美保

「バカ野郎!こんなで足りるわけねぇだろ!」


美保は殴られた衝撃で床に叩き付けられた。

脳がバウンドする様な感覚、目の前が歪んで見える。


健児に殴られたのは初めてだったが、子供の頃から殴られ蹴られるくらいは茶飯事で、これまでの恋人からもそうした扱いを受ける事が珍しくなかっただけに、精神的な衝撃は少ない。


美保は肉体精神共に、暴力に慣れている。

なのでむしろ暴力の渦中に置かれている方が、慣れ親しんだ地獄に居る方が安心できた。


美保がメンズエステでお茶をひきながらも一月で何とか稼いだ一万円を握り締め、健児は目をギラギラさせいきり立っている。


「お前、俺を馬鹿にしてんのか?!そうだろう!あ?!俺程度にはこれでじゅうぶんだ、そういう事だろうが?!」


「…そんな、そんなつもりじゃ…」


「じゃあ、どういうつもりだ!」


健児は床に手をつく美保の顔を蹴りあげた。

鼻から生暖かい液体が流れる感触がして、手で拭うとそれは鼻血だった。


「俺は…俺はなあ!俺は華族なんだよ!華族つってもお前には分からねぇだろうが、要は貴族なんだ!

お前みたいな女は普通なら相手にもしない程の男なんだからな!

馬鹿にしやがって!ちくしょう!どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!」


健児は美保に馬乗りになり、殴り続けた。

最初は激痛が走る美保の痛覚は徐々に失われていき、やがて意識が暗い淵に沈んでいった。




美保は知らない部屋の中にいた。

白い壁や天井、高価そうな絵画や食器等が並んでいる洋間。


ここはお城だーーーーー


どういうわけかそう判断し、それは正しいと確信していた。


美保は映画で見るような、中世ヨーロッパの庶民の娘のような服を着ている。


しかし目の前にいる青年はこの国の王子だった。

王子は美しく、しかし冷たい目をしている。


美保はその冷えた目に惹かれた。

自分がその凍り付いた目を、心を溶かしてあげるーーーーそう思った。

そうすれば、この美しく権威と富を持った男を永遠に独占し、従える事ができるという野心が疼いた。


冷たい目をした王子は美保に歩み寄り、そしていつの間にか手にしていた剣をかざし、彼女の腹に突き立てた。


愕然とする間も無く、王子は剣を横に滑らせる。

腸や排泄物が血と共に床にぶちまけられた。


美しい王子はいつの間にか、ボロを纏った別の男になっていた。

頬がこけ、毛穴の目立つ肌は茶褐色、体は骸骨のようだ。無表情で、落ち窪んだ目だけが爛々と輝いている。


健児ーーーーー





目の前が暗転した。近くで誰かの啜り泣く声が聞こえる。

目を開くと健児がすぐ近くいて、片手で顔を覆って泣いていた。

美保はベッドに寝かされており、簡単な止血処理等の手当てがなされている。


「ごめん…美保、ごめん…ごめん…俺、どうしたら良いのか分からないんだ…好きな人に対して、一体どう振る舞うものなのか分からないんだ…皆、こんな俺から離れていく…美保もきっと…」


胸が締め付けられた。

健児も自分と同じなんだ、自分も人が離れていく…

共感と、仲間を見付けた、一人ではないという喜びがわき上がる。


「大丈夫よ、けんちゃん。私、けんちゃんから離れたりしない。

ごめんね…実は実家に頼む勇気が無くて…それ、メンズエステの給料なの。頑張ったけど、それがやっとで…

でも、頑張ってもっとお金作るから…」


美保は健児を抱きしめた。


「ありがとう、美保…君と一緒にいる時だけは安心するよ。

こんな事言って気を悪くしないでね?君は僕と似ている気がする…」


健児も同じ様に思っていたのだ。

彼には自分しかいない。彼は自分を裏切らず、永遠に離れないでいてくれる。

美保と抱き合い彼女の首を後頭部に向け、背筋が凍り付くような笑みを浮かべる健児に、彼女は気付いていなかった。

健児の三日月型に細められた目は爛々と輝き、口角は顔いっぱいにつり上がっている。

それはまるで獣の様だった。





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