やりゃできんじゃん
ベレンスキーのとなりにある椅子が、奇怪な音を立てて動いた。かれがそちらに目をやると、椅子の背から足にかけて、斜めに丸い穴が通過している。
椅子だけではなかった。デスク、観葉植物、ブックシェルフ、棚、コート掛け、応接セット。このオフィスにある物に、次から次へと丸い穴が空いていく。
なにかが、高速で宙を駆けている。それは室内を縦横無尽にめぐり、なんどもなんども往復している。
「なんだ、これは。いったい、なにが起き……、ッッ」
周囲を警戒していたベレンスキーの肩に、次の瞬間、突如として拳大の穴が空いた。
かれを貫いたのは、背後から迫りきていた貫通弾だった。
衝撃を受けたベレンスキーは、自分を貫いた弾が床に触れた瞬間、跳ねあがり、反射角に従って跳んでいく光景をみた。その軌道上にあったデスクに丸い穴を開けて通過すると、こんどは壁に当たるとき、ふたたび反射した。
あたかもピンボールのような現象が、この室内で起きている。
ピンボールと違うのは、壁や床に当たらぬ限り、弾が障害物を通過していることだ。
「……粛清官。まさかお前の能力は、貫通する弾だけではなく――」
能力の正体に気づいた相手に、エノチカは教えてやることにする。
「ああ、そうだよ。アタシの粒子弾は、任意に性質が切り替えられる。考えてもみろ、ぜんぶを貫通しちまう粒子なら、そもそもバットで打ち出せねーだろうが」
一打目はいつも、空間の広さを測るために打つ。だから二打目こそが、エノチカの本領だった。
エノチカは自虐に笑った。
密室は、エノチカがもっとも得意とする環境だ。本来この条件なら、自分が苦戦するはずはなかったというのに。
くだらない能力で集中を乱して粒子を消してしまったことは、墓まで持っていきたい恥だった。ホテルでのふいうちも然り、やはりまだまだ経験の足りない新人ということなのだろうと、自分で思う。
エノチカ・フラベル。
貫通と反射の砂塵能力者。
エノチカの力は、今期の能力考査の審議の場において物議を醸したという。人体に宿る黒晶器官が万能物質である砂塵粒子を消化すると、本来そこには一種の能力しか残らないはずだが、エノチカは自分の意志でもって、二種に近い芸当を披露することができる。
触れた物を完全に貫くか、あるいはまったく無傷のまま反射するかで。
この能力は、黒晶器官の研究という観点からしても非常にめずらしいものだという。
黒晶器官にはまだまだ秘密が多い。後天的に能力がほとんど別物に変異した事例や、はては二重人格者が人格によってべつの砂塵能力を使い分けたという逸話まであり、いまだ解き明かされぬことばかりだ。だからこそ、特異なケースには研究価値がある。
エノチカの例でいえば、じつはこの性質の切り替えは、厳密には貫通と反射ではなく、物理的な構築物をみずからの干渉の対象とする/しないというスイッチによっておこなわれているのではないかという推測がされており、連盟関係の研究室から熱烈なラブレターが届いたが、エノチカはそれを破り捨てた。
どうでもいい。
ほんとうに、どうでもよかった。エノチカにとってこの力は、祖母が喜んでくれた力だ。
「まるでベースボールの申し子みたいな能力じゃないか」と、誇らしく思ってくれた力だ。
その力を今、人に血を流させるために使っていた。
そのたびに、エノチカの心には形容のしがたい空虚な気持ちが広がっていた。
それでも、この場所で、戦場というコートでバットを振ると決めたのは、ほかならぬ自分だった。
*
粒子弾が室内を飛び交う。それはバウンドするごとに勢いを増し、部屋のなかのものをめちゃくちゃに貫いていく。
「ぐ……!」
動こうとしたベレンスキーの腕を、貫通弾が抜けた。ベレンスキーがなにをしようとしても、それを弾劾するかのように貫通弾が邪魔をする。
「あきらめろ。弾は、完璧な射角で撃った。ゲームは終わったんだ――アタシのスイングが終わった時点で、てめーの負けだ」
エノチカは動かなかった。むしろ、動いてはならなかった。
自分の場所が安全で、それ以外はすべて貫通の嵐に破壊される運命だと知っていたからだ。
目の前の男の身体が、みるみるうちに削られていく。半円の痕を残して四肢が、体幹が削れ、真っ赤な血を、肉を、噴き出していく。
相手の眼前を、貫通弾が通過した。飾り気のないドレスマスクの前面が破壊されて、ベレンスキーの火傷に爛れた素顔が半分、露出した。
その目は、動揺に揺れ、濡れていた。
みずからの両の手を眺めると、
「…………おお、痛い……」
と、つぶやいた。
つぎの瞬間、無感動に眺めるエノチカを、憎悪に満ちた眼で睨んだ。
まるで、かれのなかに失われていた感覚、感情が、すべて戻ってきたかのようだった。
「粛清官……粛清官ンッッッ」
ベレンスキーが、ナイフを構えて駆け出した。
その刃が、エノチカの首元に届こうかという瞬間だった。
返ってきた粒子弾が、斜めからベレンスキーの頭を通過した。
脳漿が散り、大柄の身体が転がった。ものを言わぬ骸と化して、ベレンスキーという男の生涯は、それで終わった。
そのタイミングで、エノチカの粒子弾は姿を消した。
「……。」
急激におとずれた静寂のなかで、エノチカは周囲を見渡した。
肝心の男が、いなかった。
かわりに、下の階から悲鳴と、あわただしく走り去る音が聴こえた。劣勢にかわったと知るや否や、逃げ出していたようだ。
向かおうとしたとき、エノチカは自分の足取りが想像以上に重たいことに気がついた。ベレンスキーの砂塵能力も、ニーガルタスの砂塵能力も、思いのほか影響が強く残っていた。
刺された場所からは、だくだくと血が漏れている。
このままぶっ倒れて眠りたい――そう思ったが、そうするわけにはいかなかった。
エノチカは二階の部屋を出ると、階段をゆっくり、一段ずつ降りて、相手を追いかけた。一階に降りたとき、開けっぱなしになっている玄関の向こう、SSの路上を、まっすぐに走る男の姿がみえた。
その背を追おうとしたとき、エノチカは散らかった応接テーブルのうえに、とあるものをみつけた。見覚えのある包装紙に包まれた菓子が、ウイスキーの瓶のとなりに置いてある。
バフォメ社の人気商品、タブレットチョコレートだ。
「……ハッ」
そういえば、任務の前に手に入れるつもりだった。余計な邪魔が入らなければ、どこかで買えただろうに。エノチカはそれを拾うと、いまだ解除していないインジェクターが喚起する黒晶器官に意識を集中し、粒子弾を形成した。
もう、左腕は動かない。それでも、腕が一本あればじゅうぶんだ。
バットを振ると、カキン、と小気味いい音が鳴った。
まっすぐに飛んでいった弾が、遠くに逃げる男の右脚を正確に貫いた。
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