ああ、かゆい、かゆい――。先生、どうか助けてください。私の肉体は膿汁のうじゅうに冒されているのです。あの嫌らしい液体が血管の内側を通っていると考えると、苦しくてたまらない心地になるのです。

 いいえ、私は正気でございます。自分の犯した罪の重さは承知しております。私は人間を殺しました。それも、ひどく残忍な方法で殺しました。

 間違いなく、志村夏帆しむらなつほは私の恋人です。彼女の首をった時の感触を鮮明に覚えておりますし、あの粘ついた膿汁のうじゅうのことも同じくらいはっきりと記憶しています。

 はあ、私の名前でございますか。多田亜也子ただあやこと申します。先生、あまり馬鹿にしないでくださいまし。

 恋人をあやめた理由を教えて欲しいですって。それは無粋ぶすいな質問というものですよ。恨んでいたからに決まっているじゃありませんか。私は夏帆なつほのことを憎んでいました。

 私は悪意をもって恋人の命を奪いましたが、微塵みじんも後悔はしておりません。あの女はけがらわしい裏切り者なのです。そして、きっと私の肉体にもうみが溜まって波をなしているのです――。

 志村夏帆しむらなつほは美しい女でした。彼女が微笑むためならば何でもするという男は大勢いましたし、実際、彼女自身も美貌を知っていたようです。思わせぶりな態度を見せて、男をもてあそんでは金銭や宝石を巻き上げておりました。その度に、彼女は得意気な顔をして貢物みつぎものを見せつけるのです。あの晩も同じでした。指にめられた宝石が、枕元に備えられた照明の光を受けて、キラキラと輝いて――。

 あの晩、夏帆なつほと肌を重ねた後、私は腹の底で煮える泥を意識せずにはいられませんでした。数年前に、オクラホマの湖を一人で訪れてから、彼女の浮気性はひどくなる一方でした。あの外遊がいゆうが彼女に変化を与えたことは確かです。湖畔こはんたたずむ彼女の姿を想像しようとしましたが、邪念にさえぎられて上手くはゆきません。「この女をらしめてやりたい」という嗜虐心しぎゃくしんが炎となって燃えておりました。

 その時だと思います。えた臭いが部屋に漂っていることに気が付きました。オロオロと辺りを探っている間にも、徐々に腐敗臭は強くなっていくようでした。

 はなくような臭気にむせび始めた頃になって、夏帆なつほは大丈夫だろうかと不思議に思い出しました。

 彼女の寝顔をのぞんでみて、私はギョッとしました。彼女の小さな鼻孔びこうから、得体えたいのしれない、黒く粘ついた膿汁のうじゅうしたたっていたからです。臭気の出処でどころ夏帆なつほから漏れ出た液体であることは明白でした。

 ああ、思い出すだけでも体中がかゆくなってくるようです。先生、あの液体は生きておりました。夏帆なつほ頭蓋ずがいからあふ膿汁のうじゅうは微妙な伸縮しんしゅくを繰り返しておりました。彼女の寝顔の上でうみうごめく度に、脳髄のうずいを芯からしびれさせるような臭気が濃くなってゆきます。

 けがらわしいと思いました。膿汁のうじゅうの正体は知れませんが、それを一杯に溜め込んだ夏帆なつほの肉体が、急に嫌らしいものに思えてきました。彼女と枕を共にしていることが我慢できなくなりました。腹の底におりのように沈んでいた軽蔑けいべつが沸き立ったのです。この女を殺してしまおう――と私は考えました。

 キッチンに備えてあった包丁を手に取り、夏帆なつほの首に刃を突き立てたことは覚えております。ですが、その時、何を考えていたのかを問われると答えにきゅうしてしまいます。私は彼女によって奪われた純潔を取り戻そうと必死でしたから。彼女の首がなかばまで切断されるまで、私は夢中になって刃を振るい続けました。

 気が付いたら部屋は血の海になっていました。暫くの間、血だまりの上で呆然ぼうぜんとしていましたが、すぐに異変に気が付きました。切り落とされた夏帆なつほの頭がザワザワとうごめき出したのです。私は不思議に思って彼女の首を持ち上げようとしました。

 その時です。どす黒い血液にじって、膿汁のうじゅうが勢いよく吹き出しました。慌てて服に掛かった不気味な液体を払い除けようとしましたが、駄目だめでした。膿汁のうじゅうは私の肌の上をいずり廻った挙句あげく三々五々さんさんごごになって消えてしまったのです。

 思い出すだけでも、肌が粟立あわだつ思いです。あのうみのような生物は何処どこに行ってしまったのでしょうか。もしかしたら、私の肌を通して肉体の内側に巣食すくっているのではないか。そう考えると、途端とたんに全身がかゆくなってきてたまらないのです。

 勿論もちろん、私はすぐにでもうみを絞り出そうと試みました。ですが、あの液体が傷口からあふれる様を想像すると恐ろしくて――。

 死体が腐り始めるまでに、さほど時間は要しませんでした。隣人が異臭に気が付いて、警察に通報したようです。私は一か月もの間、恋人の死体と共に暮らしていたということになるそうですね。オホホホホ。

 ああ、かゆい、かゆい――。先生はお医者様なのでしょう。どうか助けてください。血管を流れる膿汁のうじゅうを絞り出してください。皮膚の下で嫌らしい液体がうごめいているのを感じます。私の肉体は、黒く粘ついたうみに冒されているのでございます。苦しくて、切なくてしようがないのです。ああ、かゆい、かゆい。

      

                                                     (了)


                                             

 





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