#17B 小悪魔ハルとの追体験/水難の相



僕の部屋の浴室はあまり広くない。ましてハルの部屋の浴室と比べたら雲泥の差だ。ユニットバスだし、洗い場もなければトイレも一緒だ。掃除はしているから清潔感はなんとか保たれているけど、築年数は20年を軽く越えている。そんな浴室に夢咲陽音が入っていると思うと、なんだか変な感じ。



キス……しちゃおっか、なんて迷言を口走ったハルは再びリビングに現れて、僕は半ば強引に浴室まで引きずられてしまった……。




「あのさ。さすがに無理があるんじゃないかな。脱衣場もないようなユニットバスなんだから、一人で入るのがセオリーだと思うけど」

「本当は着替えるのも怖いんだよ? 目を瞑っている間に世界が変わっちゃったらイヤだもん」

「それって子どもというか幼児の着替えのときのやつだよね?」



なにかのビューチューブチャンネルでたまたま見たことがある。子どもが着替えをさせられるときに服を脱がされる瞬間が一番怖い……とかなんとか。上着がなかなか頭を通らなくてパニックを起こしていたっけ。



「バカにして……じゃあいい……このままお風呂に入りながら消えちゃうんだから。ルア君はわたしが神隠しにあってもいいって言うんだね。誰もわたしのことを認識してくれない孤独って本当に怖いんだからねっ!」

「それは分かったって……でもさ」



ユニットバスのカーテンの向こう側から、脱いだ服を一枚一枚僕に手渡してくるわけ。確かにそこから洗濯機は遠いよ? だからといってなんで僕がハルの洗濯物を洗濯機に入れなきゃいけないんだ……?



「はい、まずはTシャツね」

「そういえば、年末から飛んできたって言ってたけど、この夏着はどこで入手したわけ?」

「えっと……コートの下に着ていたやつだよ。コートと長袖はさすがに暑くていらないから捨てちゃったけど。はい、次はジーンズ」



Tシャツとジーンズを受け取ったところでヤバいことに気づいてしまった。これって、全部脱ぐつもりだよね? そうなると次に来るのは……。



「はい、下着」

「それはいい。っていうか羞恥心とかないわけ?」

「……あるよ。カゴ出してくれれば入れるから。下着姿で入浴はイヤじゃん」

「……か、カゴでも抵抗あるって」

「ほら、パンツも。カゴから直接、洗濯機に放り込んでいいから」

「気が引けるって」

「たかが布じゃないか。ほら、早く。寒いよぉ」

「寒くないだろ。むしろ暑くて死にそうなんだが」



クーラーを掛けていても浴室まで冷気は届かず、現在のユニットバス内温度は28度くらいある。裸でいても汗ばむほどの室温なのは間違いない。



「ほら、ルア君早くしたまえ。ああ、分かったよ。受け取らないなら裸で出ていって洗濯機に入れるからいいよ」



ハルはカーテンを捲くって、本気で出てきそうだったから慌ててカゴに下着(上下)を入れてもらった。丸めていたとしても布地は丸見えで……頭がクラクラする。白かったような気がするけどあんまり見ないようにして、ハルの言うとおりカゴから直接洗濯機に放り込んだ。



「ルア君」

「今度はなに?」

「目の前に裸のアイドルいるけど、覗いたり、いやらしいことしたりしないんだね?」

「……? するわけないじゃん」

「へぇ。わたしね、ルア君ならいいと思って、少し覚悟は決めていたんだ」

「は? ハル……? なに言っちゃってんの?」

「わたし、ルア君の家を追い出されたらどうにもこうにもならないじゃない? だって、ルア君以外頼る人いないんだもん」



誰もハルを認識できないから当然だし、僕が締め出したらきっとハルは路頭に迷う。それは殺人行為と同義だと思う。だから泊めてあげる以外の選択肢はないのは確かだ。



「それがどうしたっていうの?」

「それでルア君の家に泊めてもらうってことはさ……そういうことをされても文句言えないのかなって」

「いやいやいや。僕はハルをそんな風に見ていな……」



え。覚悟を決めてきたとか、文句を言えないとか。それって僕と……そういうことをするつもりでいるってことじゃないかっ!

据え膳食わぬは……男の恥……?

ハルは本気で言っていたのか。キスしちゃおっか……とか。真面目に捉えたら大変なことになりそうだ……正直、怖い。



「見ていないの? わたしってそんなに魅力ない? ルア君は経験豊富で彼女もいたし、慣れているかもしれないけどさ、わたし……経験ないし、分からないことのほうが多いから、め、迷惑掛けちゃうかも……なんて思ったらちょっと恥ずかしいんだけど」

「待て。本当に待って。僕は……経験豊富どころかハルと同じでなんの経験もないよ? それに……ハルは自分を安売りしないで、本当に好きな人ができたときのために……そういうことは大切に取っておいた方がいいと思う」

「……え? なにもない? は? 蒼空ちゃんと結構長く付き合っていたんだよね? 5ヶ月とか言っていたっけ?」

「まあ……一応。信じてもらえなくてもいいけど、本当になにもなかった」

「は? あはは……は……。ルア君のウソつき」



ユニットバスのカーテンから顔を出したハルは目を細めて、僕を信用できない男認定でもするかのようにじーっと見つめる。そりゃそうだよな。5ヶ月どころではなくて、まさか僕が蒼空と5年間も付き合っていて、それでもなにもなかった、なんてハルが知ったらいい笑いものにされるかも。



……情けないにも程があるって。自分でも分かっている。



「ウソじゃないって」

「ちゃんとわたしの目を見て」

「ほんとに」

「ほんと?」

「うん」

「……ルア君がそういうならそうなんだろうね。じゃ、しちゃう?」

「え?」

「初体験」




キス(してないけど)の次はなにを言い出すのかと思ったら……。




これは……デジャブのような。以前にも同じようなことを言われたような気がする。意味合いは違った気がするけど。カーテンから顔を引っ込めて「いひひ」と笑ったハルはユメマホロバの曲の鼻歌を歌いながらシャワーで身体を流し始めた。なんでいきなり上機嫌になったのか分からなかったけど、まあ、楽しそうならいいや。



辛いながらも楽しそうに演技しているハルしか見たことなかったから。いや、今も辛いのは変わりないんだろうけど。でも、この一時だけでもそれを忘れてくれるならいい。



それでだ。大惨事なのはここからだ。



「仕方ないから今日は素っ裸で寝ます。お触りは3回までとする」

「……はぁ。いや、さすがにそれはない。ありえない。ないったらない」

「だって……下着もなければ着替えもないもん。いいじゃん。わたしとルア君しかいないし」

「買ってくる」

「女性用の下着を? 分かるの?」



分からん……でも、このままだと万事休すじゃん。

よく考えたら、僕は売り場にすら入れないよな。もしその聖域に入ったとして、神の雷を食らって一生太陽を拝めない身体になってしまうかもしれない。なんて無情なんだ、あぁ神よ。



ハルも少しはわきまえて、バスタオルを巻いただけの状態でその辺をウロウロしないでほしい。ワンルームしかない部屋だから仕方ないけど……。でも、あまりにも刺激が強すぎて、これは頭がおかしくなるかもしれない。夢咲陽音の……写真集(実はハルと会えない一ヶ月の間に電子書籍でチェックした)を見てもハルは、まあスタイルがいいこと。胸はそれなりに大きいし、ダンスをしているだけあってウェストは細い。その水着姿をイメージしながら目の前のハルを見ると、ハルはなぜか僕にすり寄ってきた。やめて?



「ねえねえ、ルア君。視線がエロいって」

「は? な、なに言ってるの。そんなこと」

「あるよ。でも咎められるようなことじゃないって。男子の部屋でバスタオル一枚の女子がいればそうなるの当たり前だって。だから」

「……だから?」

「このままでいいよね?」



いや、会話の繋がりがおかしいって。



「よくないよくない。ああ、そうだ。Tシャツとハーパン貸すから」



さっき、クローゼットの中から新品のアディドスのハーパンとノースファイスのTシャツが出てきたことを思い出した。おそらく、サマーセールで買ったんだろうって思う。これを貸せばとりあえずなんとかなる。



「ぶかぶかだよ。下着ないと浮き出ちゃうし」

「な、なにが?」

「ちk——」

「あああああああああああああ言うな。コンビニダッシュしてくる」

「え……ちょ、ちょっと待っ、」



全速力でコンビニにダッシュして、とりあえず片っ端から買い込んだ。サイズとかを訊くとまたよく分からん回答をしそうだったから、仕方なくあるものすべて買ってきた。残金が残り少ないけどこの際気にしないことにした。

下着兼キャミソール? みたいなのが売っていたのと、パンツは普通に置いてあった。レジの店員さんは女性だったから少しドギマギしたけど、意外と不審な目で見られなかったのには驚いたな。



「はぁはぁ、買ってきた」

「え。ルア君よく分かったね」

「いや、分からないから全サイズ買ってきた」

「ありがとう。いやぁ、こういうこともあるんだね。わたしも一人暮らしをしたら、下着と服を用意しておくね」

「どんな状況……は?」



そういえばハルは、僕にサイズぴったりの服を部屋に用意していたような?

って……あれはストーカー対策だったから違うと思うけど。



「服はお借りします。今度新品買って返すから」

「いや、いいよ。洗えば使えるし」

「ううん。ブランド物じゃん。お金はあるから心配しないで?」

「なんかムカつくな」

「あはは。あ、だめじゃん……今は今無一文だった……シクシク」

「ったく。ハルは」

「あ。そうだ。キスしないと、からの初体——」

「それはいいって」

「つまんない」

「つまんなくない」

「拗ねない」

「拗ねてないよーっだ!」



ハルは僕をからかって笑っているんだ。真に受けたら大変なことになる。相手はあの夢咲陽音なんだからさ。傷一つつけないようにしないとな。



結局僕はソファに寝ることにして、ハルはつまらなそうにベッドに潜り込んだ。カーテンの隙間から漏れ出た月の光が青白く輝き、ハルと過ごした世界線Aのことを思い出してしまう。向こうのハルが無事だといいんだけど。



身を起こしてハルの方を見るとタオルケットをベッドの下に蹴り飛ばして、体を丸めて寝ているハルは「ルア君……助けて」とうなされているようだった。やっぱり夢見は悪いよなぁ。こんな状況だし。もし僕になにかあればハルは永遠に孤独になってしまうかもしれない。それはハル本人も痛いほど自覚しているはず。本当に可哀そうだよな。



ベッドサイドに片膝を折ってしゃがみ、ハルの頭をなでた。髪は……触れてもバチは当たらないだろうと勝手に解釈したけど、もしかしてこれ自体も痴漢になるのか……?



「ルアくん……ぜったいに……しなせ……むにゃ」

「ん? なんの夢を見てるんだよ」



すると寝ぼけてハルは僕の手首をつかんで、自分のほうに思いっきり引き寄せた。当然、片膝立ちをしていた僕は上半身を投げ出すような形で、ハルに覆いかぶさってしまう。一瞬触れてしまったハルの胸の感触がはっきりと……。そして、僕の顔の目の前にハルの顔が……唇が。ハルに吐息がかからないように息を止めているのに、ハルの吐息は僕の口をくすぐるように……。



『キスしちゃおっか』



ハルの小悪魔の囁きが頭の中でグルグルと。



やばい……。やばいって。今ならキスしてもバレないんじゃないか……?

いや、キスをした瞬間目を覚まして……殴られて僕とハルの良好な関係に終止符を打たれて……ダメだ。それは嫌だ。



今度は、ハルの足が僕の腰回りに絡みついていて、抜け出すにも四苦八苦しそう。変な角度で自分の身体を支えている左腕が痺れてきた。ハルを押しつぶすわけにもいかないし、どうしたらいい?



そしてハルは突然僕に抱きついてきた。抱擁ってやつ。そのまま寝返りを打って、僕はなすすべもなく転がされる。ハルを潰さないように最大限右腕に力を入れて、ハルをまたぎながらベッドに横になった。なにこれ。寝技じゃないよね?



結局、世界線Aでハルの部屋に泊まったときと同じ状況になってしまった。不可抗力だよね?







スパーブのスタジオでひたすら自己練を重ねていた。夏のイベントに向けての練習もあるけれど、ダンスをしているときだけは何も考えずに済むから。周りからすればストイックに見えているかもしれないけれど、実際はダンスが好きなだけ。ダンスを奪われていないだけまだマシなのかもしれない。



「あら。蒼空ちゃんまだやっていたの。23時には私帰っちゃうわよ」

「はい。大丈夫です。あと30分で帰宅しますから」



如月凜夏きさらぎりんかという講師は割と天才肌だった。そしてどこかスピリチュアルな感じがして、女子高生や女子中学生の生徒からの人気は高い。年齢は確か葛根冬梨と同い年で、二人はあまり仲が良くないことをあたしは知っている。



休憩を入れようと座り込むと、また如月凜夏が「ちょっといい?」と声をかけてきた。



「ねえ、蒼空ちゃん」

「はい?」

「春亜君となにかあった?」

「いえ、別に」

「ならいいんだけど。春亜君……禍々しい何かを連れているような気がしたから」

「え……なんですかそれは?」

「ううん。気にしないで。でも、蒼空ちゃんも気をつけてね。水辺には近づかないこと。が出ているから」

「如月先生……本当に驚かさないでくださいよ?」

「ごめんごめん。私、神社の娘だからさ。どうしてもそういうの見えちゃうのよ」



普通見えていてもそういうことは隠すわよね。水難の相ってなによ。溺れて死にそうになるっていうの?

それよりも、春亜が禍々しい何かを連れているって言っていたけど、そっちのほうが気になる。確かに今日の春亜は独り言が多くて誰かと話しているような雰囲気だった。わたしは霊や霊能力の類はまったく信じないけど、如月凜夏がそう言うとなんだかそんな気がしてくるから不思議だ。



「先生やめてくださいよ。夏だからって怪談とかベタすぎじゃないですか」

「そうね。ところで春亜君と順調? 付き合っているんでしょ?」

「……まあ」



さっきフラれたとも言い出せずに如月凜夏の問いにうなずいた。



「先生こそ、葛根先生と昔なにかあったんですか?」

「……ないわよ」

「そうですか」



よいしょ、と立ち上がった如月凜夏は背伸びをして「気をつけて帰って」とこちらを向かずにスタッフルームに戻っていった。



水難か。




あたしは足代わりに葛根を呼び出して、自宅まで送ってもらって帰宅した。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る