1 scene

ねむねむ

No,0 scene 笑顔が下手な僕たち。

「なんでいつも笑ってるの?」


眉を寄せて僕は言う。

無機質な病室。病院の消毒の匂い。

僕は彼女のベッドのそばの椅子に腰掛けた。

なんでいつも笑っているのだろう。

つらいときも、悲しいときも、いつだって彼女は笑っている。

医師に結核けっかくのことを伝えられても、現在治療法が見つかってないことを知ってもなお、柔らかく微笑んでいる。

そう、いつだって、どこか影のある笑みを浮かべているのだ。


「……笑うことしかできないのよ。」


悲しそうに、寂しそうに、笑った。

泣き出しそうな笑顔だ。

僕は彼女から目をそらして、ベッドの脇に置いてある空っぽの花瓶に目をやった。


「……泣いてもいいんじゃない。」


彼女が、また微笑んだのが分かった。

今度は、困ったような小さい笑み。

柔らかく、首を横に振っているのを視界の隅に捉える。


「……泣けないの。」


寂しそうに、言った。

嘘だ。今にも泣きそうなくせに。

……無理して笑わなくたって、いいのに。


「もう、泣き方を忘れてしまったの。

 ずっと昔に。」


もしも僕が、どうして泣き方を忘れてしまったのかを彼女に聞くことが出来たのなら、僕の心は幾ばくか楽だったかもしれない。

でも、僕は聞けない。

聞いてはいけないような気がした。

そこまで踏み込んでいいほど、僕は彼女と親しい関係にない。

彼女と僕を繋げている細い糸が、ぷつんと切れてしまうような……確信めいた予感。


「見てないよ。」


突如として僕の口から出た言葉に、僕も少し驚く。

彼女も戸惑っているのが分かった。

それでも僕は彼女の方を向かない。

ちらりとも見ない。

ただじっと、埃の被った空っぽの花瓶を見つめている。


「見てないから。」


泣いていいよ、と小さい声で続けた。

唇をぎゅっと結んで、花瓶から目をそらさない。

何故か目が熱くなってくる。

視界がじわじわとぼやけていく。

それでも僕は、古びた花瓶を見続ける。

じっと、目をそらさずに。


「…………ごめんね……」


俯きがちに力なく首を振る彼女に、僕は何も言えなかった。

彼女は泣いていなかった。

困ったように、悲しそうに、寂しそうに、微笑んで……俯いていた。


「別に。泣きたいときに泣けばいいんじゃない。」


怒ったような声が出てしまった。

言葉とともにそっぽを向いたとき、涙が散った。

窓から入ってくる日差しで、キラキラと輝いて、地に落ちた。

ひどく綺麗だった。

地に落ちた涙は、すぐに乾いて消えてしまった。

一瞬の出来事が、妙に鮮明に脳裏に焼き付いた。


「……あのね、私、別に笑いたいわけじゃないの……。」


突然発せられた声は寂しそうで、つい彼女の方に顔を向けてしまう。

心から絞り出したような、苦しそうな声。


「じゃあ私は、なんで笑っているのかしら?」


僕は何も言わない。否、言えない。

もう彼女は笑っていなかった。

眉を寄せて、悲しそうに、うなだれている。

涙は、一滴も垂れないのに。


「……泣きたい……」


そのまま、痩せた細い手で顔を覆う。

風が彼女の頬を撫でる。

彼女の絹糸のように柔らかい髪が、ゆらゆらと風に乗せて揺れる。

そうか、と僕は気づいた。

彼女は、泣かないんじゃなくて、泣けないんだと。

先程からそう言われていたのだが、実感が伴わなかった。理解が出来なかった。

でも、肩を小刻みに揺らしながら声を震わしている彼女を見て、「そういうことか」と自分の中で妙にすんなりと納得した。

ぼんやりしていた頭が、はっきりと冴える感覚がする。

と同時に、深い後悔に襲われた。


僕はなんて罪深いことをしてしまったのかしら。

彼女にとって、それは大きな悩みの種であったことは間違いないのに。

でしゃばりすぎた……嫌われてしまったかもしれない。


何か声をかけなければ、と思うが、何と声をかけたら良いかわからない。


「……ごめん……」


ようやく口から出たのは、慰めでも励ましでもなく、贖罪の言葉だった。

なんとも情けなく、頼りないことだろう。


「僕は、笑うことが出来ないから……君の気持ちが分からなかったんだ……。」


次に出たのは言い訳。

ここまで情けないと、自分でも笑えてくる。

しかし笑みは浮かばない。

僕は、笑うことができない。


「……いいの。」


寂しそうに微笑んだ、彼女。

僕と彼女は正反対だ。

泣くことが出来ない彼女と、笑うことが出来ない僕。

唯一の共通点といえば、難病を患っていることくらい……。

しばらく沈黙が訪れる。

大きな山場が過ぎたような、虚脱感が身を包む。

気だるい、といった方が正しいだろうか。

彼女が小さく息をついた。


「笑顔って、難しいよね。」


その言葉に、いつの間にか俯いていた顔を上げて、彼女の方を見る。

僕としっかり目を合わせる彼女の目は、芯のある目だ。

……とても、病人とは思えないような。


「笑顔が下手な、私たち。」


彼女は、僕と自分を交互に指さして、にっこりと笑った。

その途端、僕の胸の中で何かがはち切れんばかりに大きくなるのを感じた。

踏み込みすぎた僕を、受け入れてくれた。

許してくれた。

仲間だと、言ってくれた。

熱いものが頬を伝う。

そのまま流れるに任せ、拭うことはしなかった。

今日は、泣いてばっかりだ。

気恥ずかしくなって、照れくさくて、先程の空っぽの花瓶に目を移した。


明日から、僕が花を持ってきてあげよう。


とめどなく溢れる涙を、彼女は少し羨ましそうに見ていた。



窓辺のカーテンが優しく揺れる。

桜の蕾がほころんでいるのが、カーテンの隙間から垣間見えた。

もうすぐ春だ。



僕たちは、来年の春まで、生きていられるだろうか。








※結核……現在は治療可能。かつては不治の病として恐れられていた。

(参考文献:https://minamikyoto.hosp.go.jp/images/chisiki/pdf/kekkaku.pdf)

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