猫と彼女とラーメンの話

里塚

猫と彼女とラーメンの話

 カップラーメンが宙を舞う。合成樹脂の白い器からこぼれたスープがアスファルトの地面にへばり付き、遅れて飛び出た麺も仲良く運命を共にする。心なしかメンマや叉焼が小さく見えるのは昨今の物価高の影響もあるが、落ちた先が夜道だったからという要素のほうが大きいだろう。器のなかでは主役と言わんばかりに自己主張していたかやくたちも夜の東京を知ればたちまち有象無象の仲間入りである。有象無象では食えない。そういうわけで、フリーター、羽田 俊は給料日まえ最後の夕食の変わり果てた姿をまえに、力なく笑った。


 振り返った先にはこの惨劇の生みの親である濃茶の存在がいる。民家の塀の上に昇り、感情の無い目でこちらを見下ろす四足の獣、茶猫はひとつにゃあと鳴くと、足早にその場からいなくなった。


「海に還れ……」


 故郷の広島でよく使われる言い回しを口にしてから羽田は諦めて帰路に就く。断食二日目の長身痩躯に冬の風が当たり否応なく震えが止まらなくなるが、そんな彼を受け止めてくれる人などいるはずもない。到着した先の狭いアパートの一室にて、誰に向けるわけでもない怒りをため息に変換し、見上げた先には黄ばんだ天井と白色の火災報知器がひとつ。天井にすら火災報知機があるのに俺はなんで独りなんだよ、と毒づくも、火災報知器はその場にいるのが当たりまえな調子でセンサーを晒すのみだった。


「クソがよお」


 そう言って羽田は手近なところにあった硬式球を火災報知器に投げる。そして絶妙なコントロールをもって的確にセンサーを射抜いてみせた羽田は直後、けたたましい警報音に頭を揺らされることとなった。

 飛び出す隣人たちと急行する消防隊員。


「―― キミ、家賃も払ってないしもう出て行ってよ」


 かくして大家から放たれたその一言によって、羽田は給料日一日まえにして住処を失ったのだった。


 ☆


 家財道具の処分期間として一週間の猶予をもらうも会わせる顔が無いので羽田は路頭に迷う。アパートに対してすらこれなのだから故郷になんて帰れるわけがない。どんな声をしていたかすっかり忘れてしまった地元の面々を頭に浮かべつつ、アパートからすこし離れた場所にある公園のベンチに腰掛けて今後のことを考えるも、なにも思い付くものがなかった。と、


「コイツ……」


 思わず呟いた羽田の視線の先には濃茶の存在こと茶猫が鎮座していた。塀の上で器用に寝そべり細い目でまえ足を舐めるその様はさながら、テレビに飽きてスマホを手にする人間のそれだった。


「退屈かよ」


 思い出される昨日の夜の惨劇。もとはといえばコイツが俺をイラつかせたのが悪いのだ。しかし目のまえの猫は毎日がつまらないとでも思っているかのごとく欠伸をひとつ吐き出すのみ。


―― そうかいそうかい、おまえがそれなら面白いもの見せてやるよ。


 頭のどこかでネジが外れた音がした。次いで羽田はひとつ笑うと、猫のもとへと全速力で駆け出した。


「―― っ」


 突然の出来事に驚いて塀伝いに逃げ出す猫に対し、羽田は塀の麓を走って並走する。その距離は瞬く間に縮まっていき、いよいよ手を伸ばせば掴めそうというところで塀の端が見えてくる。勝った。そう確信して両手を猫のもとへと伸ばす羽田。だが、そこであろうことか猫は急旋回すると、そのまま羽田の顔目掛けて飛び込んできた。対応できず地面に背中を強打し、視界が真っ暗となる。

 そして戻ってきた視界のなかで改めてまえを見ると、そこには自分の顔があった。


「なー(は?)」


 思わず声が出てしまうも代わりに聞こえたのは可愛らしい猫の鳴き声だけだった。


「なーご(ウソだろ)」


 まだ頭がグラグラしている状態だったが、嫌な予感がした羽田は自分によく似た服装と顔をしたソレから離れ、手近なところにあった水たまりに自分の顔を映す。


「なーご。なー……」


 漸次、状況が確定していき戦慄する。どうやら羽田 俊は猫になってしまったようだった。


 ☆


 曇り空の公園にて茶猫こと羽田 俊が一匹、昏倒する自身の本来の身体の周りを飛び跳ねる。猫としては大いに慌てているのだが、その実、傍から見たらその様はなにかに大はしゃぎしているようだった。


 と、そこで本来の身体の目が開いた。そして思い出したように息を吸って吐くと、ソレは何事も無かったかのように立ち上がった。


 自分でない自分が突然動き出したという事実をまえに、恐怖のまま静かに見上げるだけとなる茶猫羽田。対してソレは大きく伸びをしてから欠伸をすると、眼下の猫の存在を見下ろしたのち、


「そうか、人間になったのか」、と切り出した。


「すごいな、人間は。こんなに視点が高いし、知識量も多い。しかもこれは感情か? どうやら俺はいまとても嬉しいようだ」


 そう言ってソレは羽田の顔で笑った。本人ですら出せないほどの混じりけの無い良い笑顔だった。


「ふ、ふしゃーっ」


 遅れて茶猫羽田が威嚇態勢に入って襲い掛かろうとするも軽くあしらわれてしまう。


「やめたほうがいい。体格が違いすぎるから負けるのはおまえのほうだぞ。まあでも、その身体も悪くないだろ」


「ふしーっ」


 良いわけがない。茶猫羽田は元の身体の足元に潜り込むとその靴に爪を立てる。が、


「それより俺は人生ってやつを謳歌したい。とりあえず腹いっぱい飯を食ってみるか」


 一考することさえなく、ソレは本当に楽しそうな様子で呟くと、口笛を吹きながら公園を歩き去ってしまった。追おうとするも公園を出た先の人通りの多さに絶望し、たちまち動けなくなる茶猫羽田。どうやらこの短時間のうちにだいぶ猫の感覚が染み付いてしまったようで、ついさっきまでなんとも思っていなかった人間という存在に対し、本能的な恐怖を抱くようになってしまったようだった。そういうわけで仕方なく追尾を諦めるも、どうしようもないので茶猫羽田はただただ公園の端で悶々とし続ける。気付くと日は落ちてあたりは夜となってしまっていた。しかしそれ以前から既にお先は真っ暗だった。


 ☆


 かくして猫としての第二のスタートを切ることとなってしまったのだが、不本意な状況に反してその日常はさほど過酷ではないものとなっていた。縄張りや寝床は身体が憶えているうえに、食事ももっぱらその辺に生息している虫であるため苦労する必要がない。そのうえ外敵もいないのだから、正直、羽田からしてみれば人間だった頃よりも気楽さを感じるくらいだった。しかし、いまや人間に対しては忌避感しか抱けなくなってしまっているというのが致命的だった。このままでは名実共に猫になってしまう。戻りたいという気が時間を追うごとに薄くなってしまっていることを実感しつつ、茶猫羽田は遠巻きから住宅街の通りを眺めて本来の自分の身体を探す。当然ながら、午後の気怠さを感じている余裕などまったくなかった。


 と、そこで不思議な感覚が全身を襲った。頭が朦朧として、無意識のうちに腰に力が入る。そして見るとそこには黒い猫が一匹、民家の玄関先で丸くなっていた。

 季節は春である。要するに、発情期だった。


 もはや人間に戻るとか自分の将来などどうでも良くなってしまった。茶猫羽田は抗えない衝動をそのまま腰に宿すと、すたすたと民家へと近づいて行った。が、気付いたのかどうか不明だが当の黒猫もまた動き出してしまったのだから二匹の距離が縮まることはなかった。気付かれまいと慎重に歩むも、ふとした瞬間に大きな声が出そうになる。そうこうしているうちに春の天気は移ろい雨が降り始めるが、身体はひたすらに熱くなっていくのみで冷める兆しをまったく見せない。これは本能なのかあるいは自分の意思なのか、と、そんな悩みすらも浮かばない状態でとにかく黒猫の後を追い続ける茶猫羽田。しかし直後、うっすらとガソリンが焼ける臭いがしたので正気に戻り返り見ると、そこには猛スピードで住宅街の路地を走るトラックの姿があった。


 そしてトラックの進行方向に黒猫がいることに気付き、茶猫羽田の身体は自然と動き出す。この雨と風向きからみて、おそらく彼女はトラックの存在に勘付いていない。その確信が、羽田の脚を跳躍させた。


「ふにゃあああああ!」


 一心不乱になって大声を上げると、羽田は黒猫のもとへと駆け込み、全身を使って危険を報せてみせた。彼女が死ぬという未来。そんなものを見るくらいだったら性欲なんてどうでもよかった。折しもクラクションと雨を切り裂くブレーキの音が致命的な距離から鳴り響く。しかし、その寸前に道路脇の植え込みに突っ込む黒猫の姿を見ることができたのだから、羽田の瞳に曇りはなかった。トラックから逃げたのか、はたまた突然現れた発情期中の雄猫に恐怖を感じたのかは不明だったが、いずれにしろ、これで彼女の死が立ち消えとなったのだから、ひとまずは安心だった。

 タイヤの音が間近に聞こえ、羽田の視界は真っ暗になる。


―― なんというか、人生にしても猫生にしても中途半端な生涯だったな。


「なーお……」


 最後に声を発したのち、羽田の意識の扉は閉じられた。


 ☆


 眼下には横たわる濃茶の猫の姿があった。外傷はないがショックを受けたのか気を失っているようで、道の真ん中に横たわっている様はひどく邪魔臭く見えてしまった。


「ぷおおおおん」


 そういうわけで威嚇の声を上げてみたところ、猫は目が覚めたようで、大きく飛び上がるとおっかなびっくりしながら道路脇へと逃れて行った。


「あっぶねえだろクソ猫があ!」


 中の操縦者がそんな悪態を吐きながらアクセルペダルを踏む。早まる鼓動と湧き出る活力。トラック羽田は操縦者の指示通り、再び前進運動を開始した。

 

 総走行距離十万キロオーバーのベテラントラックであるトラック羽田の朝は早い。今日も陽が出るまえからの活動開始であり、十時間ぶっ通しでの前輪駆動だった。

 

 運転席で鳴るのは演歌なる人間の歌だが意味は分からない。もとい、トラック羽田に頭脳はないため理解もなにもない。グンマという土地からトーキョーに向かい、さらにそこからハチノヘへ向かう道の途中らしいが、自分が今どこにいるかも分からないし分かりようもないうえに分かる気もないのだから、その心情はこれ以上ないくらいに気楽だった。

 

 たとえ泥を被ろうとも雨を蹴散らし我が道をただひたすらに邁進するトラック羽田。暗い道もガタ付いた道も厭わず突き進み、屈強な男たちに荷物をねじ込まれてもなお雄叫び一つ上げて威勢よく走りだすトラック羽田。

 

 海に昇る朝日に向かって走るこの国の物流の礎。トラック羽田はその後、いつまでも、どこまでも、その身が尽きるまで走り続けたという。


 ☆


 鶏がらスープの匂いにハッとなって見てみると、眼前には合成樹脂ではなく陶製の器に入った醤油ラーメンがひとつ、出来立ての湯気を昇らせながら手つかずのまま置かれてあった。赤い机に背もたれの無い座椅子に各種薬味と脂ぎったメニュー表。なにが起こったのか分からないといった状況だったが、しだいに羽田はなんとなく状況を理解する。どうやら自分はいま、ラーメン屋に身を置いているようだった。


 店内に置かれたラジオはちょうどCMに入ったタイミングらしく、大型トラックを主力商品としている自動車会社の歌を大音量で流していた。良い歌だ、と、妙に親近感を覚えてしまう自分に首を傾げつつも、羽田は箸を手に取りラーメンに向かう。と、


「ねね、そのラーメンって物はやっぱり美味しいの?」


「……え?」


 自分に語り掛けているとは思っていなかったせいか、反応がだいぶ遅れてしまった。


「えっと、誰っすか?」


 言いながら目線を上げると対面の席には黒髪おかっぱの女がひとり、黒ワンピースに身を包んで頬杖を突きながら好奇心の宿った目で羽田を眺めていた。


「いやいや、そのラーメンの食券、買ってあげたのわたしだよ。なんか顔色悪かったから連れてきたんだけど、憶えてない?」


 言われてから羽田は思い出す。そうだった。昨日の夜、トラックに轢かれそうになったせいで夕飯のカップラーメンを落としたあと、俺は空腹で眠ることもできず夜を明かしたんだった。


「悪い、ぼーっとしてた。ありがとう」


 そう言って礼をしてみると、彼女はにやにやと笑みを浮かべながらさらに続けてきた。


「ちなみに、わたしがキミの彼女ってことも、もしかして忘れちゃった?」


「は、は? いや忘れるわけないだろ。さすがに、それは」


 具体的なエピソードはなかった。しかしなんとなく、彼女を恋人だと認識することができた。


「というか、興味あるなら一口食ってみるか?」


「ううん。わたし、それ食べるとお腹壊しちゃうからさ。食べて感想聞かせてよ」


 差し出されたラーメンを両手で拒絶したのち、彼女は早く食べるようにと消しかけてくる。なら、仕方ないか。羽田は箸をスープに入れると、卵色の麺をすくい上げた。しかし、それにしても不思議な感覚だった。狐に化かされていると言ったほうが近しい感覚である。そう思って見てみると、そこはかとなく彼女が人外のように見えてきてしまった。鋭い目つきと長いまつ毛に尖った犬歯。笑ったときの表情も含めてその顔はまさに……


「にゃおん」


 頭のなかでなにかの鳴き声が響いた気がした。そして再び目が覚めるとそこには羽田 俊の彼女がいた。そうだ。彼女は普通に、俺の彼女なんだ。疑ってしまったことを恥じつつも、三年来の付き合いの彼女に奢ってもらったラーメンを啜りながら、羽田は何の疑いもなく麺の食感やスープの味などを訥々と言葉にする。


 気付くと不思議な感覚は収まっていた。しかし相変わらず、彼女の名前だけが頭から出てこなかった。






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