父がしんだ日

kara

父がしんだ日

 これから、父の話をしようと思う。彼は、僕が中学二年の時に亡くなった。普通の家庭に比べたら案外早いと思うが、生まれてすぐに母親が他界したとか、学生の頃に家族から虐待を受けていたなどというのもよくある話だと思うので、僕が中学生になるまで生きていてくれた事は不幸中の幸いだったと思う。今回はそんなありふれた不幸の話をしようと思う。


 まずは父の生い立ちを話そうか。彼はある地方の片田舎で、ある農家の七人兄弟の五番目として生を受けた。兄弟は女性の方が多く、一番上とも十以上は離れていたので、他の兄妹たちにかわいがられて育ったらしい。その後まもなく母親が亡くなり、後妻に来た女性は二人子どもを授かった。大家族だったが、田畑をある程度保有していたので生活には困らなかった。けれど、生まれつき体が弱かったので、若い時から何度も入退院をくり返していた。残っている写真も病院で撮ったものが多い気がする。

 わりとすっきりと整った容姿のため、女性に慕われたこともあったらしい。けれど、当人はそう言った事にあまり興味がなかったようだ。幾人かの違う女性と写っている写真はあるが、のこされた日記や手帳には彼女たちの名前はほとんど記されていない。


 母の方はと言えば、父のいた場所から三百キロほど離れたとある地方で、ある夫婦の三番目の子どもとして生まれた。上が男二人だったから、そこそこかわいがられたようだ。その地域は同じ苗字の家がたくさんいる所で海が近く、歩いて七、八分も歩けば海辺へたどり着く事ができた。母が小さい頃は、塩などを販売する雑貨店をしていたらしく、こじんまりとした芝生の生えた庭付きの平屋に住んでいた。高校までそこで暮らし、親の決めた婚約者もいたようだが、そんな結婚なんてしたくないと高校を卒業後、近くの都会で一人暮らしを始めたらしい。


 そこでデザイナーの仕事を希望していたがセンスがなかったようで、タイプライターや事務の仕事をしていた。気になる人も一人か二人いたようだが、告白できずにそのまま終わってしまった。

 そのうち婚期が気になってきた頃、数年前に入信したキリスト教の牧師に

「いい人がいる」と父とのお見合いを勧められ、会う前から結婚しようと決めたらしい。


 父の方は、適齢期に周りから勧められた女性と見合いをし、気は進まないが外堀を埋められて結婚した。その人は、僕の姉と兄を産んでしばらくしてガンにかかり、姉と兄が七歳と五歳の時に他界した。

 父一人で子供を育てるのは大変だろうと、勧められた見合いで何人か会った後に母が来て、一緒になったらしい。しかし、好きで一緒になったわけではなかったようで、結婚したその夜に

「あなたを幸せにはできない」というような事を言われて母は泣いたそうだ。


 二年後に僕が生まれ、見た目は家族らしくなってきたが、愛情も特になく父の体調もかんばしくなかったので、思い返すと家の中がいつもどんよりとしていた気がする。


 小さい頃の記憶はあまりないが、朝起きると訳もなく悲しくて、よく泣いていた。父からうるさいと怒られて外へ追い出され、泣きわめいても母を呼んでも中に入れてもらえず、家の周りをうろうろして開いていた窓からはだしで入った。そこに居合わせた母に驚かれた記憶がある。

 昔、母の日記をこっそり読んだ時(なぜそういう状況になったか覚えてないが母の留守中に部屋へ入りこんだのかもしれない)、彼女も父を怒らせてしまい、夜中に外へ追い出され明け方になってようやく中に入れてくれたという記載があった。父はいつも体調が思わしくなかったから、気分も不安定だったのかもと今では思う。けれどその頃はそんな事は分からないから、不用意に発言すると何かにつけて文句を言われたり怒られたりしていた。なので父がいると、また何か言われるのではと顔色を伺ってびくびくしていた。

 けれど、何年か前に歳の離れた従姉妹と久しぶりに会った時

「カイ(僕の事)は叔父さんが年がいってからの子だったから、本当に可愛がってたよねえ」

などと全く身に覚えのない話を聞いて、思わず首をひねってしまった。思うに、それは僕が物心つく前の話だったのだろう。元々は優しい性格だったかもしれないが、闘病生活や仕事などで神経が摩耗まもうしてしまったのかもしれない。


 まだ市役所の仕事に勤めていた頃は、家族の誰かの誕生日にフルーツケーキやバターケーキなど買ってきたりしていたが、だんだんと体力がなくなって仕事を休みがちになり、それに比例して気難しくなっていったようだ。思い返すと意志があまり強くなかったようで、僕が就学する頃に体の為に酒やたばこを止めようとしていたが、養命酒を始めたら酒に弱くて泥酔してしまったので早々に止めたり、僕がおやつを確保するためにお菓子を作ったら、それをあらかた食べてしまうというような事が往々にして起こった。


 食べるものは体にやさしい物や野菜中心で、主食は玄米などだった。家族も同じものを食べていて、家に精米機が置いてあったり、麦茶の代わりにドクダミという植物の葉を煎じて飲んでいたりした。白砂糖は毒と言われ、市販のお菓子はNG、残された手段は自分で作るくらいだった。

 それでも父の虚弱体質は特に変化せず、年々痩せ細り、僕が中学に入るころは文字通り骨と皮だけになってしまった。


 身長は百七十センチちょっとくらいだったので、父の年代のわりには高い方だと思う。けれど、晩年には体重が僕より軽くなっていたのではないだろうか。僕はその頃百三十五センチほどで、体重も軽い方だった。中学の頃に何となく体重のグラフをつけて冷蔵庫に貼っていたが、父も同じものに自分の体重をつけ始めた。

 すると、だんだん僕と父の線が近づいていって、僕の方が超えそうになったころ、彼は線を引くのを止めてしまった。そして、中学二年の十一月に入った頃父は全身の検査をするため病院へ入院した。


 こうやって父や周囲の人たちの事を書いていると、父には趣味や楽しみがあったんだろうかという思いに行き当たる。たしか、自宅の部屋で一人囲碁をやっていたり、NHKの人形劇や大河ドラマを欠かさず見ていた覚えはある。

 けれど、彼の友人が家を訪ねてきたり、誰かと遊びに行ったりというのは全くと言っていいほど記憶がない。母は母で、生まれてからほとんど地元で暮らしていた所を結婚のために地方の辺鄙へんぴな片田舎に来て、二人の継子ままこも突然できて、夫も頼りにならない状態でさぞ心細かったろうと思う。それで、熱心なキリスト教信者への道に走ってしまったのかなと今は推測できる。


 けれど、姉や兄が十八になるとすぐに家を出て行き、父も他界して母と二人きりになってしまったのに、毎週の木曜は祈祷会きとうかいという、夜に行われている会合に必ず出かけて行って、僕は心細い思いで独りで晩ご飯を食べていた。年齢が上がるにつれ、その日は好きな事が出来るので(主にテレビくらいだが)楽しみになってはいたが。


 父が亡くなった時に話を戻そう。ある年の十一月に父は入院した。体が弱っていたので、入院する為に検査をしていたと言ってもいいだろう。そして、その一週間後に危篤きとくと知らされ、その頃なぜか近所の叔母の家にお世話になっていたのであわてて叔母と病院へ行った。昼過ぎには病院へ着いたと思う。父は慣れない事をしたため体力が尽きてしまい、衰弱すいじゃくしてしまったようだ。

 病室へ入ると、彼はベッドに寝て呼吸器をつけ、周りに親戚や年の離れた大きな従兄弟が立っていた。本人の意識はあるようだがもうあまり力がないようで、遺言か何か伝えたい事をペンで書こうとしていたが、うまく紙に書くことができなかった。

 そのうち心臓が動かなくなってきたようで、看護師らしき人が必死に心臓マッサージをしていた。それで心電計とかいう心臓の動きを表す機械がどうにか

「ピッ、ピッ…」と鳴っている状態だった。

 姉は近くの病院に就職していたのですぐに駆け付けられたが、兄は鹿児島の大学に行っていたため急いでバイクで向かっていたが、死に目には会えなかった。


 どれくらいマッサージをしていただろう。ずいぶん長い間だった気がする。ともかく自発呼吸ができず、人力で心臓を動かしていても自分では生命を維持できない状態だと医師が判断したのだろう。看護師が処置を停止した。心音のピッ、ピッ…という音が

「ピー…」

というものに変わった。周りの親戚たちのすすり泣きが大きくなる。

「ご臨終です」 

 医師が、父の死を告げた。


 ***


 記憶がはっきりしないが、遺体を家へ連れて帰って父の部屋に寝かせた。通夜をして葬式も自宅でやったと思う。どれくらいの数の人達が来てくれたとか、そういうのはよく覚えていない。学校を休んで五日目くらいに僕の友人が来て

「家にいるなら、早く学校に来たらいいのに」と言われたのは何となく覚えている。


 父が入院してすぐ、僕は印象的な夢を見ていた。エスカレーターに乗るかそれが動いているのを見ていて、父もいた気がする。直接的なシーンはなかったが、何となく彼が亡くなる予感がした。目が覚めた後、そんな夢を見てしまうなんてとおそろしかった。自分が父の死を望んでいるのではという気がしたからだ。そして、彼は間もなく亡くなってしまった。悲しかったけれど、そんな夢を見てしまったせいじゃないかと思い、今まで誰にも言えなかった。

 けれど、あれほど衰弱した状態で入院すると聞いて、幼いながらも無意識のうちに彼の死を予期したのかもしれないと今では思う。


 以降、僕の生活はそう変わりばえしなかった気がする。中学に入った頃からだんだん教会へ行かなくなり、日曜も友人と遊んでいた。中一まで数年に渡ってひどいいじめにっていた。詳細は省くが、人としてのプライドを踏みにじるような類のものだった(今思うと、家の中が暗くて家庭不和のために僕の性格も陰気だったから、周りも嫌だったのだろう。許そうとは一片いっぺんも思わないが)。中二になるとそのメンバー達とはクラスが変わり、中三の時も受験で皆忙しくなったようで、そういう目にもわなくなってホッとしていた。高校では同じ学校の人がほとんどいなかったので、いじめられる事もなくて快適だった。

『父親が亡くなった片親の子ども』と分かりやすい不幸にくくられたので、かえって楽だった気がする。


 そして、両親が不仲だったり他の家族との仲も良くなかったりしたので、家族に対するプラスのイメージが皆無で結婚願望も全くなかった。結婚して幸せになれるなど露ほども思っていなかったし、自分ができるなんて考えていなかった。

 けれど、たまたま趣味で知り合った異性と結婚し、二人の子供をもうける事ができた。二人とも出来がいいとは言いがたいし上の子は不登校ぎみだが、元気に日々を過ごしている。

 夫婦仲もそう良くはないが、それほど悪くないと思う。最近は長男の不登校でケンカが多い気がするが…

 だからどんな人生を生きていても、幸福になるチャンスは誰にでもある気がする。結婚だけが幸せとは思わないし幸福の形は人それぞれだから、一概いちがいには言えないが。

 それに、これから先どうなるかは予測がつかないけれど。


 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

父がしんだ日 kara @sorakara1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ