最終話 - 私に仕えていた男 


 ――イヴがアルベールのプロポーズを受けた、数か月後のこと。イヴが頼りにしていた髪結いのマリーが、ヴァネル邸にひょっこりやって来た。


 マリーは街角で出会った男性と電撃的な恋に落ち、その男性が諸外国を股にかける商人だったもので、しばらくのあいだ新婚旅行をかねてあちこちの国を渡り歩いていたのだが、今日は近くまで来たからと、わざわざ立ち寄ってくれたらしい。


 そして嬉しいことに、これから茶会に出なければならないイヴの髪を結ってくれるという。


 ウキウキするイヴを前にして、マリーは感慨深い気持ちになっていた。――縁談が上手くいかないと嘆いていたお嬢様が、いまやアルベールさんの妻となっているだなんて。人生とは分からないものだわ。――そう思いかけて、いやいや、違うか、とすぐに首を振る。


 ――思い返してみれば、アルベールのほうは、当時からお嬢様にぞっこんだった。頭の良い彼にしては、ずいぶん遠回りしたものだが、意外と自分のことは客観視できないものなのかもしれない。


 マリーは以前のようにイヴの髪を結いながら、親しかった人たちの近況を聞き出していく。


 イヴの父は爵位を娘婿(アルベール)に譲って、妻と世界旅行に出てしまったらしい。――あの方は一番の常識人に見えて、風来坊なところがあったのねと、話を聞きながら少々呆れてしまうマリーであった。まだ十分若いのに、さっさと肩の荷を下ろして旅立ってしまうだなんて、全然貴族らしくない生き方だなと思った。


 とにかく、イヴの父が早期にリタイアしたことで、結果、アルベールは二十三の若さで『ヴァネル伯爵』の名を継ぐこととなった。


 一度、貴族社会から弾き出されている彼であるから、その複雑な生い立ちゆえに、伯爵になってさぞかし苦労しているのかと思いきや――そんなことでまるでないらしい。


 ――まぁ、でも、そりゃそうか。


 彼の容姿と資質は、貴族として文句のつけようがない。誇り高く、美しく、優美で、彼は人々が思い描く『理想の型』どおりに行動することができる。彼が歩くだけで人は見惚れるし、彼が喋るだけで人は聞き入る。


 裏方をしていた経験もあるので、彼の取り仕切るパーティは、完璧なものになるだろう。


 あまりにできすぎていると反感を買うものだが、彼には弱点もちゃんとある。アルベールはイヴに対してはまるで弱くて、彼女にだけは頭が上がらない。それがもしかすると、彼の可愛げになっているのかもしれなかった。


 何はともあれ、尽くしてきたお嬢様が幸せになったことは素直に嬉しい。マリーはイヴの綺麗な髪に櫛を通しながら、


「――お嬢様」


 ついそう口にしてしまい、ハッとした。ああ、いけない、前の癖でつい、と反省したところで、


「いいわよ、お嬢様で」


 イヴが彼女らしい頓着のなさで、そんなことを言う。――マリーは『そういうわけにもいかないんじゃないか』と思った。これは単純な話で、自分がイヴを『奥様』と呼べばいいだけなのだから。


 けれどイヴは、


「今回は無理に髪結いを頼んだんだもの。別に無理して奥様って言う必要ないわよ」


 とあくまでも言い張るのだ。そう言われると、マリーの遠慮はすぐさまどこかへ飛んで行ってしまった。


「ええと、じゃあ、今日だけだし、『お嬢様』ってことで」


 このやり取りをもしも母のリーヌが聞いていたならば、目を吊り上げて、使用人たる心構え十か条をマリーに復唱させ、説教タイムに突入していたことだろう。


 ――しかし幸か不幸か、この空間に鬼(リーヌ)は不在である。そんな訳で、ポンコツ娘二人を止める大人が、ここには誰もいないのだった。


 イヴはイヴで、マリーにはずっと『お嬢様』と呼ばれていたので、彼女から『奥様』と呼ばれるのがなんだか気恥ずかしく、できれば勘弁して欲しい気持ちだった。


 マリーが今日の集まりについて尋ねると、『年齢が高めの方たちが集まるお茶会』という答えが返ってきた。そのためクラシカルな髪型にすることに決めて、早速作業に入る。


 櫛を動かしていると、お嬢様が大層面白くて、大層恐ろしい物語を語り始めた。――そういえば、この時間が以前は何より楽しみだったなぁ。イヴのしっとりした素敵な声を聴きながら、懐かしさが込み上げてくるマリーであった。


 お嬢様が語るのは、いってみればただの『お見合い体験談』なのだが、この内容がすごくて、毎度どえらい結末を迎えるのである。これが実話というのだから、貴族社会というのは、まったく恐ろしいところだ。


 ちなみに今回のネタは、『年上の男』との縁談話でした。――いやぁ、久々にくるなぁ! お嬢様の体験談は、毎度、臓腑にくるんだよね。そして相変わらず死人が出る!


 髪結いのマリーはこうして楽しい時間を過ごすことができた。ところが最後にとんでもないことが判明した。――実はお茶会に、西の国の王子が参加するから、エメラルドの首飾りを出してくれと言われたのだ。


 そういうことは髪型を作る前に教えていただきたかった! 思わず恨み言を口にしてしまう。


 そうこうするうちに、扉がひょいと開いて、イヴの『旦那様』が顔を出した。


 ――果てしなくどうでもいい話なんだけど、久しぶりに見たら、こちらの目が潰れそうな美形ぶりですよね。マリーは目がチカチカするような不思議現象を味わうこととなった。


 彼の顔には、一緒に働いて慣れたつもりでいたのだが、しばしヴァネル邸を離れたことで感覚がリセットされてしまったらしく、免疫は切れたようだ。どうせまた旅に出るから、別にいいんだけど。


「あ……っと」


 マリーはアルベールさん――といつもの調子でつい無礼講でいきそうになって、慌てて佇まいを正すこととなった。『あ』の時点で止まれてよかった。そうしてマリーは椅子に腰かけているイヴの耳元にかがみ込み、こう囁いたのだった。


「……ご主人様がいらっしゃいました」


 現れたアルベールはマリーを見ると、口元に笑みを乗せて、歓迎の意を示してくれた。


 ふたたび目がチカチカしかけたマリーであったが、幸いにもアルベールはすぐにイヴに視線を移し、素敵な声で彼の最愛に呼びかける。


「可愛いイヴ、迎えに来たよ」


 元々お嬢様には大層甘い彼であったから、夫となった今は、尋常ではなく甘やかしているに違いない。彼の手を取り、部屋を出て行くイヴを見送って、マリーはやれやれと片眉を上げて微笑んでいた。




***




 アルベールにエスコートされ廊下に出たイヴは、旧知のマリーに夫婦のやり取りを見られた気まずさから、なんだか妙にソワソワしていた。


「ねぇ、何か変な感じじゃない?」


 イヴがぎこちなく彼を見上げると、アルベールも珍しく複雑そうな表情を浮かべている。


「変な感じですね」


 マリーを見たことで、感覚が少し前に戻ってしまったのか、二人きりになった途端、敬語になっている。自分が狼狽するのはいいが、アルベールがそんなふうだと、気恥ずかしくて仕方ない。


「――もしかしてあなたは、私に遠慮があるのかしら?」


「なぜですか?」


「ちょっと動揺しただけで、昔に戻っているじゃない。気を遣いすぎでは?」


「夫婦関係は、夫が妻を崇拝しているくらいで、ちょうどいいかと思いますが」


 ていうかお願い、敬語やめて。以前の禁欲的だった頃の彼に、口説かれている気持ちになるから。


「あなたは私を崇拝しているの?」


 そんなふうに問い返してしまったのは、動揺していたからだろうか。だけどこの質問は、失敗したかもしれない。


「あなたに夢中です」


 一瞬前までイヴは彼の腕に手を添えて、お行儀良くエスコートされていたはずだ。ところがどうだろう。


 いつの間にやら、指先を絡めとられ、腰を抱かれて引き寄せられている。


 ――なんて自然に抱き寄せるのかしら。彼のこのスマートな物腰には、いつだって驚かされるし、いつまでたっても慣れない。


「それはいつから?」


 アルベールの綺麗な青灰の瞳に見惚れながら尋ねる。――昔からイヴが見続けている、陽だまりを思わせるような、優しい瞳。


 イヴは彼を前にすると、いつも鼓動が速くなる。夫婦となった今でも、それは変わらない。


 彼の形の良い唇から、妻への愛が溢れた。


「あなたに夢中です。もうずっと――ずっと前から」


 イヴは彼の瞳に囚われ、その美しい虹彩に見惚れた。


 それは彼のほうも同じだったかもしれない。焦がれるようにこちらを見つめる彼の瞳を覗き込み、イヴはそんなことを思った。


 ただ視線を絡ませているだけで、永遠にも感じられる濃密な時間が流れ――互いの距離がさらに近づく。


 彼を前にすると、愛おしさからいまだに胸が痛むのに、それ以上に圧倒されるのは、心の底から湧きあがってくるこの幸福感だった。


 イヴがそっと睫毛を伏せると、唇に柔らかな感触が落とされた。




***


 私に仕える男 ~見合いが大惨事続きのお色気令嬢ですが、美形従者に溺愛されて奉仕されています~(終)



【蛇足の後書き】


 最終話で時系列が分かりづらくなったので、軽く補足させて頂こうと思います。


 この話はいっけん、A面→B面→最終章 という流れで進んでいるように見えますが、実はB面の時系列はバラバラになっています。


 最終章・最終話から→4-B『年上の男』へとつながるシークエンスです。

 よって4-B『年上の男』の最終場面で登場した彼はイヴの父ではなくアルベールとなります。


 また、9-B 『成り上がった男』は全て終わった後のオーラスと言いますか、〆のお茶漬け的な感じですかね……。


 お読みいただき、ありがとうございました。

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【完結済】私に仕える男 山田露子 ☆『初恋』シーモア先行配信開始 @yamada_tsuyuko

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