすこし広げたりして、あくびをしています。

「樹液もいいけど、取れたての蜜の新鮮なことって言ったらないね」

 カナブンは暖まって動けるようになると別の美味しい物を思い出したのでした。

 まだ暖まりきれずにぼんやりとしているテントウムシに向かって「なあ、キミだってアブラムシが腹から出してすぐの蜜の甘さは覚えてるだろ?」と問いかけます。そうすると、まだまどろんでいるようにフワフワと動いていますが、六本ある足の前の一本を軽くあげてカナブンが言っていることがわかると伝えているようでした。

 カナブンはその返事を待っていたかのように話を続けます「もちろん、木から湧き出てくる樹液にもおいしいんだけど、ちょっと味が強い気がするんだよな、そう考えると、アブラムシの蜜は透き通って、甘い中にある草の香りがなんとも言えないものがあるなあ」と思い出してうっとりとしているのでした。

 声をかけられたテントウムシはやっと身体が温まり目が覚めてきたのか、カナブンに聞き返したのでした。

「アリの蜜はなめたことある? アブラムシや樹液と違う濃厚な甘さと爽やかな風味があるよ」

単純な質問なのでした。けれどもカナブンは自分が知っている味よりももっと美味しいのがあるのかと、顔をまっすぐにテントウムシに向けて聞き返すのでした。

「どんな味? もっと聞かせて!」

 クワガタほどではありませんが、カナブンも身体が大きい方です。勢いよく質問されると、その声だけで何十匹も集まって寒さをやり過ごそうとしているテントウムシたちが木の幹から落ちそうになるのでした。

 聞かれたテントウムシも落ちそうになるのをこらえて、カナブンに返事をします。

「そうだねえ、どんな味と言われても説明が難しいのだけれども、花の蜜の甘さが少し強くなって、けれどもいつまでもベタベタしないで呑みやすい味だった気がするなあ」と、思い出しながら説明をします。

 カナブンは、それを聞くと「実は、花の蜜を呑んだことがないんだ」と言うのでした。

 「呑んだことがないと言うよりは、花の蜜が取れる頃は柔らかい葉っぱも大量にあるから、そっちに目が行っちゃうんだよなあ」と言います。

 カナブンは何やら思い出したのでした。

「ああ、思い出すなあ。あの葉っぱの感触。開きたての葉っぱだと、どんなに分厚くてもかみつくとあっさりと穴が開くし、かみついた瞬間も葉っぱごとにいろんな匂いがするし、早くあの季節にならないかなあ」と言います。

 カナブンは葉っぱのおいしさも思い出して、少し遠くを見るように話を続けます。

「暑い時期もいいけど、雨の時期の夜明けに開きたての葉っぱの柔らかいところを食べるのはたまらないなあ」とまた思い出話をしているのでした。

 カメムシがその話に反応します。

「暑い季節のあとに、木の実が熟したのがたくさんできるのもいいよね」

 カメムシはそのつやつやとした甲羅のしたにある羽で伸びをするみたいに、少し持ち上げた甲の下で羽を伸ばしたり縮めたりしていたのでした。

「熟して落ちた木の実って、柔らかいし飲むところがいっぱいあるし、あの中に潜ってずっと食べてたいなあ」となにやら思い浮かべています。

 ここまで話したところで、急に風が出てきました。木の幹とはがれかけの木の皮の間にある虫たちの越冬地にもその風が入ってきます。

 とたんに太陽で暖まっていたのがすっかりと冷えてしまい。また、皆は眠っているように静かになっていったのでした。

 寒い日は虫たちにとっては安全なところでやり過ごすしかありません。

 冷たい風にさらされ、ほんの少しのぬくもりが持って行かれてしまうとあっという間に眠ってしまいます。とくにテントウムシは小さいだけあって、少しの風でもすっかりと冷えてしまいます。そうすると、とろとろとした眠りの世界に吸い込まれるように落ちていってしまい、自分の意思で何かしようというのはまた暖かくなるまで難しいのでした。

 この隙間では、特別よく晴れて太陽がめいっぱい木の表面を暖めて、そのぬくもりが虫たちに伝わってやっと動けるようになるのでした。

 暖かくなって目が覚めると言っても、暑い時期の寝起きとはまったく違っていて、長く眠っているものだから体中がこわばってしまっています。元々堅い身体の表面が、なにか古い木がこすれ合っているようなギシギシと固まってしまって、それ元に戻るまでもいくらか時間がかかるのでした。

 この日も、暖かくなって目覚めることができました。

 あまりの寒さにみんなが寝てしまっている間に外はたくさんの雪が降っていました。そして気まぐれに顔を出した太陽があたりを照らし、雪がそれを照り返して木の表面を暖めているのでした。

 今年は皆の記憶にないぐらいに雪が多く降りました。

 雪が降り止み、雲が流れた後、太陽の光は直接木の幹に当たり、さらに雪から照り返してくる日差しとで、二重に日が当たり、空気は冷たいのに日が当たるところはほんのりと暖まっています。昆虫たちが目を覚ますのには十分なのでした。

 こういう日は、話したり身じろいだりするぐらいは動けけても、少しでも冷たい風が流れ込んでくると、またまどろみの沼の中に落ちていってしまいます。

 その、眠りと眠りの間の隙間にあるほんの少しの時間で、ささやかな会話がかわされるのでした。

 照り返しで普段よりも暖められて、寝起きから元気なのがクワガタです。

 暑い時期の権化みたいなクワガタは、その勢いがそのまま残っているのか、身体が温まると途端に大声で話し始めます。

 その反面、テントウムシはその身体の大きさのとおり、ささやくような声で話をします。

 そんなテントウムシの目が覚めてすぐというのは、寝ているのと変わらないぐらいに静かで、話し始めてやっと目が覚めたのだとわかります。

 クワガタは相も変わらず食べ物の話をしています。

 カナブンはその話を一緒になり楽しんでいます。

 テントウムシは小さくあくびをしながら、こんなに暖かいというのは、外はどうなっているのだろう、と考えたのでした。

 木の幹と皮の間のわずかな間には、太陽と雪の照り返しの強い日差しの名残が入ってきますが、その明るさを直接感じたことはありませんでした。

 直接雪を見てみたい、と急に思い始めたのでした。冷たくて寒くていやなやつと思うことは今までにありましたが、今日みたいな日は、隙間から差し込んでくるあかりも何だかまぶしいぐらいにキラキラしているように思えます。そう思い始めると、すこし気持ちがそわそわしてくるのでした。

「ねえ、だれか雪を見たことってある?」

 照り返しの強い明かりで暖かくなり、あちこちで羽を伸ばしたり身じろぎをしたりとしている気配がします。

 少し離れたところから「見たことないなぁ」とか、「雪の中に出て行くのは危ないよ」とか返事なんかが帰ってくるのでした。

 クワガタは蜜の話以外は特に返事はありません。カナブンも食べ物の話以外はあまり興味はないのですが「雪の中じゃ新しい葉もないし、でない方がいいんじゃないかなぁ」と乗り気でない返事です。

 けれども、雪の日の太陽の明かりはとっても明るく、これから来る花の季節の柔らかい明るさや、太陽の季節の力強いギラギラとした明るさとも違います。なにやらまっすぐと射すようでそれでいて上からも下からも明るい、不思議な明るさなのでした。

 木の幹がめくれて、少しだけ差し込んでくる明かりを眺めながら、少しでもと思って、雪から直接光を浴びてみたいと考えたのでした。

 相変わらずクワガタとカナブンは食べ物の話をしています。他のテントウムシはというと、黒っぽいテントウムシは「早く暖かくなって、花の上で日向ぼっこができるようになればいいなあ」とのんびりと話をしていて赤の中に黒が点々とあるテントウムシは「葉っぱの先から飛ぶときに少しだけ辺りを見回すのが気持ちいいよねー」と、飛べないで居る雪の季節から暖かい季節へと気持ちを向けているのでした。

 テントウムシは思いました。

 ほんの少し。

 一目だけでも。

 小さな身体はほんの少し冷えただけでもすぐに眠りに落ちてしまいます。

 けれども、この暖かな強い光があれば、と考えていたのでした。

「少しだけ、外を見てみるよ」

 この季節にあちこち動くことのないテントウムシは、木の幹の中でゆっくりと移動します。

 これだけ明るいのだったら、きっと暑い頃のようにギラギラと明るいに違いない。

 雪が冷たくすべてを凍てつかせていても、日の光が暖めてくれれば動けます。

 木の幹の影から、少しだけ顔を表に出します。

 まばゆいばかりの光の世界、空から射すように照りつける日の光と、それを照り返して下から照りつけるまぶしい明かり。

 今まで見たことのある、葉っぱと土と木々の世界は、まるで上品に取り繕ったかのように真っ白な世界になっていて、ついつい、見とれています。

 遠くから枝が揺さぶられ、カサカサとした音がこちらに近づいてきます。

 強い風が吹き、こちらに向かっています。

 枝の揺れる音がすぐ近くまで来たかと思うと、さっと冷たい風がテントウムシをなでたのでした。

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雪の日 北緒りお @kitaorio

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