とんだ俗物




 男のすすり泣く声が、室内に響いていた。

 この豪勢な邸宅の一室は、まったく荒れ果ててしまっている。アサルトライフルを提げた計五名の男たちが散らばり、そしてもう物を言うことはない。

 部屋の中央では、ひとりの男が椅子に縛りつけられて、拷問されていた。

 そこには圧倒的な違和感が、ひとつ。


「やめてくれ……、もう、やめ……」


 拷問を受ける男には、なにひとつ外傷がみられなかった。着用する夜会服にも、乱れてこそいるが汚れやシミのたぐいは一片たりともみつからない。

 それでいて、かれはほとんど虫の息だった。


「なあ、ヘクトルよ。お前はよく知っているだろうが、俺は昔からどうも運が悪くてなぁ」


 ひとりの男が、そう話しかけた。

 着用するマスクの前面には、美しくふくよかな女性の絵が描かれている。

 旧文明の歴史でもとりわけ古い時期に信奉されていたという女神、デメテル。

 多くの者はその所以も知らないが、かのじょの顔と乳房と尻を余すことなく描いた絵を身に着けている男は、金に恵まれるとかねてより信じられており、転じて、金持ちの証であるともされていた。

 男の恰好が、そのことを誇示していた。マスクはガクトアーツ社が生産する最高級の素体。光沢のあるシルクのスーツを着て、その袖からは黄金色の腕時計を覗かせている。

 成金趣味だとは自覚しているが、かれは人からそう指摘されるのは嫌いだった。


「ガキのころはよかった。親父がよ、てめぇは俺と違って運がいいと、耳にたこができるくらいに言っていたんだ。機嫌が悪いときは、なぜだかそう言いながら殴りつけてきやがったが、今では親父の気持ちも理解できるぜ」


 デメテルのマスクをつけた男――ニーガルタス・アルヘンは、マスク越しの喫煙器具を抜いて、豪奢な手織り絨毯のうえに床に灰を落とすと、語りを続けた。


「親父からすりゃ、自分が作った財産を、てめぇのガキがなんの努力もせずに継ぐってのは、少なからず思うことがあったんだろうな。だが俺は、なんど頬をひっぱたかれても我慢した。親父には力があって、あのレース場を仕切っていたからな。そして当然、いつかは俺が継ぐんだと思っていた。昔からわかっていたんだよ。金がねぇと、この街ではカス同然だと。そしてどうやら、俺はカスにならなくて済むらしいってな」

「ぎ、ぎぃやぁぁぁっ……」


 拷問はまだ続いていた。椅子に縛りつけられた男――ヘクトルは、ニーガルタスの話が耳に入っているのかいないのかもわからない様子だった。かれは、自分に責め苦をおこなうこの場の三人めの男――拷問師を、懇願の目で見上げていた。

 だが、拷問師にはいっさいの慈悲はなかった。かれは、こんなことはなんでもないとでもいうかのように、その場を漂わせる自分の砂塵粒子の密度を強めた。

白濁色の砂塵が、無慈悲に部屋を流れゆく。

 そしてそのたび、ヘクトルはこの世の終わりのような絶叫をひねり出した。


「――ただ、俺はなにも受け継ぐことはできなかった」


 かれらの様子を気にも留めず、ニーガルタスは延々と続ける。


「金も、資産も、不動産も、なにもかもなくなっちまった。親父のショバが、あっけなく奪われちまったからだ。まさか、部下でも取引相手でもなく、じつの弟に裏切られるなんざ、親父も夢にも思わなかっただろうな。兄弟が他人のはじまりってのは、ほんとうにそうだと思うぜ……なぁおい、聞いてんのか、ヘクトル」


 ニーガルタスが、すすり泣くヘクトルに近寄った。

 ここはヘクトルの私邸だが、家主であるかれには、今やほとんどなんの力もなかった。ヘクトルにできることといえば、平服することくらいだった。


「も、もう許してくれ、ニーグ。お前が復讐のために来たのなら、もちろん、それは当然のことだと思う。ああ、ぜんぶ俺たちが悪かった。俺と親父が悪かったんだ。金なら返そう。レース場が欲しいなら、権利を明け渡す。だから許してくれ。俺たち、従兄弟じゃねぇか。なあ」


 その命がけの懇願に、されどニーガルタスは首を横に振った。


「話は最後まで聞けよ、ヘクトル。俺はべつに、お前を恨んじゃいない。お前とお前のクソ親父がやったことは、気にしちゃいねぇんだ。なぜなら、俺がお前の立場でもそうしたからだ。偉大都市じゃあ、つねに奪われるやつが悪いんだ。奪うやつは、ただ定理に従っただけだ」


 それにな、とニーガルタスは続けた。


「俺はあの事件があったからこそ、より大きな金を手に入れることができた。つまり、必要な挫折体験だったんだ。立ち直れるくらいのある程度の挫折は、いっぱしの男には必要なもんだ。だろ? だから、俺はお前を恨んじゃいない。無論、とくに感謝もしちゃいないが」

「な、なら、どうして俺のところに……」

「単純な話だ。俺は今、まったくクソみてぇに困っているからだ。ああ、ほんとうに信じられねえほどの不運が次から次へと降りかかってきやがって、全身がクソまみれなんだ。なぁ、ヘクトルよ。お前がしているみたいな生活は、今の俺にはまるで望めやしねえんだ」


 ニーガルタスは窓のブラインドに触れた。軽くひっぱると、隙間から外の様子がうかがえる。六番街の洗練された住宅街の街並み。平穏で豊かな生活。脅かされない日常。

 まったく、うらやましいにもほどがある。


「今の俺がどんな生活を送っているか、お前に想像がつくか? いくら金があっても、もう中央街はろくに歩けねえ。毎週のように住まいを替えて、中央連盟から逃げ回る日々だ。パスィルラットの糞ほどもおもしろくはねえ――俺の大好きだった日常は、帰ってこねえんだ」


 そこでニーガルタスは、あきらかに怒りの滲んだ声に変わった。


「昔の俺の日常っていったらな、休みの日の過ごし方は決まっていたんだ。そこらの底辺労働者じゃ拝んだこともねぇような女を連れて――いいか? このデメテルよりも胸のでかい女だ――グランモールではよ、値札もみないで物を買って、夜にはアサクラのツインホテルに行く。最上階のバーレストランでは一本二百万もするクィベルのシャンパンを開けて、気分がよくなったらカジノでしこたま擦って、スイートでは猿みてぇにヤッて、死んだように眠る。起きたら、使っちまった額に驚いてよ。それでも、ああ、また稼がなくちゃあなって、なぜだかふしぎと活力になって、仕事にいく……そうした、俺の愛した日常は、もうねえんだよ」


 空中砂塵濃度を気にせずに、ニーガルタスがマスクをはずした。その下にあらわれた素顔は、もしも普通の表情をしていれば、それこそ中央街のビジネスタワーで株式投資をおこなっていても不自然ではない、均整の取れた健康的な顔立ちをしていた。

 だが、今は異なる。苦虫を噛み潰したようなニーガルタスの眼には、涙さえ浮かんでいた。拷問を受けていたヘクトルは、その異様さに思わず当惑の顔色を浮かべた。

 とんだ俗物スノッブだ――が、筋金入りだった。

 ニーガルタスは、そうした俗物的な幸福をうしなうことが、本心から耐えがたかったのだ。


「許せねえ……」


 茫然とつぶやくと、ニーガルタスは前触れもなく拳を振り上げた。やり場のない怒りをぶつけるかのように、その拳をヘクトルの腹に打ちこんだ。


「ごぁッ……」

「許せねえ、許せねえ、許せねえ、許せねえ……!」ドスン、ドスン、ドスンと、何度も繰り返し拳がめりこむ。肺を潰されるヘクトルが、顔面を真っ赤に染め上げた。

「許せねえ。俺が積み上げてきた日常を! 俺から奪った連中が! 許せねえッ! ちくしょう、どうして俺がこんな目に……! こんな、こんなぁっ!」


 ゴェッ、と空気を吐き出したあと、とうとうヘクトルが腹のなかのものをぶちまけた。


「ミスター・アルヘン。そのままだと、気道が詰まって死んでしまうぞ」

 と、そこで拷問師が初めて口を開いた。

「忠告だが、予定外のことはやらないほうがいい。なぜなら、予定外のことになるからだ」


 かれは特徴のない、砂色のトレンチコートを着ていた。

 飾り気というものにまったく興味がないのか、着用する傭兵団のマスクにも、ロゴ以外にはほとんどいっさいの特徴がなかった。


「……悪い。少し取り乱しただけだ、ベレンスキー」


 ニーガルタスは荒い呼吸を繰り返すと、汗の滲んだ額に張りつく前髪をぬぐい、オールバックに戻した。それから、うつむくヘクトルの後ろ髪を掴んで持ち上げた。


「とにかくだ、ヘクトル。俺がここに来たのは、そういうわけだ。俺は、なにがあろうとも俺の日常を取り戻す。なにがあってもな。そしてそのために、お前の情報が必要なんだ」

「俺に……なにをやらせる気だ」

「調べはついているんだ」


 いささか脈絡を無視して、ニーガルタスは言った。


「今やSSの大物フィクサーであるお前が、地元の管理局の連中と仲良くしているっていうのは、聞かなくてもわかっていた。お前が親父の利権をそのまま継いだのなら、連盟の役所連中に裏金を渡さないわけがねえんだから、そのはずだ。だから、俺もこの数カ月、連中には金を渡していてよ。もう有り金も尽きようってタイミングで、ようやく芽が出たわけだ」


 心身ともに疲弊尽くしたヘクトルの顔が、疑念にゆがんだ。それからすぐに、相手の言っている言葉の意味に気づいたか、その目をカッと見開いた。


「俺はずっと、このときを待っていたんだ。だからヘクトル、あとはもうお前にかかっている。もしもお前がほんとうに悪いと思っているのなら、今ここで、俺に対価を払えよ」


 ニーガルタスは狂気じみた笑みを浮かべた。


 策は考え尽くしていた。

 もうこれしか、かれに残された道はなかった。





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