9-A お嬢様と恋の指南役


 ある日、ヴァネル伯爵邸に、とんでもない女たらしがやってきた。――その男、名をマルセルという。


 イヴの遠縁に当たる彼は、若い頃から放蕩の限りを尽くしていて、いつまでたってもそれが落ち着く気配がなかった。それで『社交界一我慢強い』と言われていた彼の妻も、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったらしい。


 穏やかな秋の日。夫妻の七年目の結婚記念日に、妻は手荷物をまとめて、気苦労の絶えない家から出て行った。


 こうして三十を目前にして独り身となったマルセルは、反省して爛れた生活を改めることもなく、その日以降も気ままに遊び暮らした。


 ところで、このマルセル氏――イヴが常日頃お世話になっている(?)あの公爵家の伯母さまが、特別目をかけている人物でもあった。


 彼は親戚筋の中でも、とびきり愚かで堪え性のない男であったが、不思議なことに、伯母にとっては可愛くて仕方がない存在らしい。もしかすると『馬鹿な子ほど可愛い』という、例のあの現象が起きているのかもしれなかった。


 可愛いマルセルが独り身になったのだから、お節介な伯母さまが黙っていられるはずもない。そこで独り身になった彼と、独り身のままでいるイヴ――この二人の縁談を、この際だからまとめて片づけてしまおうと、伯母さまはヴァネル伯爵邸に彼を呼び寄せることにしたのだった。


 伯母さま曰く、『お見合いを何度もセッティングするのは面倒だもの。いっそ合同お見合いなんて、どうかしら』とのことである。


 イヴはアルベールが淹れてくれた紅茶を飲みながら、小さくため息を吐いた。


「もしかして伯母さまは、マルセルさんと私をくっつける気なのかしら?」


 彼女が漏らした疑問に、傍らに佇んでいたアルベールが物言いたげに瞳を細める。そういうちょっとした仕草でも、睫毛が陽の光に透けて、えもいわれぬ色気が漂っている。しかし本人にその自覚はないのだろう。


「――お嬢様、さすがにそれはありえません」


「そうかしら? だけどアルベール、伯母さまはいつもとんでもない縁談を持ち込んでくるわ」


 本心では『姪っ子を不幸にしてやろう』と画策しているのでは? なんて疑いたくなるくらいよ。


「それにしても、マルセルはない」


 アルベールはいつもの優雅な物腰のまま、辛辣な台詞を吐いた。――というか、普通にマルセル氏を呼び捨てにしたわね? 目上の相手なのに、いいのかしら。


 彼の失礼な物言いにイヴは軽く片眉を上げたものの、とりあえずは黙って紅茶を楽しむことにした。しばらくたってから、ソーサーとティーカップを静かにテーブルに下ろし、イヴはちらりと従者を見上げた。


「――参考までに訊くけれど、なんでマルセルは駄目なの?」


「お嬢様、答えが分かっているのに、わざわざ訊かないでください」


「別に茶化すつもりはないのだけれど」


「そうですか? 私をからかっているのでは?」


「ねぇ、あなた、今日はいつになく不機嫌そうだわ」


「私はお嬢様を心配しているだけです」


「心配? 何が?」


 おそらく問い返したイヴの眉間には、軽く皴が寄っていたことだろう。それほど彼の台詞は不可思議だった。現状、脅威など何もないように思えるのに。


「そんなふうに何一つ分かっていないところが、です」


「そうかしら。私に非はないと思う」


 今日ばかりは彼がおかしい気がする。――まぁね、大抵のケースでこちらに非があるのは認めるわ。でもやっぱり今日は、彼のほうがおかしい。いつもの冷静で理性的な彼はどこにいったのかしら。


「――とにかく彼に口説かれたら、すぐ私に報告してください」


 アルベールがイヴに対して、こんなふうにくどくどと押しつけがましい態度を取るのは、非常に珍しいことであった。というのも彼はいつだって、イヴを煩わせないようにと、なんでも上手く取り計らってくれたからだ。


「はいはい。こんなことであなたにここまで心配されると、私、なんだか箱入りお嬢様にでもなったような気分よ」


 イヴが無邪気な顔でにっこり微笑むので、アルベールははぁと小さく溜息を吐いた。


「いっそ本当に箱に入っていれば、私はこんなに心配しなくても済むのですが」


「あら、アルベール」


 イヴはからかうように彼を見上げた。


「私が箱に入っていたら、あなたは私の姿が見えなくて、寂しく感じるのではないかしら?」


「……それもそうですね」


 アルベールがやっと目元を和ませたので、イヴは彼に視線を合わせて微笑んでみせたのだった。




***




 イヴがお茶を楽しんでいると、女たらしのマルセル氏がやって来た。


 こういう人種はナチュラルに厚かましいというか、女性と喋るチャンスを見つけたら、絶対にそれを逃さない。当然のように同席を求めてきたので、イヴはイヴでちょうど良い機会だと考え、彼と腹を割って話をしてみることにした。


「マルセルさん、あなたは女性にモテるそうですね」


 イヴの物言いは開けっぴろげで、淑女としては少々問題ありであったが、マルセルはまるで気にした様子がなかった。むしろプライベートな内容に踏み込んできてくれたことを素直に喜んでいるような様子さえある。


「モテるでしょう、と他人からよく言われるんだが、正直ピンと来ないんだ。――というのもね、僕は気になった女性がいると熱心に追いかけるのだが、相手が振り向いてくれるかどうかは、結果論でしかない。駄目だった時はすぐに忘れてしまうし、周囲が僕をどう評価しているかも、正直どうでもいいんだ。恋をする時はいつだって本気だから、ほかを気にしている余裕なんてないよ」


 ――『恋をする時はいつだって本気だ』なんて、奥さんがいたのに、ずいぶんな言い草である。問題なのは、本人にまるで悪気がないことだ。真っ直ぐ、濁りのない目をして、浮気をこうも正当化できるのは、ある意味才能だと思う。当時彼の伴侶だった女性の心情を慮ると、イヴはため息が出そうになった。


「でも私から見ると、あなたはモテていらっしゃるわ」


 彼の人間性はさておき、実際にモテているのは確かだ。――マルセル氏は驚くほどの美男子ではないものの、少しやんちゃな雰囲気や、話が巧みなところなどは、彼の魅力ではあるだろう。異性を惹きつけるのも分かる。


「実は私、あまり異性に人気がないようなのです。――こうなったら正直に言いますけれど、このところ縁談が立て続けに壊れていまして、私は自分自身に問題があるのではないかと考えていたところですの」


 イヴが生真面目にそう告げると、給仕役を務めていたアルベールが、信じがたいという顔をあるじに向けた。イヴは彼が発する怒りの気配に気づいたものの、ツンと無視を決め込んで、マルセルだけを見つめた。


 ――だってアルベールは変にあるじに甘いところがあるので、『縁談が壊れてもすべて相手が悪い、お嬢様は悪くない』で終わらせてしまうから、イヴからすると何も解決していないように思えるのだ。イヴが今求めているのは、甘やかしてくれる庇護者ではなく、欠点をズバリ指摘してくれる鬼教官なのである。


 話が意外な展開に突入したので、マルセル氏はこれを面白がった。


「それはなぜだろう? 君ときたらゴージャスで、ホットで、いかにも男性からモテそうに見えるのだが」


「気を遣わなくて結構よ。男好きしそうな顔とおっしゃってくれていいわ。――ああ、もう、色気ってどうやったら引っ込むの? こんなものがあっても、全然モテないのだから、意味ない」


 イヴが身も蓋もないことを言い出す。従者のアルベールが段々と無表情になってきたので、これはあとでお叱りを受ける流れになりそうである。


 彼は二人きりの時なら、イヴがどんなに奔放に振舞っても怒らないのに、他人――特に異性の前で彼女が同じことをすると、はっきりと言葉には出さないものの、いつも少しだけ不機嫌になる。


 ……ふんだ。そんなふうに圧をかけてきても、態度は改めませんからね。縁談が壊れてみじめなのはこちらで、アルベールではないのだから、放っておいて欲しい。


「――確かに君は色っぽいから、妻というよりは、恋人にしたいタイプかもねぇ」


 感心したように本音を漏らしたマルセル氏は、そこでふとあることに気づいたようだ。


「おや、もしかして今、答えが出たんじゃないか? つまり君は、妻向きの容姿をしていないということなんだ。だから縁談には不向きなのかも」


「それってつまり、愛人向きってこと?」


 これこそまさに自爆。自分から『愛人』というワードを踏みにいってしまう、悲しさよ。


 マルセルはそのフレーズを聞いた途端、思い切り噴き出した。――そうそう、それそれ、と思っているのが、彼の顔にすべて書いてある。


 一方、従者のアルベールは、事ここに至り、とうとう堪忍袋の緒が切れたらしかった。


「――お嬢様、戯れがすぎますよ」


 その声音のあまりの冷たさに、イヴはビクリと肩を揺らしてしまった。


 ――彼、なんでこんなに怒っているの? こちらはまったくこれっぽっちも戯れたつもりはないのだけれど。それどころか真剣そのものよ。なのに『子供の非行に気づいた過保護な親』みたいな顔をするの、やめてくれないかしら? 大体ね、アルベールのほうこそ、十代の頃は戯れがすぎていたじゃない。


 むぅと膨れてみせると、主従のやり取りを面白そうに眺めていたマルセルが、快活に口を挟んだ。


「君は顔の作りが大人びているから、黙っていると、あまりに隙がないように感じられる。だからそんなふうに、時折子供っぽい顔をしたらいいよ。男はそのギャップにやられるはずだ」


 おお、なんと具体的、かつ、有効なアドバイス! イヴは大変満足した。


「マルセルさん、あなたの提案ですが、実践するかどうかは別にして、切り口が実に斬新ですわ」


「おーい、実践する気はないんかーい」


 マルセルは半目になりながらも、基本、女性に対しては甘い男なので、なおもアドバイスを重ねる。


「ああ、それともう一つ。今みたいに若干失礼な物言いを混ぜるのも、効果的だ。やりすぎると相手を怒らせる危険性もあるが、ある程度の地位についている男は、日頃から人に傅(かしず)かれて生活しているから、女性からぞんざいに扱われると、ドキッと心揺さぶられたりするものだ。――といっても小馬鹿にするのは絶対にNGで、ちょっと生意気だけど可愛らしいというラインは超えてはならない。匙加減は難しいが、やってみる価値はある。ここぞという場面で、意図的に、無礼に振舞ってみたらどうだろう」


「なるほど。あなた、伊達に女遊びをしていないわね。やるじゃない」


「いや、だから遊んでないってば。毎回、僕は本気で女性を」


「――お黙り、マルセル」


 犬を躾けるようにイヴがピシャリと遮ると、マルセルは心底驚いたように目を丸くし、そのまま固まってしまった。その様子を見たイヴは『あら?』というふうに小首を傾げて、


「あなたのアドバイスに従ってみたのだけれど、今のやり方は間違っていて?」


 と素直に尋ねた。


 完全にしてやられた形のマルセルは、肩の力を抜いて、晴れやかな笑みを浮かべた。――彼女のように妖艶な容姿をした女性に『お黙り』なんて言われると、新しい扉を開けられたような心地になった。もっと色々な台詞を言わせてみたくなる。


 この頃になるとマルセルは、イヴとの他愛のない会話を楽しみ始めていた。


 マルセルの視線が、イヴの身体のラインをなぞる。――細い首から、美しいデコルテ、理想を体現したかのような、柔く甘そうな胸の膨らみ――……


 不埒な想像が脳裏をよぎったその瞬間、従者がカップとソーサーをありえないくらい乱雑な手つきでガチャンとテーブルに放り出したので、マルセルはびくりと身体を震わせた。


 その給仕の仕方はもうなんていうか、河原で石でも放り投げているんじゃないかってくらいガサツな動作であったので、ティーカップに注がれた紅茶が、ソーサーの上に汚らしく零れてしまっている。ソーサーの上どころか、マルセル氏のズボンにも少しかかったかもしれない。


「ちょっと、君ね、火傷したらどうするんだ」


 普段温和なマルセル氏といえども、使用人のこの暴挙は腹に据えかねたらしい。振り仰いでアルベールに文句をつけている。


 しかし当の本人はまるで悪びれずに、にこりと笑って答えたのだった。


「あなたのアドバイスどおり、意図的に無礼に振舞ってみただけですが、何か?」


「え、ああ、そうなの?」


 彼の言葉に逆らい難い何かを感じ、マルセル氏はごくりと唾を飲み込む。


「でも、あの、これ……こんなに零れて、平皿から猫が飲むわけじゃないんだから」


 マルセルが引きつったような顔で続けると、アルベールは慈愛に満ちた笑みで応じた。


「そうですね。発情期にあちこちで子種をばら撒くような雄猫には、ちょうど良さそうです」


 ――回復が見込めないほどに、空気が凍りついたという。




***




 それからのアルベールの態度は、もう最悪だった。


 マルセル氏が親切にもダンスを教えてくれるというのに、アルベールが勝手にそれを却下したのだ。最近、若い男女のあいだで流行っているステップを学ぶチャンスだったから、イヴはがっかりしてしまった。


 それ以外にも、この日のアルベールはイヴに対して支配的だった。――曰く、あれをしてはいけません、これをしてはいけません。


 マルセル氏はしばらくのあいだ、アルベールからのささやかな悪意に晒されていたのだが、やがてこれらのやり取りがすっかり面倒になったようで、イヴにおざなりな挨拶を告げ、早々に部屋に引き上げてしまった。


 こうなったらもう、伯母さまがやって来るまで、彼はイヴと話すらしてくれないだろう。そして伯母さまがやって来たとしても、儀礼的な会話以上は望めない。もっと色々なモテアドバイスを聞きたかったのに。


 頭にきたイヴは、二人きりになったところで、アルベールに食ってかかった。


「あなたはどうして私のやることなすこと、片っ端からけなすの? いつもはそんなことしないじゃない! ひどいわ、今日のあなたはとってもとっても意地悪よ! 意地悪で嫌なやつよ」


 悲しみからイヴの瞳はしっとりと濡れ、頬は興奮により紅潮している。その様子を見たアルベールは、ハッとした様子で佇まいを正した。


「申し訳ございませんでした」


「私、あなたに何かした?」


「いいえ、滅相もない」


 なぜあんな態度を取ったのか、彼がその理由を続ける。


「――あれは、ただのヤキモチです」


 取り繕うこともない、呟くような声音だった。そんな爆弾を落としてから、彼が部屋から出て行く。


 ――かなり時間がたってから、イヴは放心状態からようやく脱することができた。それでもまだ心臓は叩きつけるように激しく鳴っているし、目も回っていた。


 イヴは震える手で思わず口元を覆った。


「……やだ、びっくりした」


 朱に染まり、困ったようなその顔は、まったく隙だらけで、この上なく魅力的だった。


 イヴ自身は気づいていないが、アルベールと一緒にいる時の彼女は、しばしばこんな顔をしている。


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