最終章-2 猿のミイラ


 馬車から下りて来た身なりの良い夫妻と、隣国で暮らす従兄のジャン、彼らはどんな関係にあるのだろう? 療養のため、イヴが隣国にいた際に、あの夫妻を見かけたことはなかったように思う。


 ジャンが個人的に築いたコネクションだとすると、年齢が大分離れていることと、彼らのあいだに漂うよそよそしい空気感から、ビジネス上の絡みで明確な上下関係があるものと思われた。


 好奇心に駆られたイヴは、玄関ホールに留まったまま、外にいる彼らを観察し続ける。建物内のほうが暗いので、外にいる人たちは、こちらから様子を窺われていることには気づいていないだろう。


 ――あの居丈高な老紳士は、御者の首切りを、瞬き一つするあいだに決めてしまったようだが、それだけでは飽き足らず、ジャンが地面に足を着けるやいなや、矢継ぎ早に指示を与え始めた。


 内容がいちいち細かいし、言い方が暴力に近い。見えない棍棒で滅多打ちにしているみたいだった。


 老紳士にかかれば、馬車の揺れも、天気のぐずつきも、移動時の手際の悪さも、すべての原因が目の前のジャンにあるらしい。一つ一つ丹念に、ヒステリックに責め立てる行為を、飽きることなく繰り返している。


 二度とこんなことがないように、と彼は言うのだが、今日という日はたった一度きりなのだし、逆に今日とすっかり同じ段取りを組めと言われたところで、天気の再現などはもはや不可能に近いだろうに。


 日々お気楽に生きたいと考えているイヴからすると、すべてが寸分違わず理想どおりでないと許さないという彼の生き方は、狂気の沙汰としか思えないのだった。


 老紳士の気難しさは外見にも表れていた。口角が下がり、唇が酷薄に動くさまは、いかにも偏屈そうである。


 ――ところで従兄のジャンはお育ちの良いお坊ちゃんであるから、本来ならば使用人をかしずかせる立場にあるはずだ。学生時代は如才なくリーダーシップを発揮していたタイプだし、このような半端者扱いを受けることは、相当な屈辱であるに違いない。


 そしてジャンをそんなふうに扱えるくらい、相手は大物だということなのだろう。


「嫌だわ」


 イヴは憂鬱になり溜息を吐いていた。裸足で駆け回るくらいの自由人であるイヴは、堅苦しい人間があまり好きではなかった。――いいえ、少し違うかも。その人が勝手に堅苦しく生きているぶんには一向に構わないのだが、それを相手にも押しつけてくるような手合いが苦手なのかもしれない。


 テンションが下がると、手元の不細工な像が重さを増したような気がして、もう一つ溜息が出る。


「――ごきげんよう、素敵な屋敷ですわね」


 あの『気難し紳士』のお連れ様が、優雅な笑みを浮かべながら、エントランスに入って来た。


 笑顔が上品で洒脱な女性だわ、とイヴは思った。自然で気取らない振舞いが、かえって彼女に気品を与えている。


 伯母はいつもながらの堂々とした態度で挨拶を返した。


「ベイツ夫人、お久しぶりですわね」


 二人はどうやら顔見知りのようだ。伯母はイヴを型どおりに紹介してから、ベイツ夫妻について説明してくれた。


「隣国の侯爵家の方よ。外にいらっしゃるのがベイツ卿で、彼女が奥様。古くから続く名家で、鉱山を幾つもお持ちなの」


 侯爵家――ではやはり、ジャンの家より爵位が上だ。


 鉱山から何が採れるのかしら、とイヴはこっそり考える。ベイツ夫人の持ちものはすべてが上等で洗練されていて、センスが良いのはもちろんだが、お金がないとできない類のお洒落だった。だからきっと希少な鉱物か宝石が採れる山をお持ちなのだろう。


 ――ベイツ夫人は美しく均等に両側の口角を上げ、イヴのほうを悪戯っぽく流し見た。


「私どもの地元は、ただ寒いだけの土地よ。辛気臭いったらないの」


 うんざりしたような声を出しながらも、瞳の輝きに茶目っ気があるので、聞き苦しくはない。ベイツ夫人が陽気に続ける。


「寒い土地で我慢して育ったから、夫はあのとおり気難しいのかしらねぇ。――ガミガミ文句を言う彼を見て、あなた、呆れたんじゃない?」


 ――困った。まさか『ええ、そうなんです』とも言えない。適切な返しができずに助けを求めるように伯母を横目で眺めると、さすが年の功といおうか、彼女はこれをカラリと笑い飛ばしたのだった。


「夫なんて、どこもそんなものよ」


 イヴは目を丸くしてしまった。――嘘おっしゃい、と思ったからだ。伯母さまのところなんて『かかあ天下ここに極まれり』って感じじゃないの。伯母さまの旦那様である公爵とはまだ話したことがないのだけれど、遠目で見る限りでは、ヒョロヒョロに痩せていて、満身創痍の野良猫みたいに弱々しかったわ。夫妻はどう見ても、鬼嫁と下僕って感じだった。


 イヴが心の中で毒づいていると、ベイツ夫人が小首を傾げ、なんだか物思う様子で外にいる夫のほうを振り返って言う。


「彼も悪い人ではないのよ。口うるさいけれど、裏表はないから、分かりやすいし。一緒にいると、なんとなく可愛く見えてくるものよ」


 その穏やかな声音から、この人は旦那様を愛しているのだわ、とイヴは気づいた。――夫婦の形は色々あるものだ。端から見ると瑕疵だらけの伴侶でも、それでいいという人もいる。人の数だけ好みはあり、その人なりに求めているものは違う。


 ベイツ夫人は洗練されていて美しく、異性にモテそうなタイプであるのに、そんな彼女が夫に求めるものはただ一つ、裏表のない正直さなのだ。


 しんみりした空気が広がる中、ベイツ夫人がふとイヴの手元を眺めおろし、器用に片眉を顰めてみせた。


「――ねぇ、あなた、それ、一体なんなの? 雨乞いの儀式でも始めるつもり?」


 やはりこの像、何かとてつもないパワーを秘めていそうに見えるらしい。イヴはこれを渡して去っていったアルベールのことを恨めしく思った。――どうせなら持って行ってくれればよかったのに!


 伯母がすまし顔で答える。


「これはリヨサ国の『女神像』よ。幸せな結婚ができるおまじないがかかっているの」


「そうなの? あんまり禍々しい形だから、千年生きた老人のミイラかと思っちゃったわ」


 二の腕くらいの長さしかないから、人のミイラにしては小さすぎるだろう。――でもまぁ言いたいことはなんとなく分かる。確かにミイラみたいだわ。


 イヴは黙っていられなくなった。


「私は猿のミイラじゃないかと疑っていますの。これは大変な徳を積んだお猿さんで、絶食の修行のあとに、雪山にこもってひっそりとミイラになった、賢いお猿に違いありません。そしてこの猿爺さんは、ミイラになったあとも精力的に活動し、千年に一度、人類を滅ぼすために山から下りてくるのです」


 イヴが顔を顰めておどろおどろしい創作話を披露した途端、伯母がこの世のものとは思えない恐ろしい顔で睨んできたので、イヴはたちまち借りて来た猫のように大人しくなり、そっと佇まいを正した。


 ――おお、怖。伯母さまは徳を積んでいないのにも関わらず、眼力一つで山を砕けると思う。


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