最終章-1 幸運の女神像


 その日は朝から大変な騒ぎだった。なぜかといえば、伯母さまが久方ぶりにヴァネル邸にやって来たためである。


 公爵家の女主人である伯母さまは、遠い異国の地で慈善活動をするという理由で、しばらくのあいだ国を離れていた。イヴとしてはもう万々歳で、不幸縁談製造機(?)が出国してくれたおかげで、ストレスフリー、清々して気分爽快、すっかり羽を伸ばしていたわけである。


 ところが、だ。何事にも終わりはある。イヴのハッピー・デイは呆気なく幕を閉じることとなった。――残念なことに、伯母さまは帰って来てしまった。不幸縁談製造機が戻って来たのだ。


 昨日までは本当に幸せでしたわ、伯母さま。思わず遠い目になるイヴであった。


「――ただいま帰りましたよ、イヴ」


 長旅の疲れも見せずに、威風堂々たる態度で玄関ホールに現れた伯母の、特徴的な鷲鼻を眺めながら、イヴは背筋を伸ばしていた。


 今日が帰国日であったはずなので、おそらく伯母さまは自邸である公爵家に戻る前に、ヴァネル邸に駆けつけたようだ。――自宅でホッと一息つくよりも、懐かしい夫の顔を見るよりも、出来の悪い姪っ子に一番に会いに来るだなんて、伯母さまはずいぶん変わった博愛精神をお持ちだわ、とイヴは皮肉混じりに考えていた。


 さすがのイヴもこの場面で、『もしかして今、ただいまとおっしゃいました? あら、でも、おかしいわ――ここはヴァネル伯爵邸でしてよ。伯母さまがいるべき、かの有名な公爵邸ではございませんわよ』などという揚げ足取りはしないでおいた。


 その代わりに、


「おかえりなさいませ、伯母さま」


 触らぬ神に祟りなしと、にっこりと良い子の嘘笑顔を浮かべ、イヴは当たり障りのない態度を取った。


「長旅でお疲れでしょう。あたたかいお茶など、いかがです?」


 そうつけ加えるのも忘れない。本当ならすぐに帰って欲しいので、一気に喉に流し込める冷たい飲みものを出したいなんて思ったとしても、大人はそういうことは言わないものなのだ。――そもそもの話、飲み終わったら帰ってくれるという保証もないことだし。


「あら、ありがとう」


 伯母が鋭角的な眉をクイと上げる。値踏みするようなこの視線に晒されると、いつだってイヴは冷や汗をかき、視線を泳がせてしまうのだった。


「ええと、リヨサ国に行ってらしたのですよね。あの国は、外を歩く時も裸足なんだとか」


 リヨサ国の知識を引き出しながら、ふたたび視線を伯母の立派な鼻付近に戻す。――この頃になると、イヴの落ち込みは少しだけ和らいできていた。旅行の話を聞くのは楽しい。


 ――リヨサ国はなんて開放的で素敵な国なのかしら。好奇心から、イヴの瞳に輝きが戻りつつある。


 それに確かあの国は、土着神に対する信仰が厚いと聞く。なんてワクワクするのかしら。


「そのとおりよ、可愛いお転婆さん。あなたと価値観が似ているようね」


 伯母は平坦な口調で軽くあしらったあとに、処置なしといった風情で、はぁと溜息を吐いた。そうしておもむろに背後を振り返ると、手のひらを上に向け、控えていた使用人に何かを催促している。


「イヴ。いい子にしていたあなたに、とっておきのお土産がありますよ」


 伯母は経済の話でもするみたいに愛想なく、そんなことを言い出した。これに姪っ子のイヴは目を丸くしてしまった。


 伯母からのプレゼントといったら、残念なことに、ケチのついた縁談くらいしか思い浮かばない。正直、期待値ゼロだ。


 お酒でも、お菓子でも――いいえ、この際、趣味の悪いタペストリーでも、卵の殻に描いた自画像でも、なんでもいいわ。そう、趣味の悪い男以外なら、なんでもね。


「――あなたにぴったりのものを見繕ったわ」


 少し得意げな伯母さま。イヴはそのさまを見て、現金にも、『もしかすると今回ばかりは、本当にいいものをくれるのかもしれないわ』と考えを改めた。


 伯母さまの侍女が鞄から、薄茶と緑のあいのこみたいな色をした、奇妙な物体を取り出す。――あれは石膏像のようなものだろうか? 伯母はそれを受け取り、こちらにグイと差し出して来た。


「え、これ? あの、なんていうか、個性的な」


 褒めようとしても、びっくりするほど何も口から出てこない。失礼に当たるという自覚はあれど、イヴはどうしてもその像を受け取りたくなかった。伸ばしかけた手をワキワキと動かし、力なく胸の横で彷徨わせる。


 ――そもそも、これはなんの像なのだろう? 動物なのか、人間なのか、はたまた何かのモチーフなのか。それすらもはっきりしない。


 一番上にある丸いのは、おそらく頭部だし、そこには絡み合うように髪らしき文様もあって、それから目のくぼみ、胴体、足らしきもの? も見えるので、人物像――立ち姿――なのかも。


 茫洋とした、はっきりしない印象を受ける理由について考えてみたのだが、ある一部には細かい細工が施してあるのに、ある部分は作り込みが甘くなっていて、一つの作品の中で作風が一致していないことが、チグハグに感じる最大の原因かもしれなかった。


 イヴが困っていると、いつも絶妙なタイミングで助けてくれるアルベールが、今回も期待を違えずさっと歩み寄って来た。そうして伯母から、その像を代わりに受け取ってくれた。


 わりと大きな像で、イヴのヘソから肩くらいまでの高さがあり、見たところなかなかに重そうだ。ところがアルベールはさして苦労するでもなく、軽々とそれを掴んでいる。ピアノしか弾いたことがないというような、繊細そうな手をしているのに、なんとも不思議な感じがした。ぱっと見スラリとしている優美なアルベールだが、像を持つために大きく広げた手のラインなどを見ると、やはりイヴとは違って、男の人なんだなと思った。


 大抵のことには動じないはずのアルベールが像を見おろし、なぜか一瞬固まったように見えた。


「アルベール?」


 不思議に思い声をかけると、彼はノロノロと顔を上げた。そうしてなんともいえない表情でこちらを一瞥してから、戸惑った様子で言葉を呑み込み、ふたたび手元に視線を落としてしまった。彼らしくない、煮え切らない態度だった。


 ――本来の彼は、告げるべきでない言葉を思いついたとしても、相手にそれを悟らせずに、スマートにやりすごせる人である。イヴはそんな彼の様子が気になって仕方なかったのだが、まるで空気を読まぬ伯母が得意げに口を開いた。


「――それはリヨサ国の、女神像よ」


「女神像ですって?」


 イヴは素っ頓狂な声を上げた。――こんな地獄の使者みたいな、珍妙な女神がいるっていうの? リヨサ国って、感性が独特すぎない?


 アルベールも優美な眉を顰めている。しかし二人の戸惑いをよそに、伯母の得意そうな口上は続く。


「それは縁組の神様だそうで、その像を持っている女性は運気が上昇して、最良の相手と巡り会えるのですって」


 そうなんだ。イヴはこくりと唾を飲み込む。さすがリヨサ国、エキセントリック爆発である。確かにこの像、言われてみれば、超自然のパワーが込められていそう。


 ――たとえば好みの男性に呪いをかけて、無理やり惚れさせてしまう、くらいのね。しかし万が一この像がそんなパワーを秘めているとしたら、男性側からしたら、身も凍る恐怖だろうとイヴは思った。


「イヴ、あなたは縁談が壊れまくっているのですから、そのありがたい像を大切にして、毎日拝み倒して、きっと幸せを掴むのですよ!」


 上辺だけ『はい』と言っておけばいい。そう思うのに、ただそれだけのことが、どうしてもできそうにない。困ってしまいイヴが眉尻を下げた時、にわかに表のほうが騒がしくなった。


 ――見ると、玄関前に立派な装飾を施した馬車が停まり、中から厳めしい初老の男と、四十代と思しきほっそりした都会的な女性が降りて来た。


「私の貴重な時間が無駄になった! 道を間違えた愚かな御者には、相応の罰を与えておけ!」


 初老の男がカンカンになって怒鳴っている。怒りのあまり首筋まで真っ赤に染まっているので、血圧が上がりすぎて、血管が切れないかしらと、イヴはどうでもいいことが気になってしまった。


 彼は時代遅れなほどに背高の帽子をかぶり、マナー本のお手本どおりといった風情でタイをきっちり締めていた。他人の失敗を許せないのと同じくらいに、自身の身だしなみにも厳しい人なのかもしれない。


「ねぇあなた、わたくし少し疲れてしまったわ。早くヴァネル伯爵夫人とお会いしたいわ」


 夫人は女性らしい物柔らかな態度で、荒ぶる夫をいなすように話を変える。真正面から咎めるように意見するわけでもなく、悪態が続くのを無気力に放っておくでもなく、あの手の気難しい夫を扱うには、最良というべき上手いやり方を選ぶものである。


「――これまた愉快なお客さまがいらっしゃったみたいね」


 イヴが肩をすくめながら、こっそりと傍らに佇むアルベールに囁きかけると、彼の凪いだような瞳が、気まぐれのようにイヴを見返してきた。彼と視線が絡んだ瞬間、なんといったらいいのだろう――日差しが突然陰る瞬間にも似た、不意の落差に振り回されるような感覚に襲われた。


 彼はまったく、どこもかしこもミステリアスな男で、視線一つでこうもイヴをドキリとさせる。


「サプライズは、これから」


 気を惹くような彼の声が耳に留まり、胸をざわつかせる。――サプライズとは、どういうことだろう? 彼はあの人たちが誰だか、知っているのだ。


 隠し玉があると事前に告げられたにも関わらず、次いで馬車から降りて来た人物を見て、イヴは度肝を抜かれてしまった。


「――あれはジャンだわ!」


 思わず口元に手を当てる。イヴが十三から数年のあいだ世話になった、隣国のシモーヌ叔母さま――彼女の優秀な一人息子だ。


 久しぶりに見る彼は、なんだか記憶の中の姿より、小柄に感じられた。元々大柄なイメージはなかったけれど、それでも当時はイヴがまだ子供だったので、彼のことを見上げていた印象が強い。――今ならもしかすると、ヒールで底上げされているぶん、イヴのほうが彼を見おろす形になるかもしれない。


 ジャンは首が短く、がっしりした体格で、そこそこハンサムであるけれど、相変わらず面白味のない顔立ちをしていた。胸板が厚く、いかにも優等生然として、小さなコミュニティでは、リーダーの地位に就くような紳士ぶりであった。


 イヴはふとあることが心配になり、伯母が来客に気を取られているのを横目で確認したあと、少し背伸びをしてアルベールの耳元に囁きかけた。


「ねぇもしかして、私、彼とお見合いさせられるの?」


 ジャンと結婚するだなんて、冗談じゃない。子供じみた考えだと言われても、イヴにも譲れないものがある。――アルベールが一番つらかった時、カンニング事件で一切従弟をかばわなかったジャンのことが、イヴはいまだに嫌いだった。彼の母であるシモーヌ叔母さまのことは好きだが、それとこれとは話が別である。


 イヴのかたくなな空気に気づいたのだろうか。アルベールは口の端に淡い笑みを乗せた。穏やかであるのに、陽気さが欠如しているような、絶妙に中毒性のある何かを孕んだ笑みだった。


「――それはない」


 謎めいた答えだった。


「どうして?」


 訳が分からない。根拠は? 言葉足らずな彼に振り回されて、腹が立つほどだ。焦るように尋ねれば、


「ジャンと君は合わないと思う」


 彼の答えは、イヴの予想していたものとはまるで違った。だってそれは彼の主観だし、なんの根拠もないではないか。ジャンとイヴの相性が悪かったとしても、伯母さまがそれで縁談を諦めるかといえば、そんなことは絶対にないと思う。


 まるで納得のいかないイヴに対し、アルベールは猫みたいに気まぐれに、すっと瞳を細めた。


「それに僕は、君を彼にはあげたくないんだ」


 イヴは何か言おうとして、喉から何も出て来ないことに気づいた。頭が真っ白になる。


 なんて――なんてワガママな男なのかしら。あなたはこの手を取りもしないくせに、権利だけを主張するのか。アルベールは本当に勝手だ。


 恨みがましく彼を見上げると、彼はなんともいえない謎めいた表情を浮かべ、あのおかしな『女神像』をイヴの懐に押しつけてきた。イヴは伯母さまの手前、落とさないよう、しっかりとそれを抱えるしかない。女性が一人で持てないほどではないが、気を抜くと手から滑り落ちそうになる。


 目を白黒させているあいだに、当のアルベールは彼女を放って、すぐに来客の対応に行ってしまった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る