22 : Lynn

 兵站病院の天幕テントから出ると、不思議な光景が広がっていた。

 雨粒がゆっくりと天から地へと移動している。時間は止まっているのかと思いきや、どうやらゆっくりと進み続けているようだ。


 ––––綺麗––––

 ––––まるで、雨上がりの森で見かける蜘蛛の巣みたいだ––––


 空は既に薄暗く、そんな中でも水滴だけがキラキラと輝いている。

 世界はこんなにも美しい。


 考えてみれば、この世界は始めから美しかった。

 厳しくて、冷たくて、残酷で、日常のすぐ隣に死の気配があって––––だからこそ美しかった。


 観察していると、時間の流れは一定ではないようだ。

 雨粒は、ほとんど止まってるみたいにじっとしているかと思えば、ふっと急ぎ足で地面へと向かう瞬間があったりもして、ああ、あたしってば本当にこの世界の例外になっちゃったんだなー、などと感慨深く感じ入る。

 時間から、世界から、空間からあたしだけが切り離されて、追い出されて、はみ出して……今のあたしはこの世で一番孤独だった。

 でも、ちっとも寂しくなんてない。

 魔力とは生命力だ、と誰かが言った。

 寂しくないのは、きっといまのあたしが過剰なほどの生命に包まれているからだ。


「あはは、魔力が使い放題だ」


 ちびちびと節約しながら使っていたのが本当に馬鹿みたいだ。

 自分の中にある魔力精製器官なんて、ちっちゃすぎて話にならない。

 なぜあんなちっぽけなものに頼っていたのだろう。魔力なんて、辺り一面にいくらでもあるのに。


 ツキリ、と眉間のあたりに痛みがある。不快な痛みではなく、どちらかというと心地よい痛みだ。

 なるほど、魔力は眉間のあたりから受信しているらしい。そこだけがどこか暖かく、じんわりと優しく痛い。


 そう言えば、魔力を使いすぎるとフラフラして頭が痛くなったりしたが、あれはどういう現象なのだろう。今や、体は絶好調。なんなら空だって飛べそうな気がする。世界中の魔力を独り占めするかのような万能感があたしを支配している。


 試しにジャンプしてみると、いつもの数倍程度の高さまでは跳ぶことができた。ちょっとした木々の枝くらいまでなら軽く届くが、これでは飛行というには程遠い。

 どうやらそこまで世界の法則に反することはできないようだ。

 残念。


(そう言えば、いつまで経っても時間の伸長が来ないわね)


 加速すれば必ず伸長がやってくる。

 これまでに、何度も何度も試してきたことだ。

 それを避けるためには、隙を見て予め伸長してく必要があった。加速のあとに加速することはできないし、伸長のあとに伸長することもできない––––それが結論だった。

 今は、加速中に加速したり、伸長中に伸長したりとすることで自由度は増したが、結局のところ、自分だけ時間を余計に使ったり、スキップしたりはできない。

 そのはずだった。

 今のあたしは伸長のキャンセルなど当たり前にできる。


 時間とは奇妙な存在だ。うまく使えば、重力を無視したような動きが自在にできる。一瞬力を込めて地面を蹴ってすぐに伸長すれば、始めに伝わる力を利用して、壁を歩くことすらできる。


「あはは。あははははは」


 万能感があたしを支配する。

 とても朗らかな気持ちだった。

 辺りにいる兵たちは、あたしの存在にすら気付いていないようだ。

 ぼんやり歩いてるようで、目で追えないほどの速度が出ているはずだ。

 もし目で追える兵が居たら、一体どれほど不気味に見えるのだろうか。

 想像するとちょっと楽しい。


 あっ、敵だ。殺そう。



 * * *



 何をしたかったんだっけ?

 ああ、そうだ。


 ハルバルツ・ノイエ・ハーヴィスト。

『はぐれ』と『はぐれ』の間に産まれた『はぐれ』のサラブレッド。

 と同じ名を持つ、この世界で産まれた『はぐれ』。

 一体何からたのかはわからないが。


 彼の目にはこの世界はどんなふうに映っているのだろう。

 あたしと違って、彼にはあちらアースガルズの記憶はない。

 この世界ミズガルズの人々と『はぐれ』であるあたしとでは、物の見え方が違う––––なら、彼には彼にしか見えない光景があるのだろうか。

 あたしは今でも日本人だ。サーヤとユヅキもそうだし、アーサーさんなら英国人。ノイエの顔には明らかに欧米の血が混じっているので、元の世界なら混血ハーフということになるのだろう。しかし彼は生まれも育ちもこの世界ミズガルズだ。

 もはや訳がわからない。

 彼自身も、自分が何者かわからないのではないか。


(生き辛いだろうな)

(まぁ、殺すことには変わりないんだけど)


 散歩でもするような足取りで、あたしは戦場を歩く。

 味方が––––もはや彼らを味方と見なす意味がどれほどあるかはわからないが––––危なそうならとりあえずちょっとだけ手助けしたり、強そうな敵が居れば排除したりしながら、あたしはのんびりと戦場を歩き続ける。


 ノイエはどこ?


 そう言えば、魔力探知を忘れていた。

 視線を魔力というフィルタに通すと、世界は様変わりする。

 ノイエの存在は強烈だった。強大だが魔物よりも暗い輝きだった。

 探しても、他の輝きに邪魔をされてなかなか見つからない。


 ふと違和感を覚える。

 後ろから、鮮やかな輝きを放つ存在が、まっすぐあたしに向かってきていた。


(この加速した世界で?)


 振り返らなくてもわかる。


 ハルバルツ・ハイジ・フレードリク。

『はぐれ』の守護神、ライヒの『番犬』––––魔物の森のハイジ。


(邪魔だな)


 あたしは駆け出す。

 あっという間に彼との距離が離れていく。今のあたしに追いつけるような人間は、どこの世界にだって居ないだろう。彼には追いつかれたくはないし、もし戦いになったら、殺さざるをえない羽目になるかも知れない。そんなのはごめんだ。


 今のあたしの敵はノイエ一人。


 ずっと気づかずに行きていければ幸せだったのに––––残酷な現実を見せつけてくれた、奈落の目を持つ、うねる黒髪の少年。


(あたしを殺したいんでしょう?)

(今度は逃げないわ。何ならハンデを付けて、能力を使わずに戦ったっていい。差しサシでやりましょう)


「あはっ」


 楽しくなってきた!

 よーし、ハイジが来るまでに全部終わらせよう!

 彼は優しすぎるから。

『はぐれ』が相手だと本気を出せないから。

 なら、あたしが代わり殺してあげる。

 それで万事解決!


 あたしはキョロキョロとノイエの気配を探す。

 早く、早くろう。

 一刻も早くり合おう。


 タイム・リミットはハイジの到着まで。

 それまでに、殺して、殺して、殺し尽くしてあげよう。

 そしてもし彼が彼の死を悼み、あたしに剣を向けたなら。

 そのときこそ、あたしは殺そう。

 あたしの大事な大事な、大好きな初恋の彼ハイジを。



 ––––見つけた!!



 * * *



「『黒山羊』ッ?!」


 ノイエはあたしの気配を感じたとたん、慌てて剣を構えた。

 まさかこんな敵陣のど真ん中までやってくるとは予測していなかったのだろう。

 必要がなかったので特に気配遮断はしていなかったが、それでも油断仕切っているタイミングでもあたしの気配に気付くとは。


「さすが『はぐれの子』ね」


 既に加速は解いている––––この程度の練度の敵に、能力など必要ない。

 まぁ、勝手に威圧やら殺気やらは漏れてるかも知れないけれど、流石にそれはノーカンだろう。


「その呼び方はやめてよ、『黒山羊』のリン」

「あなたこそ、二つ名付きで呼ぶのはやめてね」

「殺されに来たの? 「黒山羊』のリン」

「殺しに来たのよ、『はぐれの子』」


 辺りは敵だらけ。味方は一人も居ない。

 あたしは彼らを無視してノイエと対峙していたが、敵にとっては無視できるものではないのだろう。一斉に剣を抜いて、あたしを睨んでいる。


 能力を使わないとは言ったが、それはノイエに対してだけ。

 邪魔者にはとっととご退場いただこう––––時間停止。



 * * *



 目の届く範囲の全ての敵をなで斬りにして、元の位置へ戻る。

 コンマ一秒もかからない。

 停止を解くと、辺りの敵の首が全て同時に落ちて、血が吹き出した。


「…………は?」


 ノイエが固まっている。

 どうやら、何も見えなかったようだ。

 いきなり周りにいた味方の首が一斉に転がれば、それは驚きもするか。

 それにしても––––想像以上に練度が低い。


「あは」


 驚いてる顔がまた面白い。

 まだ驚きが恐怖に変質していない。何が起きたか理解できていない。

 ただキョトンとしていて……それが徐々に恐怖に染まっていく様を、あたしはじっくりと観察する。


「何をした……ッ?!」

「殺した」

「どうやってって聞いてんだよ!!」

「んー? こう、一つずつ、一個ずつ」


 ノイエは顔面蒼白になっているが、安心してもらいたい。

 あたしは貴方ごときに能力を必要としない。


「貴方だって、特殊能力チートを使ってるでしょうに」

「だからって……、いくら何でもでたらめだっ!」

「さっきはあんなに楽しそうにあたしの能力をキャンセルしてくれたじゃないの」


 来ないの? と首を傾げると、ノイエは気圧されたように後ずさる。


「あなたのやったアレ……下手すると爆散してたかも、って言われたよ」


 ヘラっと笑ってやる。


「そんなことしたら死んじゃうじゃないの。殺される覚悟もなく、殺そうとしたの? ……とんだ甘ちゃんね」

「うるさいっ! ハイジさんに保護されて、大事にされて行きてきたくせに、いい気になるなよ!」

「あら? 何? 自分語り? 不幸自慢はやめてほしいんだけど」

「何でお前なんだ……ッ! ぼくだって、ハイジさんと居れば、お前みたいな力が……」

「大した努力もしてないくせによく吠える」

「……お前に! 何がわかる!!」


 あたしの言葉は、ノイエの逆鱗に触れたようだ。

 そうだ、かかってこい。

 どれだけ不幸だったか知らないが、少なくともあたしはお前の百倍は努力したぞ!


 フラッ、とあたしに迫るノイエの姿が滲む。


(おっと)


 気づくと、ノイエがあたしの認識よりも近くに迫っていた。

 ヒョイ、と避ける。

 ヘッピリ剣だ。受けてやるほどの価値はなさそうだ。


 ピュンピュンとレイピアが縦横無尽に暴れ回る。

 練度の低い剣だ。魔力もしっかり乗っている。当たればただでは済まないだろうが、わざわざ当たってやる義理はない。

 というか、この時あたしはむしろ上級者の剣よりも避けづらいことを知った。

 セオリーがないし、基本がなってない。つまり予測が立てられない。

 それでも、なんなら見てから避ければいい。何の危険もない。


 この程度の敵に、ハイジが翻弄されたというのか。

 あたしはちょっとムッとして、ノイエの剣が低い位置を狙った瞬間に踏みつける。


「あっ」


 手からレイピアを落としてノイエが声を上げる。

 ハァ、とため息をついて、あたしは数歩下がって「やり直し」と宣言する。


「……はぁ?」

「拾え。能力を使え。その程度じゃ殺す価値が無い」

「……目にもの見せてやる」

「喋ってる暇に、あたしなら百回貴方を殺せるわ」

「黙れよ!」


 走り寄るノイエ。

 しかし、ノイエの剣はどこか上の空だった。

 懸命に剣を奮ってはいるが、剣であたしを殺せるとは端から思っていない動き。


(ああ、なるほどね)


 ハイジが「勝てない」と言った理由がわかった。

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