2-A お嬢様と舞踏会


 イヴ・ヴァネル伯爵令嬢はその時、絨毯の染み抜き方法について考えを巡らせていた。


 以前、誰かに聞いたことがあるのよね。――レモンを使うのだったかしら? それとも、小麦粉だっけ? うろ覚えだわ。喉元に引っかかって出て来ない、このすっきりしない感じ、嫌だわ。


 静かに考え事をするには、ここはあまり適していない環境のように思われた。というのも、視線を巡らせてみれば、目に飛び込んでくるのは、煌びやかなシャンデリアに、着飾った男女、キラキラ輝くグラスの数々であったからだ。大勢の客たちがお喋りする後ろでは、陽気な音楽が演奏されている。


 ――そう、ここは、華やかな舞踏会の場なのである。舞踏会とはすなわち男女の社交場、本来は楽しむべきはずの場所だ。


 けれど、ああ、気分がまったく乗らないの。イヴは何度目かのため息を吐く。何もかもが億劫で、足元に視線を落としたら、絨毯に染みがあることに気づいたので、そこから視線が離れなくなってしまったというわけだった。


「――踊るのは好きでしたよね?」


 アルベールが飲みものを差し出しながら、穏やかにそう尋ねてきた。――彼はイヴの従者という身分であるのだが、今夜は正装して、彼女をエスコートしてくれている。


 いつもどおり、アルベールは素敵だった。身のこなしは優雅でスマート。長身、おまけに顔も良いとくれば、会場入りしてすぐに『あの素敵な方はどなたかしら?』と女性陣の目は彼に釘づけになっていた。彼もイヴと同じく、長いあいだ外国暮らしをしていたせいで、こちらではほとんど顔が知られていない。


 ――ところが出席者たちが彼の出自を知るやいなや『あらまぁ、あれがランクレ家の』というさざめきが広がり、興奮が少し冷めたようである。ただしもう少し時間が深まってくれば、意を決して彼にアプローチしようとする令嬢も、チラホラ現れ始めるだろう。


 条件の良い外見が残念なおじさんと、条件の悪いとびきりの美形――どちらを選ぶかは、婦女子にとっては究極の二択なのである。


 と、そんなことより――


「踊るのは好きよ」


 イヴは少々恨みがましい視線でアルベールを見上げた。


 今夜のイヴは葡萄色の上品なドレスを身に纏っており、胸が大きいせいか、妙に肉感的な仕上がりになってしまっていた。そして彼女の豊かな金髪があまりに豪奢であったので、『つまらない男は寄ってくれるな』と、暗に周囲を威嚇しているようでもあった。しかしもちろん当の本人には、そんなつもりはまるでない。


 黙っていると高飛車に見えるイヴが、アルベールの前では眉尻を下げ、間の抜けたボヤきを漏らす。


「伯母さまからのプレッシャーがものすごくて。今日だって、一体何人のお見合い相手を押しつけられることかと思ったら、嫌になっちゃったの」


「発想を変えてみたらいかがです? どうせ押しつけられるのだから、それまでは楽しんだほうが得ですよ」


「はぁ、もう。あなたから『楽しみなさい』とアドバイスを受ける日が来ようとは」


 イヴは思わず目を回してしまう。――いつものパターンだと、イヴが楽しみすぎて羽目を外し、アルベールがそれをたしなめるのが通例なのに。


 くい、とグラスを傾け、葡萄酒を口に含む。


「――お酒はまぁまぁの味ね」


 イヴは口元を綻ばせ、可愛らしい笑みを浮かべて、グラスのふちをポンポンと指で叩いてみせた。こういう気取らない仕草をすると、キツげで隙のない顔立ちとのギャップが強調されて、とてもチャーミングに映る。


 けれどイヴは親しい者にしかこういった砕けた一面を見せないので、同年代の異性で彼女の本当の顔を知っているのは、目の前にいるアルベールくらいのものであった。


 ちなみにイヴはいかにもお酒に強そうな見た目をしているが、これは見たままギャップはない。彼女はいくら飲んでも酔わないし、顔にも出ない酒豪なのだった。


 イヴは物思う様子で踊る男女を眺めていたのだが、やがてポツリと、


「あなたは、私が早く結婚すべきだと思う?」


 呟くように問いを口にしていた。――彼にこんなことを訊くなんて、酔っているのかしら、とイヴは思った。


「それはあなた自身が決めることです」


 アルベールにそう言われ、イヴは少しだけ落ち込んでしまった。そっと視線を落とす彼女に、彼が告げる。


「私はあなたが幸せになるべきだと思っています。そのための助力を惜しみません」


 心のこもった言葉だった。しかしだからこそ、突き放されたように感じてしまうのは、受け手側に問題があるのかも。


 顔を上げると、アルベールの穏やかな瞳と出会う。青灰の瞳はシャンデリアの明かりを反射して、飴色のあたたかみを帯びていた。


 優しい瞳でイヴを包み込むように見つめていたアルベールであったが、ふと会場の一角に視線を遣った。


「――ああ、伯母上が私をお呼びのようです」


 彼の視線の先を辿ると、確かに伯母さまが指をクイクイと動かして、アルベールのことを招いている。


 イヴの伯母は、実はアルベールにとっても伯母にあたる。五人姉弟の、今や公爵夫人となったあの伯母さまが一番上、イヴの父が上から二番目、アルベールの母が末子という関係性であった。


 イヴを一人にするのが気がかりなのか、アルベールが少し心配そうにこちらを見おろすので、彼の二の腕をポンポンと叩いて促す。


「行って頂戴」


「では、失礼します」


 一人になると、イヴは気配を消すようにして、壁の花と化した。時折思い出したようにグラスを傾けていると、二十代半ばと思われる紳士が目の前に立った。


「踊らないの?」


 尋ねられたイヴはグラスに視線を落とし、たっぷり時間をかけてから、ようやく彼を見上げた。


「今は飲むほうがいいのです」


「それなら一緒に飲もうか。踊るか会話するか、どちらかはしたほうがいいんじゃない?」


 それはそのとおりだった。けれどイヴは気分がささくれ立っていたから、これらのやり取りが面倒に感じられる。


 目の前の男性が悪いわけでもない。なんとなく顔に見覚えがあるので、以前に紹介を受けた誰かかもしれない。男性の態度は少し軽薄だとは思うけれど、目くじらを立てるほどでもないのだろう。。


「――私、上手く頭が回らないわ。少し混乱していて」


 複雑な形に眉を顰め、視線を彷徨わせる。


「お酒に弱いんだね」


 彼女の持つグラスを眺めおろして男が言う。曖昧に微笑んでやり過ごそうとしていると、何を思ったのか、男はイヴのグラスを取り上げ、通りかかった給仕に渡して下げさせてしまった。


 ……酔っているわけではないのだけれど。困惑して額を押さえれば、男はさらに勘違いを加速させたようだ。


「――少し休もうか」


 肩に手を触れられた時点ではっと気づく。――あらこれって、もしかしなくても、こちらが誘っているように思われたかしら? 迂闊だった。自分が愛人顔、あらため、売れっ子ホステス顔であることをすっかり失念していた。


 さて、どう逃れたものかと思案していると。


「お嬢様」


 落ち着いた声が割って入った。見れば、アルベールがすぐそこまで戻って来ている。


 ――伯母さまの御用はもう済んだのかしら? 彼の様子を窺うと、アルベールは手のひらを上に向けて、スマートに微笑みながら誘ってくれる。


「踊っていただけますか?」


「ええ、もちろん」


 しっとりとした夜の香りがする笑みを浮かべて了承すると、傍らに立っていた男性が、イヴの身体からそっと腕を放した。彼に簡単な挨拶をしてから、アルベールの手を取る。


 踊り始めはあまり気分が乗らなかった。笑顔でアルベールの手を取ったのは、口説こうとしててきたあの男性を躱す目的でそうしただけだった。


「……今夜あなたは、誰とも踊らないと言っていなかった?」


 長身のアルベールを見上げながら尋ねれば、謎めいた青灰の瞳がイヴを絡め取る。


「あなたが困っているように見えたので」


「そう。私の気持ちが分かるっていうの?」


 それは、それは、初耳ですわ。イヴの心が波立つ。この感情は、たぶん苛立ち。


「だけどおあいにくさま。私、さっきの彼のこと、嫌いではなかったわ」


「それは嘘です」


 確信を持って断言されると、やはり癪に障る。――何よそれ。イヴは彼を睨む。


「どうして?」


「彼と並んでいる時のあなたの目は、退屈しきっていた」


 ――次第にダンスにのめり込んでいく。イヴも踊るのは得意なほうだが、彼にはどうしても敵わない。アルベールは剣術も相当な腕前なので、体捌きや気配の読み方が、常人離れしているのかもしれない。


 彼の腕に包み込まれて、空を飛んでいるような感じがした。


「久しぶりだわ、あなたと踊るのは」


 不思議な感覚だった。周囲の雑音が気にならなくなる。集中しているし、高揚している。ピタリとすべてが合う。


 アルベールのリードは最高だった。その証拠に、時間がたつのがあっという間だ。曲は締めくくりに入っている。


 ――もう終わってしまうのねと、名残惜しいほど。


「ミスなく踊れて、実はほっとしています」


 彼の台詞に驚き、イヴは目を見張って青灰の瞳を覗き込んでしまった。――だってこんなにありえない謙遜って、聞いたことがないわ!


「あら、あなたでも冗談を言うのね!」


 可笑しさが込み上げてきて、小首を傾げて笑えば、彼も淡い笑みを浮かべる。


「冗談ではありませんよ。少し調子が狂いました」


「まさか! あなたが?」


 イヴはまだ信じられずに、眉根を寄せて尋ねる。


 彼女の葡萄酒色のドレスが、妖艶に、美しく翻った。アルベールは無自覚なお嬢様を見つめ、青灰色の瞳を夢見るように細めた。


「――お嬢様があまりにお綺麗なので、緊張してしまいました」


 落ち着いた綺麗な声で彼がそう告げた時、ちょうど曲が終わった。イヴは上がった息を整えながら、


「私、お化粧を直してくるわ」


 そう言い置き、彼から離れて広間を出た。通路を歩いていると、すれ違ったご令嬢に声をかけられる。


「あら、ヴァネル様。顔が赤いようですが、お体は大丈夫ですか?」


「少し酔ったみたいです」


 酒に強いはずのイヴが、ほとんど上の空で答える。令嬢とすれ違ったあと、さらに足を速めながら、イヴは自身の頬を両手で挟み込んでいた。伏せた睫毛が震える。顔が燃えるように熱い。


 ――この熱はなかなか冷めそうになかった。


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