泥水を啜る

 お父さん、お母さん、本当にごめんなさい。僕はじきに死ぬでしょう。今まで受けた御恩を思うと、胸が詰まります。

 また、ワンダーフォーゲル同好会の皆にも謝っておきたいと思います。あの騒動の後に下山できたとは思えませんが、無事に保護されていることを祈るばかりです。残念ながら、僕はもう駄目だめだと思います。ひと足先に地獄でお待ちしています。申し訳ありませんが、どうかお許しください。

 段々と正気でいられる時間が短くなってきました。不気味な幻影に悩まされるようになって随分ずいぶんと経ちます。アレは気怠けだるげに欠伸あくびしながら、僕のことを見張っています。嫌らしい微笑を浮かべて、僕がげるのを待っているのです――。

 まったく、僕達は自身の力を過信していました。九州の大学の弱小サークルと見下されたくなかったのです。実績さえ残せれば、登山部のはなかしてやることができると考えていました。部への昇格ですら手が届くと信じていたのです。

 北海道に遠征えんせいして、登山部が踏破とうはしていない山に登ること――。日高山脈ひだかさんみゃくのカムイエクウチカウシ山が目的地に定められるまでに、さほど時間は掛かりませんでした。

 冬季休講を利用して、二週間の登山遠征に出るスケジュールを組み、やがて旅行が始まりました。とにかく、僕達は実績が欲しかったのです。度重たびかさなる登頂経験によって、僕達は増長していました。どんな困難も乗り切れる気でいたのです。実際、雪中せっちゅうの行進は厳しい道程みちのりでしたが、順調に予定を消化していたではありませんか。

 日高山脈ひだかさんみゃくに入って二日目のお昼に、カムイエクウチカウシ山腹さんぷくで、僕達は奇妙な洞窟を見つけました。明らかに人の手が加えられた跡があるのですが、観光地というわけでもなさそうでした。

「登頂したという事実だけでは大学を説得できないかもしれない」と僕が提案すると、反対意見が少なかったこともあり、おろかにも洞窟を探索することを決めてしまったのです。

 思った通り、洞窟は人工物でした。ちょっとした遺跡と言ってもよいのかもしれません。狭くはありましたが、礼拝堂れいはいどうを思わせる構造になっていました。円状の部屋の奥には一柱ひとばしらの偶像がまつられてました。神聖しんせいな印象は全くなく、むしろ、退廃的たいはいてきな雰囲気を感じさせる代物なのです。

 体毛あるヒキガエルのような偶像の写真を撮ることに夢中になっており、僕達はそれが忍び寄っていたことに気が付きませんでした。

 不意ふいに誰かが悲鳴を上げました。驚いて振り返ると、仲間の一人が怪物に襲われている最中さなかではありませんか。

 そいつは見たこともない生き物でした。黒い粘性ねんせい泥水どろみず――ドロドロとした不定形のかたまりで、牙が並んだ巨大な口ばかりが付いていました。それが、うごめきながら仲間の足に食らいつき、鋭い牙を肉に突き立てているのです。僕達は彼を助けるために駆け寄ると、地面をっている怪物を無茶苦茶むちゃくちゃに踏みつけました。

 やがて、無形むけい怪物かいぶつ耳障みみざわりな叫びを上げると、牙だけを残して、水のように大地に吸われて消えてしまいました。

 仲間はふとももの肉をゴッソリと失っていました。出血が激しかったため手の打ちようがありません。皆に見守られながら、彼は息を引き取りました。

 後のことは、よく記憶していません。ボコボコと奴らが湧き出てきたので、一目散いちもくさんに洞窟を飛び出しました。きっと、その時に皆とはぐれたのでしょう。

 正気に戻るとキャンプ地に一人残されていました。僕はすぐにでも山をくだることを考えましたが、今だに下山できていません。

 無論、幾度も挑戦はしました。しかし、失敗を繰り返すばかりで抜け出せません。あの怪物によってはばまれてしまうのです。六回、奴らに襲われました。それ以来、山中を逃げ回って野営やえいし、すきを見てはキャンプ地から物資を回収する生活が続いています。

 しかし、それも限界です。食料と飲料が底を尽きて随分ずいぶんと経ちます。山は雪に覆われていてみのりがありません。飢えと渇きで気が狂ってしまいそうです。

 数日前、僕は決死けっしの覚悟で遺跡に戻りました。仲間の死体が目当てでしたが、熊にでも持っていかれたのか、さっぱり見つかりません。ですが、あの無形むけい怪物かいぶつが残していった泥水どろみずだけは消えていませんでした。

 僕は飢餓きがを満たすために、大地に両膝りょうひざいて、泥水どろみずすするほかにしようがありませんでした。僕はあの嫌らしい偶像の前に屈してしまったのです。

 それからです。僕が奇妙な白昼夢はくちゅうむに悩まされるようになったのは。あの偶像の幻が脳髄のうずいおかし始めたのです。ニマニマとした意地悪いじわるい微笑を浮かべながら、アイツは僕のことを見張みはっています。きっと、どろ怪物かいぶつに命じて僕を殺させようとしているのでしょう。気を抜けば、たちまち命を失うことになるに決まっています。

 もう、えられそうにありません。空腹で起き上がることすらできません。身体が融解ゆうかいしていくのを感じています。じきに僕も泥水どろみずになるのでしょう。せめて、苦しくないことを願うばかりです。

 

       

      (了)


                                          




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