愛猫家の死

 宮田みやた久弥ひさやは手の甲に刻まれた傷の痛みにうめき声を上げた。時刻は深夜二時を差しているが、激しい痛みのせいで眠る気にならない。傷口は化膿かのうが進んで、えたような臭気を放っている。彼は考え抜いた末に、傷口を焼き潰すことに決めた。

 本来ならば、早急に医者に診せるべき状態である。だが、久弥ひさやが病院を頼ることはないだろう。彼は傷について詮索せんさくされることを恐れている。「好奇心は猫をも殺す」が久弥ひさやの場合も同じだった。詮索せんさくされれば破滅することになる。文字通り、一匹の猫によって滅ぼされる羽目はめになるのだ。

「全ては猫のせいなのだ」久弥ひさやはガスコンロに揺らめく火を見ながら思う。きっかけは些細ささいな口論だった。久弥ひさやは恋人の不貞を問い詰め、彼女は横柄おうへいうなずいただけである。西野にしの世良せらの人を食ったような態度が気に入らなかった。世良せらは飼い猫のロシアンブルーを抱き上げながら言った。「男の嫉妬は醜くてしようがないわね」

 気がついたら、世良せらは死んでいた。手に握り締められたクリスタルの灰皿に着いた血液が、何が起きたのかを如実にょじつに物語っている。久弥ひさやは恋人を殴り殺してしまったことを意外にも素直に受け入れた。何年も以前から、彼にとって世良せらは裁かれるべき存在として認識されていた。想定していた結末とは違うが、久弥ひさやは満足していたのである。

 恋人の死体を見下ろしていると、咽喉のどを鳴らしながら猫が近寄ってきた。猫は短い前足で死体を突いていたが、それが無害であることを知ったのか、床に広がる血だまりを舐め始めた。ペチャリペチャリという嫌らしい音を聞いているうちに、久弥ひさやの中で軽蔑と嫌悪の情念が沸き立ち、ちょっとも我慢できなくなった。

 久弥ひさや黒毛くろげを血で染めている猫に手を伸ばした。だが、全てが順調にはいかなかったようだ。彼の腕の中で猫は大いに暴れた。それ以来、久弥ひさやは手の甲に刻まれた傷に悩まされ続けている。彼はこのままではいけないことを知っていたが、傷を負った経緯いきさつを医者に詮索せんさくされたくなかった。

「遅かれ早かれ、俺は身を滅ぼすに違いない」久弥ひさやは全てが瓦解がかいしていく様を見届けるつもりでいる。一匹の飼い猫によって阻まれたくはなかった。そのような小さな生き物によって、人生の幕を引かれることだけは嫌だった。「最後は盛大に散ってやるつもりだ」

 久弥ひさやはガスコンロの火でスプーンをあぶると、れた果実のようになっている傷口に押し当てた。ジュッというかすかな音と共に傷口に激痛が走った。膿汁のうじゅうが焼ける不快な臭いが漂い始める。だが、彼は風呂場に投げ入れられた切断死体が放つ悪臭に慣れきっている。どの部屋も異常な臭気に満ちあふれていた。

 久弥ひさやは歯を食いしばって傷口が焼けただれる痛みに耐えていたが、やがて身体がスっと軽くなったような気分と共に意識を手放した。彼は穴に落ちるように深い眠りへと落ちていった。

 

「被告人は前に出てください」うなるような低い声が法廷に響いた。久弥ひさやは深くこうべれながら裁判官の指示に従った。手の甲の傷跡は焼き潰されてケロイドになっている。自分はいつの間に逮捕されたのだろうか――と久弥ひさやは思った。焼いたスプーンで傷口を潰した後の記憶は曖昧あいまいである。何か非常な出来事できごとが起きているのだけは確かだった。「判決を言い渡します。顔を上げてください」

 おごそかな声にうながされるままに久弥ひさやは顔を上げた。法廷は沢山たくさんの猫に埋め尽くされている。彼は自分が猫達の裁判に掛けられていることを思い出した。だが、他のことは薄靄うすもやに包まれているようで、ようとして思い出すことができない。ニャオニャオという野次やじが考える力を根こそぎ奪っていくらしい。

傍聴猫ぼうちょうねこ静粛せいしゅくに願います。我々は猫の国であるウルタールの者として尊厳を持たなければなりません。どれほどの重罪人であろうとも権利は守られねばならない。ウルタールの法律によって、この人間は裁かれることになりますが、それがどのような結果になろうとも、平静を乱してはなりません」

 法服をまとったペルシャ猫が言うと、猫達は水を打ったように静まり返った。これが夢であることは久弥ひさやにも分かっている。だが、ここで言い渡される刑務は確実に執行される気がしてならなかった。久弥ひさやの背筋を冷たい汗が伝う。

 裁判長は、宮田久弥みやたひさや愛猫家あいびょうかを殺害し、さらに庇護下ひごかにあったロシアンブルーをも残忍な手口で殺害したむねいた。その声風こわぶりには一切のすきはない。ついに、ペルシャ猫は王の風格をもって判決を下した。「ウルタール国の法律に従い、被告人に死刑を言い渡す」と。

 

 部屋に異臭が漂っている。風呂場に放置された死体は腐乱を始めていたが、臭気の発生源は他にあった。キッチンからむせかえるような臭いが漂っていた。宮田みやた久弥ひさやが正気を手放した後にガスは漏れ出した。ガスはゆっくりとだが、確実に部屋に充満しつつある。だが、昏々こんこんと眠る久弥ひさやが知ることはないだろう。全ては猫から始まり、猫に終わることになる。いつまでも宮田みやた久弥ひさやは眠り続けた。

 

           (了)


                              



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