最終章-16 あなたは私が傍にいないと駄目でしょう?


 ジャンが下車したあと、馬車にゴロツキと対面で残されたアルベールは、可及的速やかに、すべきことを済ませることにした。せねばならぬことをあと回しにするのは、精神衛生上よろしくない。


 とりあえず自分がやられたことをやり返す。相手の顎に拳を叩き込み、そのあとは大男の記憶からイヴの姿が吹き飛ぶくらいの恐怖を念入りに叩き込んでやって、気が済んだところで縄で縛り上げた。


 その後御者も拘束したのだが、こちらはなぜか無抵抗であった。――車中から世にも恐ろしい悲鳴が響き渡ったので、もしかすると抵抗する気力が失せたのかもしれない。


 そうして二名の縛り上げた賊を馬車に乗せたまま、町外れにある隠れ家までやって来た。大男と御者は、意識のない状態で薪小屋に閉じ込めておいたので、このまま朝まで放っておいても平気だろう。


 母屋に足を踏み入れたアルベールは、そこでヴァネル伯爵と対面することになった。――彼がここにいるのは、まったくの予想外だった。


 夜会の際、ヴァネル伯爵が屋敷にいると、アルベールの冤罪が上手く機能しない恐れがあったので、適当な言い訳をでっちあげて、パーティには参加しないようお願いしてあった。そこでヴァネル伯爵は『公爵に呼び出された』という偽の口実を作り、昼間のうちに上手く屋敷を脱出していた。


 だからアルベールとしては、伯爵夫妻はどこかに宿を取って、のんびり過ごしているものと考えていたのだ。――それがまさか、こんな辺鄙な場所で再会するとは。


 どうやら彼はアルベールに話があって、ここで待っていたらしい。


 椅子を二脚見つけてきたアルベールは、適度に離してそれを置き、一方を伯爵に勧めた。二人は思い思いに椅子に腰かけた。


 伯爵もアルベールもどちらも物腰が洗練されていたので、ただ椅子に腰を下ろしているだけでも、なんとなく絵になる。


「――これが終わったらどうするか、考えているのかい?」


 ヴァネル伯爵は笑み交じりのような、それでいて深い思索に没入しているような、なんとも深みのある表情を浮かべて、そんなことを尋ねてきた。口調はいつものように相手を肯定する温かさに溢れていたが、本心はどうなのだろうとアルベールは考えていた。


 ――伯爵は親切だが、決して甘くはない。


 アルベールは少し考え、気持ちを正直に伝えることにした。


「まだ何も考えていません。――正直、父に対しては、なんの思い入れもないんです。今回、黒幕を裁く機会に恵まれたけれど、父の無念を晴らしただとか、そういう達成感は得られないでしょう。彼は悲劇のヒーローではありませんでしたから」


「けれど決着は着く。すべてが終わったあと、君は答えを迫られることになる」


「できれば……」


 アルベールがそう呟いたのは、無意識だったのだろうか。言葉にするつもりはなかったのかもしれない。その声はとても小さかった。


「僕はあなたに反対して欲しいのかもしれません。衝動に押し流されそうで怖い。近頃の僕は抑制を失っている」


「別にいいだろう」


 ヴァネル伯爵が喉の奥を鳴らすようにして笑った。なんだか本心から可笑しそうというか、つい我慢できずに漏れた笑みという感じだった。


 アルベールは戸惑い、苦楽を共にしてきた伯爵のことを、教えを請うようにじっと見つめた。


「――アルベール、人間なんて衝動の生きものなんだよ。君のような若さですべてを制御できたなら、私は逆に君が怖い」


 アルベールはこれに虚を衝かれ、じっとヴァネル伯爵を見返した。伯爵は相変わらず物柔らかで、相手を包み込むような空気がある。それでアルベールはふと肩の力を抜き、くすりと笑みを漏らした。


「ですが、あなたは私を雇っている立場ですから、『感情を完璧にコントロールすべき』と言っておいたほうが良いのでは?」


「――私が君を雇っている、だって? 笑わせるな」


 ヴァネル伯爵は足を組んだまま、今度は快活に笑った。


「君は私の可愛い甥っ子で、私は君が大好きなんだよ。とても頼りにしているしね。――君がどんな決断を下そうが、君の自由だが、私が君の幸せを願っていることだけは、どうかしっかりと覚えておいて欲しい。君は私の中ではやはり、優秀な従者というよりも、もっとずっと近しくて大切な存在なんだ。私は君をたぶん……本当の息子のように思っている」


 アルベールは口を開きかけて、言うべき言葉が見つからなかった。胸が一杯で何も考えられない。


 なんだかおかしな話なのだが、ヴァネル伯爵から息子のように思っていると言ってもらえて、初めて自分が彼を実の父のように慕っていたのだと気づかされた。


 ――肉親の情など知らない。実の親は彼を愛してはくれなかったし、まだ幼い頃に自分は隣国へ行ってしまったから、簡単に血の繋がりは断たれてしまった。その後何年もたったあとで、親が死んだと聞かされた時も、ショックは受けなかった。ただ愚かだと、氷のように冷えた心で考えただけだ。


 愚かな者が、それに見合った裁きを受けたのだと、まるで心乱すことなく考えている自分がいた。そしてこんなふうに割り切れてしまう自分は、薄情で、人間として欠陥があるのだと思った。


 世話になった隣国の叔母夫婦は、おそらく善い人間ではあったけれど、アルベールを受け入れてはくれなかった。それは彼が実子のジャンと同い年であったから、夫妻からすれば、色々複雑なものを抱えていたのだと今ならば分かる。


 アルベールのほうだって、もしも自分がジャンを明確に超えてしまったら、叔母夫婦に追い出されるのではないかという、おかしな恐怖心のようなものがずっと消えずにあった。


 しかしそういった生ぬるい忖度(そんたく)は、必ず相手に伝わるものだ。


 アルベールはジャンを超えないように、適当に手を抜いて生きてきた。それはきっと叔母を深く傷つけたことだろう。――おそらくジャンさえも。


 思うにジャンは、高いプライドが邪魔をして、その事実にきちんと向き合うことができなかったのではないか。だから彼は視野が狭くて、独善的な子供になってしまった。彼はアルベールに見せつけるように清廉潔白であろうとしたし、監督生だの委員長だの、誰かの上に立つ役割をしたがった。


 アルベールのせいで生じた歪みは、どんどん彼自身を孤独にしていった。


 閉塞感に押しつぶされそうになる闇の中、彼に良いものをもたらしたのは、当時はまだ十三歳だった、痩せっぽっちの一人の少女だった。――彼女がアルベールを変えた。


 彼女が特別な人だからこそ、自分の人生に巻き込んではいけないと、アルベールは考えていた。


 ――多くは望むまい。ただ彼女を近くで見守ることができれば、それで十分だと、物分かりのよい人間であろうとした。


 ――けれど、いつからだろう。彼女を見守る視線に、意図せず熱が入り込んでしまうようになったのは。


 彼女を見ると、心が震える。彼女なしでは生きられない。彼女がほかの男のものになったら、きっと耐えられない。


 もう自分がどうすべきなのか分からなかった。本当にどうすればよいのか分からないのだ。


 沈黙が支配する部屋の扉を、突然誰かが押し開いた。音を立てて開いた扉の向こうを見遣れば、かけがえのない女性が――彼のイヴが立っていた。


 下ろした髪は乱れていて、いつもの完璧な状態とはほど遠い。けれどそれでも、この上なく美しかった。


 椅子から慌てて立ち上がった彼は、らしくもなくひどく狼狽していた。


「お嬢様、どうしてここへ来たのですか? 危険なのに、なぜ」


 イヴが自身の安全を優先していないのは明らかだった。というのも現れたイヴは、細い肩を不安げに震わせていたし、味方を誰も引き連れてはいなかったからだ。


 ――ジャンが念のためつけた護衛役(アルヴァ殿下づきの騎士)はこの時屋敷の外で控えていたのだが、イヴ自身がその人物を味方だと認識していないので、道中で彼女の味わった恐怖は相当なものであった。


 アルベールは怯える彼女を見て、胸が痛んだ。夜会でのあの状況では、何を信じていいのか分からなかっただろうし、とても心細い思いをしたことだろう。


 けれど彼女はこうしてここへやって来た。いつだって彼女はアルベールの予想を超えて、するりと懐に飛び込んで来る。


 さっと空気が動いて、今もまた距離を詰められていた。イヴは勢いよくアルベールの懐に飛びつき、その存在を確かめるように、ぎゅっと抱き着いて尋ねるのだった。


「――だってあなたは、私がそばにいないと、駄目でしょう?」


 そんなふうに言いながらも、当の彼女は、アルベールの胸の中で小さく震えている。きっとヴァネル伯爵がこの場にいることすら、正しく認識できていないに違いない。


 ――アルベールは彼女を愛おしいと思った。


 駄目だ、駄目だと、自分の中の冷静な部分が警告を発するのに、手は意志を持ったかのように勝手に動き、彼女の柔らかい身体を抱きしめてしまうのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る