黄色の戯曲

 藤野ふじの亜紀あきは血の海の中で目を覚ました。よどんだ空気が部屋を満たしている。死体の数は四つあるはずだ。バスルームに二つ、備蓄倉庫に一つ、それにリビングフロアに一つ。各々がおびただしいまでの血を流して死んでいる。

 亜紀あき難儀なんぎしながらも立ち上がると、ソファに横たわる部長の里見さとみ彩衣あいの死体を一瞥いちべつした。彼女の喉笛のどぶえを掻き切ったのは亜紀あきである。

 薄靄うすもやに包まれていた記憶が明度を取り戻しつつある。亜紀あき里見さとみ部長の手に握られている一冊の本を凝視ぎょうしした。戯曲の題名は『黄衣こういおう』という。

 亜紀あきは硬直した死体の指から台本を奪うと、急いで窓外そうがいの様子を確かめた。舞い落ちる灰雪はいゆきのせいで視界が悪い。だが、一刻の猶予ゆうよもないほどに事態は切迫せっぱくしている。亜紀あきは惨劇の跡も生々しい山荘の中を走り始めた。

 

「新しい演目が決まったよ!」

 昭和四十六年の秋の出来事である。演劇部部長の里見さとみ彩衣あいが見知らぬ女性を連れて来た。大学紛争が段々と下火したびになると共に、亜紀あきが籍を置く女子大学演劇部にも斜陽しゃようは差してきた。一人、また一人と部室に顔を出す者が減っていき、いつしか部員はわずかに五名を数えるだけになっている。

 里見さとみが連れて来た女性の名前は長峰ながみね桜弥さやといった。楚々そそとした仕草しぐさから育ちの良さがうかがえる。実際、彼女の生家は裕福だった。長峰ながみねは演劇に関心を持っていたことを熱心に語った。

「以前から鑑賞したい劇があったのです。その戯曲の題名は『黄衣こういおう』といいます。是非ぜひ、皆様に演じて欲しいのです」

 長峰ながみねは長野県にある山荘で合宿旅行をすることを勧めてきた。里見さとみ部長が喜んで提案を受け入れたことは言うまでもない。それからは、冬季休校を利用した旅行計画が主な議題となり、十二月二十二日から一週間の予定で合宿が行われる事が決定した。

 

 演劇部の合宿は順風満帆じゅんぷうまんぱんとはいかなかった。長峰ながみねが差し出した戯曲は完全な品物ではなかった。かなりの部分において脱落している箇所かしょがある。一週間の予定が大幅に修正された。

「きっと素晴らしい演劇になるはずだ」部長の里見さとみは部員たちを鼓舞こぶしたが、その言葉を誰も信じていなかった。誰しもが『黄衣こういおう』の価値を疑い始めていた。「こんな戯曲はナンセンスだ」

 悲劇は十二月二十五日に起きる。演劇部員の古牧こまき奈々美ななみが合宿所から逃走を試みて失敗したのである。長峰ながみね里見さとみ烈火れっかのごとくいかった。

 二人は声高こわだかに内省的精神論をき、部員達に対して過剰な自己否定をいた。やがて、顔色を青くする古牧こまきに対して、制裁を加えることが多数決によって決定した。誰しもが平手ひらてを打つ程度で許されると考えていた。しかし、長峰ながみね里見さとみの要求は苛烈かれつなものだった。

「これじゃ、反省とは程遠い!」

 部員達は自身が折檻せっかんの対象になることを恐れて、次第に暴力の手を強めていった。納得なっとくがゆかない長峰ながみねが備蓄倉庫から金槌かなづちを見つけ、これで殴るように強要してきた時は、流石さすが里見さとみ気色けしきを失った。だが、結局は長峰ながみねの言う通りになった。激しい暴行を受けた古牧こまきは気を失い、そのまま備蓄倉庫に幽閉ゆうへいされた。

 翌日、古牧こまき奈々美ななみが顔をらして冷たくなっていた。長峰ながみね里見さとみが死体を埋めようと提案した時から、亜紀あきは決死の覚悟で自室に籠城ろうじょうし始めた。「三日も経てばげる」と二人は結論づけた。亜紀あきは食料も飲料も充分に確保していなかったし、天気が崩れて雪も降り始めていた。実際、亜紀あきは三日目の夜に籠城ろうじょうあきらめている。

 だが、亜紀あき折檻せっかんの対象となることはなかった。バスルームで久我くがまい景山かげやま穂波ほなみが手首を切って死んでいたからだ。おそらく、古牧こまき奈々美ななみが殺害された時から自殺を考えていたのだろう。亜紀あきは意外とは思わなかった。

 藤野ふじの亜紀あきは血の池となっている浴槽から包丁を拾うと、長峰ながみね里見さとみを殺すためにリビングフロアに向かった。

 そこから先は、薄靄うすもやが掛かって鮮明に思い出せない。ただ、暖炉だんろの火が赤々と部屋を照らす中で、『黄衣こういおう』をふけっている里見さとみ彩衣あいの姿だけは、朧気おぼろけながらも覚えている。

 

 亜紀あきは山荘の部屋を一つずつ確かめて回ったが、最後まで長峰ながみね桜弥さやの姿を見つけ出すことは出来なかった。ただ、当然のように死体があって、かすかな腐臭を漂わせているばかりである。

 亜紀あきはリビングフロアに戻ると考えた。すで長峰ながみねは山荘を後にしてしまったのかもしれない。だが、この悪天候の中を逃げ続けることは困難なはずだ。しばらくの間、亜紀あきは悩んでいたが、山荘に火を放つことを決意した。

 備蓄倉庫にある灯油をき、暖炉だんろに火を投じればいい。長峰ながみねが山荘の何処どこかに隠れているのなら、いぶせるかもしれない。この馬鹿げた殺人劇を終わらせなくてはならない。

 亜紀あきは握り締めていた台本を床に叩きつけた。その拍子ひょうしに、何度も読み返されて癖が付いたのだろうページが開いた。そこには一枚の便箋びんせんが挟まれており、優雅な筆致ひっちでこう書かれていた。

 

「おめでとうございます。『黄衣こういおう』は無事に完遂かんすいされました。心から拍手はくしゅを送ります。長峰ながみね桜弥さや」と。



                                   (了)


                              









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