最終章-17 壊された女神像


 ――真夜中。ジャンは一人、中央公園のベンチに腰を下ろしていた。


 懐には一通の封書が入っている。中身はアルベールが馬車の中で走り書きした『手記は女神像の中』という例のメモである。


 そもそも黒幕がジャンに接触してきたのは、社交界におかしな噂が広まった頃だった。――『ランクレ家の当主は生前、あの詐欺事件の黒幕の名を書き残しておいたらしい』という、あの噂。しかしそんなものが本当にあるのなら、もうとっくに表に出ていてもおかしくない。


 その噂は眉唾ものであるにも関わらず、話好きなご婦人たちが集まれば、まるで花びらから花びらに花粉を運ぶミツバチのような仕事ぶりで、密やかに広範囲に、それを広めていった。


 ジャンはジャンでその頃、エメラルドの首飾りが盗難されたとして、ベイツ卿から連日連夜、不当な圧力をかけられていた。ベイツ卿はベイツ卿で、アルヴァ殿下から強いプレッシャーがかけられているらしく、卿の機嫌が日に日に悪くなっていくので、ジャンは先が見えない状況に苛立ちを募らせていた。


 そんな中で、初めは手紙で接触があった。――いや、『初めは』というよりも、これまでずっと『その人物』からのコンタクトは手紙だった。一方的に、書面で彼に指示が届くだけ。


 差出人不明の手紙には、『ここ最近あなたを悩ませている問題を、上手く解決して差し上げるので、その代わりに、ランクレ家の元当主が書き記したという、手記のありかを突き止めてください』と書かれていた。


 詐欺事件の黒幕が記されているという、例の手記ね――ジャンはこれを読んで、考え込んでしまった。眉唾ものだと考えていたが、こうして『誰か』が欲しがっているところを見ると、もしかして本当に存在するのだろうか?


 そしてこの手紙の差出人は、手記が見つかると困るのだろう。するとつまりあの詐欺事件の黒幕本人ということになる。


 ジャンからするとランクレ家は親戚に当たるし、手記の内容には心惹かれるものがあった。一族に暗い影を落とした事件であるから、もしも背後に隠された事情があるというのなら、ぜひともその内容を知っておきたい。


 ――手紙の差出人は、ジャンの性格を正しく認識できていなかったのかもしれない。


 ジャンは上昇志向が強く、情が薄い人間に見える。自身の進退がかかっていれば、従兄のアルベールを嵌めるくらいのことは平気でしそうだし、ついでにいえば二人は不仲だ。黒幕はジャンのそんな性分を利用して、手記を手に入れるための手先として使おうと考えたのだろう。


 しかしジャンは駒になりきるには、あまりに潔癖であった。彼は正しいことをしている自分が好きなのだ。


 ジャンは黒幕の計画に乗るフリをして、結局最後は、大嫌いな従兄弟(アルベール)のほうと手を組むことにした。そして今夜、ついに犯人と対面する。


 黒幕からは、『手記のありかを手紙に書いて、中央公園のベンチに置いて去るように』と指示されていた。ジャンとしてはもちろんこのまま立ち去るつもりもない。黒幕のほうもそれは分かっているだろう。


 ジャンはソワソワしながら、その人物が現れるのを待った。――相手はなんとなく見当がついている。ジャンは身体を鍛えていたし、その人物に後れを取るつもりはなかった。


 考えごとをしていると、正面で微かな物音がした。暗闇に目を凝らすようにして様子を窺う。しかしいつまでたっても何も動く気配がない。


 なんだろう? あまりに暗いので、状況がまるで分からないが、もしもどこからかものが投げ入れられたのなら、音がした方角とは別のところに、犯人がいるのかもしれない。


 そう気づいた瞬間、背後からカサリと物音が響き、ほぼ同時に頭部に激しい衝撃を受けた。地面に膝をつき、そのまま前のめりに倒れる。ジャンが昏倒すると、懐から封筒が抜き取られた。




***




 ――明けて、翌日。彫刻家は、あの疫病神ことアルベール・ランクレから依頼された仕事が片づいて、清々しい朝を迎えていた。


 アルベール・ランクレは芸術家魂に火を点けるような、魅力的な容姿をしているのに、性格に難ありというやつで、あの押しの強さといったらもう、王都一ではないかと思うほどだった。


 ――こんなおかしな依頼は絶対に受けないぞ! と聞き始めは考えているのに、なぜか交渉が終わる頃には、


「やります」


 と答えてしまう。……なんだろう? 催眠術にでもかけられているんじゃないだろうな。


 とはいえ金払いは良い客だし、奇妙で刺激的な依頼をしてくるから、やっていて楽しいは楽しいんだよなぁ。などと時折うっかり絆されそうになるので、本当に危険な相手だと思う。


 あんなのに気を許したら、骨の髄までしゃぶられてしまうに違いないし、これ以上関わって、無理な納期に追われて身体を壊したくもない。命あっての物種である。


 ――命の心配をするだなんて、そんな大袈裟な、とお思いだろうか? いいや、絶対に大袈裟じゃない。あの男に対しては、用心しても用心しすぎってことはないのだ。


 だって考えてみて欲しい。普通の人間はあんなに顔が綺麗じゃないし、あんなにドSじゃないし、あんなに圧かけてこない。よってアレは人外、悪魔なのである。


 ――とまぁ、それはさておき。美しい悪魔と結んだ奴隷契約も、嬉しいことに、もう少しで終わりを迎える。


 イヴ・ヴァネル嬢から依頼されていた『猿のミイラ』の復元のほうも、このたびやっと目途がついた。(……アレのモチーフは本当に『猿のミイラ』で合っているのか? なんだか皺くちゃの『芋』みたいな彫像だったが)


 ヴァネル嬢の依頼は、『割れて砕けた彫像を、元どおりにしろ』との驚きの内容だったが、作業に入ってみると、存外スムーズに進んだ。というのも、実際に手をつけてみたら、割れ方がとても綺麗で、そんなにバラけてもいなかったからだ。もしかすると原料となっている粘土の材質が、かなり特殊なせいかもしれなかった。


 糊をつけながら、破片を組み立てていく作業は楽しく、サクサクはかどった。ほかの依頼を片づけながら気分転換にこれを行っていたところ、夜会前日には組み立てが完成してしまった。予定していたよりもかなり巻きで進んでいる。


 おととい塗料を塗っておいたので、今日は細部を微調整して、それで完成である。


 ぐっすりと睡眠を取り、英気を養った彫刻家は、久しぶりに血色の良い肌をして、やる気満々であった。おまけに一晩寝たら、痛めていた足の具合も良くなったので、今朝は杖もついていない。


 下の通りで購入したコーヒーを片手に、朝日を浴びつつ、アトリエの扉を開けた彼は、室内の様子が普通でないことに気づいた。――自慢の作品群が、ことごとく完膚なきまでに、破壊されているではないか。大昔に作った作品で、気に入ってそのまま手元に置いてあった彫像も、すべてやられている。


 泥棒が入って目ぼしい作品を持って行った、とかなら分かるけど、これやったやつ、なんでわざわざ壊したの? 何か恨みでも買っていたっけ? でも心当たりがないんだが!


 ――これをやったやつ、一つ壊したらブレーキが壊れて、この場にあるものすべてを壊さないと気が済まない状態に陥ったのか? どんだけ情緒不安定なんだよ? すぐに医者に診てもらえよ!


 ――ていうかさぁ、壊すくらいなら持っていけよー! 泣きそうだよ! ショックすぎて、涙も出ないけどさぁ!


 ゴロゴロと破片が転がる退廃的な様相の木床を、彫刻家は茫然と眺めおろしていたのだが、やがてふらりと足を踏み出し、ほとんど意味も意図もなく、ただただショックを発散するかのように、大声で叫び始めた。


「あー!!!!!! あー、あー、あー!!!!!!」


 手に持っていたコーヒーカップは、とっくのとうに床に滑り落ちていた。――絶叫は彼が室内を三周回り終えるまで続いた。三周でやめたのは、破片に躓いて転んでしまったためだ。


 彼はなぜかこの時、『これはアルベール・ランクレの呪いに違いない』という、逆恨みめいた考えを抱いていたのだった。


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