第5章 第2部 心の灯~ともしび~


個室の病室に1人残されたカリーナ。

ゆっくり足を持ち上げ、ベッドに横になる。

「"もう少しで会えるねぇ、私たちはあなたに会えるの楽しみにしてるからね~"」

陣痛の波が収まったお腹を擦りながら、お腹の中の赤ちゃんに話し掛ける。

私とダーリンだけじゃないの。

アリシアちゃんも、ウィルソンも、マリーさんやシエルたちも、あなたに会えることを楽しみに待っているよ。

「幸せ者だね~。いっぱい遊んでもらおうね~」

 "Love was when I loved you,

        one true time I hold to"

この子にも、歌うことを好きになって欲しいなぁ。

ソプラノちゃん…とか?ハミングちゃん…とか?

「どうしようね~」

お腹の擦りながら子守唄のように口ずさむ。

「"In my life we'll alwa―ぁ…」

下に降りようとする胎動とキューっと子宮が搾られているような痛みが下腹部全体に広がる。

「ぅう…さっきより…」

さっき来た陣痛より痛みが増している…。

…ダーリン…早く帰ってきて…。

「ぅ…ふ…ぅ…」

息が吸えない…。深呼吸…しなきゃ…。

頭の上にあるナースコールのリモコンに手を伸ばす。

ヒュルルルルル―と壁のスピーカーから呼び出し音が鳴る。

「"はい、今行きますね~"」

「お願い…します…」

重くのしかかる腹部の痛み、頭が真っ白になり視界がかすむ…。


―"絶対!約束だからね!離さないでよ"―

―"わかったよ。約束だね"―


不意に頭を過る彼と交わした言葉…、

彼との思い出…。


……ウィルソン…。


_____________


目的地変更し、サリスキンという街を目指すことにしたキースとウィルソン。

街灯煌めく夜の街を離れて山道に差し掛かる。


「じゃぁなに?ルシアっていうカリーナの子供の幽霊がウィルソンに会いに来たってことか?」

「分からないけど…、目の前から一瞬にして消えてしまったから…、実体が無いってことかも」

ルシアという少女の事をキースに打ち明けているウィルソン。

「シエルたちも俺みたいに、ルシアのことを忘れているかもしれない訳だな…」

「シエル、リオン、アイラさんは特にルシアさんを可愛がっていたから…。今、他の皆はどういう状態なんだろう…。僕にだけ記憶が残っているなんて…」

ルシアさんの言っていることを信じるなら、母親であるカリーナの死を目の当たりにしたルシアさんが、母親の死を避けるために、過去に戻って僕に会いに来た。

そしてこれからの未来では、ルシアさんとアリシアも仲良くなっていて、僕とアリシアの結婚の話も進んでいる、ということ。

「お前にも"動物の言葉が分かる"っていう超能力みたいなもんがあるだろ?幽霊が見えても不思議じゃねぇよ」

「それと幽霊が見えるの一緒にして良いのかな…」

動物たちが息を引き取る時にも最後の遺言のように言葉が聞こえてくるけれど…。

「そのおかげでカリーナは今でも元気で顔を見せに来てくれるんだぞ?ウィルソンの能力のおかげだろ」

「そういえばカリーナに初めて会ったのも森の中だった…よね?」

「まぁ、行けば分かるさ」


______________


「カリーナ!」

「分娩室に移動しましょうね~」

廊下で鉢合わせしたグラジスと看護師が病室に駆けつけた。

「さっきより…痛くて…」

「大丈夫か…ゆっくり横になるんだ」

背中に腕を回し、カリーナの身体を支えて寝かせる。

「ベッドのままで、このまま移動しましょう」

「はい、お願いします」

看護師は慣れた手つきでベッドを固定していた治具を外し、カリーナの横たわるベッドを廊下へ移動させる。

カリーナの額には汗が流れ、弱々しい呼吸になっている。

「もう少しですよ~、頑張りましょうお母さん」

「…はい」

「カリーナ、しっかり!」


―"大丈夫?安心して、僕がそばにいるから"―


ウィル…ソン…


•••••••••••••••••―



「よーし!皆乗ったか~」

「「おー!」」

「よし!リズワルド楽団、出発だぁ!」

「「おー!」」

ゴードン団長の掛け声に答え元気に返事をする。

ゴードン団長が操縦する馬車に乗り、サンクパレスの宿舎を出る。

ウィルソンがリズワルド楽団に入団してから2年が経つ夏の終わり。

今回の遠征メンバーは、ゴードン団長、キース、リーガル、リオン、ウィルソン、クロヒョウレオン。

「最初に行く街が"ビースノック"…だったっけ?」

「"ビースノック"は2番目だろ?最初に行くのはサリ…なんだっけ?」

「覚えてないのー?」

「団長さんに後で聞いてみよう?」

客車の中では、リーガルとキースが最初に行く目的地について話している。

リオンもウィルソンも先輩2人の気の緩さには、安心感と信頼感が芽生え初めている。

「また"おめぇらしっかりしろ!"って怒られちまうだろ…」

「"先輩として格好つかねぇだろ!"ってな…」

「「はぁ…」」

出発して早々、2人して深いため息をつく。

「大丈夫ですよ…、団長さんは怖くありませんよ?」

ウィルソンが先輩2人を慰める。

「お前すげぇな…。あの団長の稽古を受けて怖くないだなんて…」

ウィルソンは団長のお気に入りだ。

団長が俺たちに稽古を付けていた時と、言葉使いもスパルタ加減も一緒なのに、8歳のウィルソンが団長の稽古に付いて行けている。

「俺っちがお前と同じ8歳なら、泣き喚いてるぞ?」

「"俺っち"が?」

「俺っちが」

リーガルの俺っち呼びが気になるリオン。

「わたしはバイオリンの演奏だから、綱渡りとかしないけど、難しいの?」

ウィルソンと遠征で一緒になるのは今回が初めてのリオン。

「ん~、慣れたら簡単…かもです」

2歳年上のお姉さんであるリオンは、楽器の演奏をしたことがないウィルソンにとっては尊敬出来る後輩だ。


1年前の冬に、遠征で訪れた小さな村で、団長が衰弱していたリオンを助け出して、入団させることが決まった。

サーカス団の皆ともすぐに打ち解けて、シエルを本当の姉のように慕うようになった。

シエル、マイル、リオンの3人で稽古部屋の客席から僕の稽古する姿をよく眺めている。

「レオン兄貴さんも優しいよ?」

「そういやウィルソンはレオンのことを兄貴って呼ぶな。誰かに呼べって言われたのか?」

とキースがウィルソンに聞く。

「オオカミさんたちの兄貴だから、レオン兄貴なんだって」

「オオカミさん?」

「そういや入団決まった時言ってたな。白いオオカミに連れてきて貰ったって…」

リーガルは2年前の宿舎前でウィルソンに会った時のことを思い出していた。

「ぼくレオン兄貴さんとお話出来るから。優しいオオカミさんだったよ?」

「またまた…、ほんとかよ…」

動物の言葉が分かるだなんて信じられない。

「すごいねウィルソン!」

「今もレオンと会話出来るのか?」

リーガルが聞く。

「出来るよ」

ウィルソンは客車の壁をコンコンとノックする。

後方の道具庫兼飼育小屋に居るレオンに合図を送る。

(面倒くさい…寝かせてくれ)

頭の中に聞こえてくるレオン兄貴さんの声。

どうやら客車内の会話の内容が聞こえていたようだ。

「面倒くさいって。レオン兄貴さん…」

頭の中に聞こえてきた言葉を他の皆にも伝えてみた。

「なんだよそれ…」

「見た目通りな性格してんのか?レオン」

「優しいの?」

「眠いんだって。優しいよ?」


「おいおめぇら、しっかり掴まってろよ~」

団長が操縦席から声をかける。

「「はーい」」、「「ういーす」」

すると客車の車輪が横にスリップしているような蛇行をする。

連日続いた豪雨の影響か地面がぬかるんでいるようだ。

団長は先頭の馬の手綱を引き、速さを緩めるよう指示をする。

「揺れてるね」

「揺れてるな」

「大丈夫だ。団長の操縦だから」

水位の増した渓谷沿いを走る馬車は、山道を抜け草原に差し掛かる。

土を踏み固めたような畦道を抜け、アスファルトで舗装された地面に変わる。

「いいぞ、おつかれさん」

団長は優しい声で馬を労う。

次の村まで1.2kmと木製の看板が建っている。

「おめぇら、もう少しで"モンズビレッジ"に着くぞ」

「はーい」「ういーす」

団長に聞こえるように外に向かい返事をする。

「モンズビレッジだって」

「全然違うね」

「全然違うな」

「いやお前も分かってなかっただろ!」

キースがリーガルにつっこむ。


「…ん?」

道具庫兼飼育小屋に居たレオンが何やら胸騒ぎを嗅ぎ付け、小窓の外を眺める。

「この臭い…、4匹か…」


____________



リズワルド楽団が最初の目的地として訪れたモンズビレッジ。

渓谷を下った麓の鉱山産業が盛んな小さな村。

七色に輝くオパール鉱石やローズクォーツの採石場として有名な村だ。

町の宿屋前に馬車を停めたサーカス団一行。

見慣れない乗り物が町にやってきたことにより、町の人々たちの視線を惹き付ける。

「はぁ~、着いた着いたぁ」

客車から降りたキースが背伸びをする。

「キラキラしてるね、この町で公演するの?」

「あぁそうだ」

リオンの問いに団長が答える。

採石の歴史資料館の建物は全面ガラス張りであり、建物入口の太陽と月のオブジェにも鉱石の装飾が施されている。

「鉱石で作られた装飾品の店が至る所に建っているんだろうな。良いもんあっかなぁ」

コレクター癖のある団長は目を光らせる。

「高そうっすよ?鉱石なんて…」

リーガルが団長の熱を覚ます。

「何も手に入れずにこの町を出るのはもったいねぇだろ?なぁウィルソン」

「え?…はい、良いもの見つかると良いですね」

飼育小屋からレオンと一緒に降りてきたウィルソンに団長が聞く。

(先に客の笑顔だろうが…)

レオンの呆れた声が頭の中に聞こえてきた。

「ふふ…」

思わず笑ってしまうウィルソン。

「俺ぁ宿屋の受け付け済ませてくるから、おめぇら、町の散策でもしてな」

「はい」「ういーす」


(…なに騒いでやがる…)

「?どうかしたの」

レオンが山の上に視線を向ける。


#歌うオオカミ少女


「ごめん…なさい…。パパ…、ママ…ひとりは…いやだよ…」


どれ程の時間、声も届かない薄暗い倉庫の中から両親の冷たい背中に語りかけていただろう。

かすれた声は虚しいほどに小さく、弱々しく…、ただ空気の抜ける音のようだった。


するとガチャリと重い扉が開いた。

久しぶりに見たオレンジ色の照明の明かりと逆光で表情の読めない黒い影。

「マ…マ…」

「…おいで」

優しさの微塵も感じない、冷めきった母親の声。

その声すらも、聞けたことが嬉しくて…。

「う…ん」

フラフラになりながら立ち上がり、ママに手を伸ばす。

ママの手はやっぱり握れなかったけど、裾は掴んで良いんだって。

地下階倉庫から出て6段の階段を上がりリビングを見渡した。

煤汚れてボロボロのタンクトップと灰色の短パンに身を包んだその身体は、肉感の無い骨と皮だけのように痩せこけている。


ダイニングテーブルにはパパの後ろ姿があった。

「散歩、行くぞ」

パパは私と顔を合わせず、外へ出て行った。

ママも無言のまま、パパの用意した車に乗る。

紫色に霞む薄明な空の色。

今が朝なのか夕方なのか、わからなかった。


私は後部座席にひとりで座る。

運転席にはパパ、助手席にはママ。

…おなか…すいたな…。

喉もカラカラで声が出ないけど、

ママに叩かれたくないから、出かけた言葉を我慢する。


車の動きが止まった。

「降りて…」

ママにそう言われ、私は車を降りた。

パパの運転する車が停まったのは薄暗い森の中だった。

ママは車から降りることもなく、助手席のドアガラスを半分だけ開けた。

「…ママ?」

かすれた声でママを呼ぶ。

その声はママには聞こえていたのか、ママは表情を変えず、精気を失った目で私を見る。


「さようなら、元気でね。…カリーナ」


ママがその言葉を発した直後、パパは車を急発進させた。

「!…わ」

ブゥーン!!と物凄く大きい音を立てて空ぶかして走り出した車にびっくりして、そのまま地面に尻もちをついた。

「ま…、―ぐふ」

マフラーから出た黒い煙を吸い込みむせる。

あっという間に車は目の前から姿を消した。

ひとり取り残された薄暗い森の中。

頭がくらくらしてぼーっとする…。

そのまま木にもたれ掛かった。


…私、"要らない子"になっちゃった…。


ママがよく言っていた。

"人気の無い子は要らない子"なんだって、

ママはその言葉をすごく嫌がった。

必要とされたいって…。

でも私は、ママの歌声…すごく好きだよ?

私の好きだけじゃ、足りないの?

…ママ…おなかすいたよ…。

気づいた頃には森の中は真っ暗になっていた。

今、夜だったんだ…。

白紫色の髪の小さな少女は、静かに眠りについた。


(なんだあれ?)

(人間の子供だ)

(まだあたたかいぞ、死骸じゃねぇ)

(持って帰るか?)


___________


ヒューと風が通り抜ける音がした。

「……ん…」

小さな少女は目を覚ました。

何時間眠っていたんだろう…。まだ真夜中なのか、地下倉庫と同じように薄暗い。

帰ってきたのかな…、ママ…迎えに来てくれたのかな…。

風だけが通り抜ける音がする。

横たわった頭の下にはコンクリートの地面じゃない、ふかふかした毛布のような感触があった。

…グルル…

と耳元で音が聞こえた。

まだ目の慣れない暗闇の中、少女は頭の上のふかふかに手を伸ばす。

…あったかい…。

温かくて安心できた、湿った土の匂いとお日さまの匂い。

丸まって縮こもる自分の足元に目を向けると、密集した植物の間から日の光が差し込んでいる。

その日の光を眺めていると、目が暗さに慣れてくる。

周囲の状況が徐々に鮮明になってくる。

「ん…んん…」

少女は腕を伸ばし背伸びをする。

頭の上のふかふかがビクッと動いた。

すると周りにいた他のふかふかも動き回る。

太ももや腕を擦れる複数の体毛。

黄色に反射する光が4つ、6つと揺らめいている。

「!…な―いっ」

知らない場所、人ではない何かに驚いて、頭を上げた瞬間天井に頭をぶつけた。

土がパラパラと落ちてくる。

目に土が入らないように目を瞑った。

頭をぶつけないように頭を低くしたまま、日の差し込む方へ這い出る。

ガサガサ、と出口の植物を掻き分け頭を上げた。

日の光が木々の隙間から溢れるように差し込む。

森の中だった。

目の前に流れが緩やかな小川が流れていた。

サラサラと水の流れる音。

食事はおろか水分すらも摂取していない少女の身体は無意識に川の水に吸い込まれるように、川へ飛び込んだ。

冷たくて気持ちがよかった。

少女は川の水を何度も何度も手で掬い、飲み干した。

「…はぁ…はぁ…」

私が今まで眠っていたのは、小さな洞穴の中だったみたい。

その洞穴から出てきたふかふかな生き物。

「おお…かみ?」

茶色い毛並みのオオカミが3頭、洞穴から出てきて川の水を飲んでいる。

小さな少女はオオカミの水を飲む姿の真似をして、水面に口を付け水を飲んでみせる。

「おいしいね」

かすれていた声は潤いを取り戻し、

元気な声が出た。

少女はオオカミたちに笑顔を見せた。

(人間の子だな)

(死骸じゃなくなった)

(人間の子供、最近よく見かけるな)

オオカミたちが水面から顔を上げ、3頭が近づき寄り添っている。

「ん?」

なにかお話しているのかな?

オオカミたちの言葉は私にはわからなかった。

でも、会話をしているんだろうと思った。


ガササ、と植物がざわめく音。

すると木々の間から白銀色の毛並みのオオカミが1頭、少女の前に姿を現した。

「きれいなオオカミさん…」

少女は大きな白銀オオカミの姿に呆気にとられ声を漏らす。


(お前も…あのガキみたいに笑いやがる)


白紫色の髪の小さな少女は、それからオオカミの群れの中で衣食住を共にする。

仲間たちからは"シロ"と呼ばれ馴染んでいった。

オオカミたちとは言葉は通じないが生活をしていくなかで心で通じ合えるようになった。

人里離れた山の中での生活。

土砂崩れで埋まった洞穴は何度も居場所を変え、川の魚やカエルを捕まえて食べた。

夜中に人里に降りては民家に干してある衣服を山に持ち帰ったものを身に纏い、雪が重く降り積もる凍える冬は、皆で身を寄せて暖をとった。


そんな少女は歌うことが大好きだった。

オオカミたちは少女の歌声に聞き酔いしれた。

もう顔も思い出せない母親の、歌声を思い出しながら…、少女は歌うことを辞めなかった。


―それから2年の月日が流れた。


森の中での生活で得た知識と体力は、一般的な8歳の女の子に比べれば身体能力、動体視力共に凄まじく、木登りの素早さ、素手で川魚を捕まえるなど、驚くほどの成長を見せた。

「ほら、あそこにいるよブチ」

茶色い毛並みの背中に黒い楕円の模様になったオオカミをそう呼ぶ少女。

崖の下に居た小鹿を捕らえようと木の影から様子を伺っている。

「グフ」(焦るなよ)

ブチが喉を鳴らす。

「ガルル」(わかってる)

少女は巻き舌を混じえた返事をする。

まだこちらの気配には気付いていない小鹿は、地面から突き出した筍に夢中にかぶりついている。

小鹿までの距離、15m。

物音を立てないようジリジリと近寄る。

「ガウ!」(いくよ!)

少女は一言吠え、崖下の小鹿に向かい走り出す。

頭上の木の枝に捕まり、振り子の要領で勢いを付け、脚をバネのようにして前方の木の側面を蹴り更に加速する。

「ガガウ!」(おい、待て!)

後方のブチが吠える。

が、一度と付いた勢いは簡単には止まらなかった。

少女と小鹿までの距離は5mまで近づいた時だった。

少女の居る反対側、前方10mの距離から小鹿に向かい近づく黒い影。

「あいつまた!」

少女はその影の正体を知っていた。

それは敵対している派閥の特攻オオカミだ。左目に傷を負い、片目しか見えないにも関わらず、両目が見えるオオカミと状況把握能力も俊敏さも変わらない。

背後に迫る2体の気配に気付き、小鹿が食事を辞め駆け出す。

「ガルフフ!」(あれは私のだ!)

「グフグルル!」(邪魔だ小娘!)

木を蹴り方向転換。小鹿を見失わないよう走り去った方向に目を凝らす。

「居た!」

前方10m先で小鹿が立ち止まっている。

…どうして止まっているの?

少女は違和感を覚えた。

小鹿の右後ろ足には人間の仕掛けたであろう鉄製の罠が食らいついている。

小鹿は罠から抜け出せず身動きが取れずに居たのだ。

「グガフ!」(無様だな!)

特攻オオカミは容赦なく、罠に捕まった小鹿に爪を立て仕留めに掛かる。

「ダメっ!」

咄嗟に出た人間の言葉は特攻オオカミには通じなかった。

少女の人間の心に"慈悲"という感情が生まれ、少女の足はそれ以上進まなかった。

脳裏を過った、忘れていた記憶…。

「ぁ…ぁ…マ…」

目の前の小鹿が、薄暗い地下倉庫で怯えていた自分の姿と重なり、胸が苦しくなる。


「ガガフ!」(シロ逃げろ!)


後方でブチが吠えた。

気付いた時にはもうすでに目の前の小鹿に特攻オオカミの他にもう一頭、同じ毛色のオオカミが加わり襲いかかっていた。

その声に反応しシロは正気を取り戻すが、小鹿が罠に掛かったその場所は、敵対する派閥の縄張りに入り込んでいた。

シロの頭上でギラリとチラつく複数の眼光。

他の派閥の縄張りに侵入すること、狩りをするはご法度なのである。

決まりを破った者に容赦は無い。

それは姿、形の違う人間であろうが関係無い。

同じ獣の臭いの染み付いた生き物なのだから。

頭上の木の上からシロの首を狙い飛び掛かる2頭のオオカミ。

「ガウ!」(シロ!)

ブチが吠える。

ダメだ!間に合わない!


その刹那、木の影から物凄い速さで姿を現す白銀の大きな影。

シロの腹部に重くのしかかる衝撃。

「うっ!」

シロは数mふっ飛ばされ大樹に叩き付けられた。

目が眩んでぼやける視界、見慣れた白銀。

寸前のところで頭上のオオカミの攻撃の直撃を免れたが、場所が入れ替わったことにより2頭のオオカミの双撃は白銀オオカミの背中にX字の引っ掻き傷を付けた。

「フッ」

その攻撃に怯むこともなく、2頭のオオカミに後ろ脚の蹴りを浴びせる白銀オオカミ。

2頭のオオカミは木に叩き付けられ地面に崩れ落ちる。

早く!この場を離れなくては―。

「グフ!」(しっかりしろ!)

意識のはっきりしないシロに白銀オオカミが吠える。

「はっ!」

慣れ親しんだ声に気が付きシロは白銀オオカミの首にしがみつく。

白銀オオカミの後にブチがついて走る。


グルルと白銀オオカミの喉が鳴る。

ふかふかの毛並みと太陽の匂い、

シロにとって白銀オオカミは母親のような存在となっていった。

「ガルル…」(ごめん…)

シロは白銀オオカミに謝った。


#すれ違う恩恵


レオンがグルル、と喉を鳴らす。

(まぁ、邪魔にはならんからな)

レオンは先ほどから何かを気にしている。

「うん?」

ウィルソンにはレオンの独り言が聞こえいる。

はモンズビレッジに到着した時から遠くの山で起きている異変を気にしていた。


モンズビレッジに到着し、宿屋に荷物を下ろしたサーカス団一行は、この町で3日間滞在することが決定した。

午後の客寄せの時間。

「ウィルソン、リオン。水筒持ったな?」

「はい、持ちました!」

「じゃぁなお前ら、2時間したら戻って来いよ」

「「はーい!」」

キースとリーガルとゴードン団長、ウィルソンとリオンそしてクロヒョウレオンの

二手に分かれて客寄せを始める。


「ウィルソンとリオンだけで大丈夫っすか?」

リーガルが2人を心配しているようだ。

「なぁに、あいつらなら大丈夫だ。レオンも居るからな」

団長は不安げな表情は一切見せず笑った。

「俺らは、採掘場に向かうぞ」

「「はい!」」



宿屋を離れ歴史博物館の入り口前に移動するウィルソンとリオン。

3歩下がった後ろをレオンがついて歩く。

リオンは団長から預けられた新品のバイオリンを革のケースに入れ誇らしげに振って歩く。

紺色のブレザーと首元の赤リボン。

オーバーチェック柄のミニスカートと左右で長さの違う橙色と緑色の靴下と焦げ茶のバレーシューズを履いている。

ウィルソンは七分袖のワイシャツに茶色のサスペンダー、足元の裾が大きく開いた緑と白のベンガルストライプ柄のサーカスパンツを履いている。

白い顔と赤い鼻もバッチリ。


「…何か入ってるの?」

ウィルソンの着けている赤い鼻に興味津々のリオンが聞く。

「えっとね、丸まって国旗が入ってるよ?」

純粋に答えるウィルソン。

お客さんには内緒の種明かしをしてしまう。

「あっ、お客さんには内緒だよ?」

「わかってるよ~」

リオンはニコっと笑って僕の赤鼻を指でつついた。


このサーカス団で活躍している人たちは、僕のように親元を離れ入団した者、親に見捨てられ彷徨っていた者たちが集まり一つの団体を作って行動しているんだそうだ。

シエルさんやマイルさんも、そしてここにいるリオンさんも同じ境遇から団長に助けられ、希望を与えて貰って出会うことが出来た人たちなんだ。

このサーカス団に入団している人たちはみんな笑顔を絶さず支え合っている。

お客さんにサーカスのショーという形で、

"幸せのお裾分け"をするお仕事なんだと飯炊きのアイラさんから教わった。


「レオン兄貴さんは子供たちに人気だね」

リオンもウィルソンの真似をしてレオンを"兄貴"と呼んでみる。

レオンの漆黒の毛並みに魅せられ4、5歳ぐらいの子供たちが列を作り後をついてくる。

「黒くてカッコいい!」

「トラ?チーター?」

「これからどこに行くの?」

子供たちも興味津々である。

「クロヒョウのレオンって言うんだよ!」

「歴史博物館前まで行くよ、付いてきてね!」

と言っても自分たちもまだまだ8歳9歳の"お子ちゃま"なのである。

ちょっと年上のお兄さんお姉さんによるサーカスの客寄せは、同じ子供目線でどうサーカスを楽しませるかを考えることが重要である。


町の子供たちを引き連れ歴史博物館の太陽と月のオブジェの前に到着した。

御影石のタイルの上でリオンがタップを踏む。

タン、タ、タ、タン。

履いているバレーシューズと地面の相性を探る。

「おっけ~」

リオンはバイオリンケースからバイオリンを取り出す。

ウィルソンはカバンからお手玉を4つ取りました。

一つはにぃちゃんから貰った黄と白の継ぎ接ぎお手玉、残り3つは土で汚れた橙色のお手玉を使ってジャグリングの準備をする。

(ふっ!私もいつでも良いぞ)

レオンもその場で地面を蹴り見事な宙返りで意気込みを伝える。

「おぉ~」「カッコいい!」

子供たちの声援があがる。

ウィルソンはレオンとアイコンタクトで意思の疎通を図る。

リオンは子供の方に向きを変えバイオリンを左肩に乗せ弓を構える。

「こっちも準備おっけ~だよウィルソン!」

リオンと目線を合わせコクリと頷く。

「それでは皆さん、ぼくたちはリズワルド楽団という移動式のサーカス団です。ぼくはピエロのウィル。で、こっちの女の子がリオンです」

「「どうぞよろしく~」」

声を合わせ自己紹介をする。

リオンは一呼吸置き、タン、タン、タンと爪先でタップを踏みリズムを取る。

リオンが演奏し始めたのは、ベートーベン作、"ロマンス第2番"だ。

くるっと軽やかなターンを加えながら流れるような緩やかな旋律のバイオリン演奏で観客を包み込んでいく。

バイオリン演奏をするリオンを中心に、ウィルソンとレオンは3mの等間隔で距離を取る。

ウィルソンは6m先にいるレオンに向かってお手玉を2つ投げた。

残りの2つを真上にポン、ポーンと時間差を付け真上に投げる。

リオンの頭上を飛び越え、レオンに向かって飛んできたお手玉をヘディングで打ち返し、もう1つのお手玉をしっぽで打ち返し時間差を付け、4つのお手玉が飛び交うジャグリングになった。

レオンに釘付けの子供たちは大喜びだ。


___________


一方、モンズビレッジの採掘場付近で客寄せを行っている団長、キース、リーガルは。

黒のタキシードとシルクハットを被ったリーガルが観客に向け演説をする。

「皆さまこんにちは、私どもはリズワルド楽団というサーカス団をしています。各地を旅しながらお客様に笑顔を届けるため、本日はここ、モンズビレッジにやって参りました!」

とリーガルは演説をしながら頭に被ったシルクハットを右手で取り、左手に持ったステッキでシルクハットのツバの端をポンポンと叩くと、白い鳩が1羽、翼を広げ飛び立った。


身なりの怪しい3人が採掘場付近に入ってきた時からすでに注目を浴びていたこともあり、演説を始めるとすぐ人々が集まって来ていた。

採掘仕事を中断し、手を止め演説を聞き入る者、採掘場入り口で呼び掛けをするキースの案内を聞き、採掘場に足を運ぶ者たちでリーガルの周りには人々が集まり始める。

群衆の大半が大人な中、まだ歩きもおぼつかない様子の幼児が1人、大人たちの足元で石を拾って遊んでいる。

(ん?…あの子の親は…?)

リーガルは周りを見渡すが、その幼児を心配する者、髪色が似ている者の姿は見当たらない。


関係者以外立入禁止の標識とバリケードの奥の洞窟には、

採掘作業真っ最中の作業者がツルハシやスコップで地層になった壁や岩壁を掘り起こしている。

太陽光が真上から降り注ぐ炎天下。

採掘場には日陰になるような場所がなく、数分もこの場に居れば汗が吹き出るような暑さだった。

風の通りも無い洞窟内はもはやサウナ状態だ。

「暑い中お疲れさん!水も用意してっから、休憩がてら公演見て行ってな」

ゴードンは採掘中の作業員に労いの言葉を掛けながら、客寄せの案内をする。

「ん?なんだ?」

「サーカス団だってよ」

「おお!ありがとな!」

ゴードンの声がけに気が付いた作業者たちが反応を示す。

(……なんであいつだけ…)

洞窟の入り口付近でスコップを持ち作業をしている者がいた。

その作業員は奥で作業をする男たちとは身なりが異なっていた。

男性作業員の服装はヘルメットを被り首にタオルを巻き、タンクトップと長ズボン姿だ。

「………ぅ……ぅぅ…」

しかし入り口付近に居た1人の服装は、フードの付いた黒色長袖の雨ガッパ、フードを目深に被って黒色の長ズボン姿だった。

その作業員は苦しそうな声を漏らし地面に崩れるように座り込んだ。

「……ぅ…」

「おい!大丈夫か!ったく言わんこっちゃねぇ…」

ゴードンは咄嗟に立入禁止のロープをくぐり助けに入った。

ゴードンは作業員の背後にしゃがみ込んで右腕にもたれ掛からせるように支えた。

作業員は息も荒く身体を起こす気力も無い、右腕に伝わった体温は正常な物では無いほど発熱していた。

「しっかりしろ」

「…ごめん…なさい…、立ちくらみがして…」

「女か…」

男性だと思い助けに入ったが、声は女性のように高く、

身体も細々として軽かった。

「…わたしの…子供は……どこに…」

フードから覗かせた長い赤い髪、目は痙攣している様で意識がはっきりしていない中、弱々しく言葉を発した女性。

「子供?」

洞窟の中を見渡すが、この作業場の中に子供なんて居るわけもなく。

「おい!勝手に入って来るな!立入禁止って書いてあんだろうが!」

「ったくまたお前か…、これだから女は…」

洞窟の奥で作業をする男性1人がゴードンに怒鳴る、もう1人はこの女性に文句を言っているようだった。

「お前ら仲間が倒れてるなら助けてやれや!」

文句だけを言い作業を続行して女性に駆け寄ろうともしない作業者に怒りがこみ上げる。

「…ごめんなさい…大丈夫…ですから…」

女性は力なく立ち上がろうとする。

「バカ無理だ、こんな高熱じゃ…」

このまま作業を続けさせたら確実に死んじまうぞ。

「また休むのか、情けねえ」

「そんな体力じゃ金なんか稼げねぇぞ~」

男性作業員が女性を嘲笑う。

「こいつが死んでもそれ言えんのか!同じ仕事をする仲間だろうが!」

我慢の限界がきて、俺は奥に居る男どもに怒鳴った。

「外に出るぞ!ここに居たらあんたの命が危ねぇ」

俺は女性をお姫様抱っこのように持ち上げ洞窟を出た。

軽い…、身体も細くひょろひょろじゃねぇか…。

ろくな飯も食わず仕事してたんじゃねぇのか…。

日陰も無い炎天下の砂の地面に女性を寝かせ、俺の影で直射日光を遮るように身体を支える。

肩に下げていた竹筒の水筒の栓を抜く。

「冷たくはねぇが、飲まねぇよりは良いだろ。ゆっくりな」

薄暗い洞窟から出て日に当たっているおかげで女の素顔がはっきり確認出来た。

赤色の長髪と褐色の肌、緑色の瞳をしている。

「…ありがとう…ございます…」

女性は促されるまま、水筒の水を静かに喉に流し込む。

演説を行っているリーガルの方に目を向けると、群衆の前列にしゃがんでいる赤い髪の子供が居た。

その子供に変わった様子はなく、元気に遊んでいるようだ。

「あんた子供が居るんだろ。金を稼がなきゃいけねぇのは分かるが、あんたの命も大事にしろよな。あんな小いせぇ子供じゃ1人じゃ生きて行けねぇからな」

「…はぃ…」

しかし…、この暑さ…、客寄せどころじゃねぇな…。

「リーガル!客寄せは一旦中止だ。キースと一緒に観客に水配れ!」

「ぁ、はーい!」

俺の声が届いたのか、リーガルは返事をしてパフォーマンスをする手を止めた。

「あそこに居る赤い髪のガキだろ?連れてくるからな」

「はい…ありがとう…ございます」

俺は女性を地面に寝かせ、リーガルとキースの足元にしゃがんでいる子供を抱き抱える。

「よーし、こっちにおいで」

脇の下に手を差し込み持ち上げる。

「ぅお~ぅ」

驚いたのか、楽しかったのかは分からんが、子供が声を上げた。

「団長その子供は?」

「さっきから1人でしたよ?」

「あぁ、母親に返してくる。これから飲み水配るから、

あんたらも倒れないよう、水分補給しっかりな」

団長は群衆に向け注意喚起を促した。

そのまま団長は採掘場入り口に子供を抱き、歩いて行った。

「皆さま、今から飲み水を配りますので取りに来てください」

「暑いですから倒れないように」

リーガル、キースは客車から持ち出したウォータージャグから紙コップに冷水を注ぎ、観客に配っていく。


子供を抱いたゴードンは採掘場入り口で横になっている女性に駆け寄る。

「あ!まぁま、マ~マ」

子供は母親の顔を見ると声を上げ、抱っこをせがむように両手を伸ばしている。

「ほら、あんたの子供だ」

「…ぁ、ありがとうございます。よかった…スージー」

女性はゆっくり身体を起こし子供を抱き寄せ名前を呼んだ。

「まま…おやすみ?」

「ううん…、大丈夫だよぉ」

女性は子供の頭を撫でて優しい口調で話し掛ける。

水を飲ませて横になったおかげで少しは落ち着いたようだ。


「あんたも子供が大事なら、自分の身体も大事にしろよな。

あんたには、あんたに適した仕事があるだろ?

見たところべっぴんさんだ…」

雨ガッパのフードを脱いだ女性の顔は、こんな採掘場で土にまみれて仕事しているのは勿体ないぐらいの美人な顔立ちをしている。

「そぅ…ですね…」

「酒場で客の相手してりゃぁ人気になるだろうけどな。まぁこれは俺の感想だけどな」

「ありがとうございます。申し遅れました、私はイザベラといいます。

あなたのお名前は?」

「なぁに、気にするな。ただの通りすがりのサーカス団だ。じゃぁな」

ゴードンは名前を告げずにその場を離れ、客寄せ中のリーガルとキースの元に向かった。

「まぁま、だっこ!」

娘に抱っこをせがまれ、右腕に娘を抱き抱えゆっくり立ち上がる。

…この子を守れるのは私だけだもんね…。

「"あんたに適した仕事"か…」

イザベラは昔の楽しかった日々を思い出しながら、ゴードンの背中に深々とお辞儀をした。


#温かさに触れて


敵対するオオカミたちの攻撃から逃れ、住みかである洞穴前まで帰ってきたシロと白銀オオカミとブチ。

騒ぎを嗅ぎ付け仲間の茶毛オオカミ"ダク"が洞穴から出てくる。

「大丈夫ですか?!背中のキズは…」

「心配ねぇさこのぐらい」

ブチが白銀オオカミの背のキズを心配する。

傷口はザクロのように裂け血が滴っている。

「グルル…グルル…」(ごめん…ごめん…)

シロも敵対する派閥の領域に立ち入ったこと、

"お父さん"に怪我をさせてしまったことを涙をボロボロ流して謝った。

「グガ!ガガウ…」(ブチ!お前がついていながら…)

「ガルゥ…」(すまん…)

ダクがブチを責める。

「ググゥ」(もういい…、やめろ)

白銀オオカミはダクをなだめる。

「…グフ」(…おぅ)

ダクは小さく喉を鳴らし怒りを鎮めた。

…だけどよ…こんな深いキズ…、治るわけがない…。

蛆が湧いて腐っていくのを待つだけだ…、

いままで死んでいった仲間たちのように、

いずれ亡骸になる…。

「グルル…、ガガ…」(肉を食えば…、傷も塞がるんじゃ…)

「グガフフ!」(じゃぁお前が捕ってこいよ!)

ダクがブチに吠える。

「やめてよ!私が悪いんだから!」

ブチを守るため、ダクとブチの仲裁に入ったシロ。

「……ッ」

人間の言葉全てを理解出来るわけではないが、

シロのボロボロ涙を流して泣きじゃくった顔を見て、ダクは吠えるのを止めた。

…くそ…、お前の泣き顔を見ちまうと、噛み付くことを躊躇ってしまう…、ただの人間のガキなのに…。

「グフ…」(シロ…)

シロの後ろでブチが喉を鳴らす。

お父さんの傷、治さないと…、早くしないと

お父さんが死んじゃう…。

山を降りて、人に助けて貰えば…、

傷も治せるかもしれない。

病院っていう所に行けば治してもらえるかな…。

「…ごめんね」

シロはそう静かにつぶやいて、走ってその場を離れた。

オオカミたちと生活をしていて、人間がどの様に怪我を治すのか詳しくは知らない8歳の少女は、

微かな希望を頼りに人里に降りようと考えた。

少女の記憶にあるのは白い部屋と苦い粉薬、

女の人に力強く押さえつけられて、腕に針を刺されたこと、それだけだった。


白銀オオカミは何も言わず、洞穴脇のの斜面を素早く登り、突き出した岩壁の上から森を抜けていくシロの後ろ姿を眺めていた。


_________


山を降りて森を抜ける。

日の登っている時間に人里に降りることは今までなかった。

人に見つかると怒られるから、人の寝静まった夜中に徘徊していた。

住みかである洞穴も転々と居場所を変えていたこともあり、人が住む町の姿も毎度違う雰囲気がある。

読み書きをまともに学んで来なかった少女は、看板や建物に書かれた文字が理解できなかった。

母親の口から聞かされた言葉と歌声。

痛みと空腹に耐えて震えていた日々の記憶だけだった。

…早く、お父さんを助けてくれる人を探さないと…。

林を抜け、砂利の斜面を降りる。

1m幅の小さな川をひょいっと飛び越え、再び砂利の斜面を登る。

木製の柵柱に掴まり町の様子を見渡す。

人の会話と笑い声、陽気な音楽が流れていた。

町の住人に見つからないように物陰に隠れながら移動する。

怪我を治してくれる白い服の人を探さないと…。

光の反射でキラキラ輝く大きな岩が町の至る所に置いてある。

キラキラと輝く川のせせらぎ、蛍の妖光、

仲間たちの光る眼光。

シロは光る物を見る事が好きだった。

「…きれい…」

シロは虹色に光彩するガラス張りの建物に目を奪われた。

建物の入口には人が集まっていた。

キーキーと聞き慣れない音とパチパチと手を叩くが聞こえてきた。

「…この音…いやだ」

キーキーという音を聞いて首が痒くなった。

聞きたくなくて耳を塞いでしゃがみ込んだ。


(…ウィルソン気をつけろ。獣の臭いが近づいているぞ)

「けものの…におい?」

レオンが臭いに気が付きウィルソンに忠告する。

パフォーマンスの最中で手を止めることの出来ないウィルソンは目線だけ動かし周囲を見渡す。

パフォーマンスを観ているお客さんの中には動物のような動く姿は確認出来ない。

(どうかしたの~)

リオンが僕とレオンの動きが鈍くなったことに気が付き小声で話し掛けてきた。

お手玉3つを持ってジャグリングをする手は止めず、バイオリンの演奏をするリオンの背後にターンをしながら近づく。

(気をつけてリオン、もしかしたら噛み付かれるかも)

リオンに小声で耳打ちをする。

「えぇ!痛いのヤだ~!」

動揺したリオンは演奏の途中でキュィと引っ掻くように弦を弾いた。

「ひゃぃ!」

それと同時に博物館の建物の陰で飛び上がった声が聞こえた。

声が聞こえた建物の方を振り向くと白い髪の子供がうずくまっていた。

「女の子?」

「…みたいだね」

ウィルソンはうずくまっている少女が気になった。

「みなさま少々お待ちください!」

一旦ジャグリングをする手を止め、観客に声をかけ耳を塞いでうずくまる少女に駆け寄る。

―血が混じった獣の臭いはあの人間の子供から臭ってくる、あいつはいったいなんなんだ…。

(待てウィルソン!そいつから臭ってくるぞ!)

「ねぇ、どうしたの?大丈夫?」

僕がうずくまる少女に声をかけると同時に耳に届いたレオン兄貴さんの声。

「…ぇ」

レオン兄貴さんの方を見る。

シロは耳を塞いでいた手を離し、恐る恐る顔を上げた。

目の前には探していた白い服の人が立っていた。

…早くお父さんの所に戻らないと!

「…お父さんを!…たすけて!」

少女は不意に僕の腕をぐいっと引き寄せた。

「うわっ!」

(ウィルソン!)

レオンが駆け出しウィルソンの助けに入る。

シロは涙をボロボロ流し、目の前の人物にすがった。

「…おねがい…」

「…お父さん?君の名前は?」

「ウィルソ~ン、だいじょ~ぶ~」

リオンが僕を気遣う。

レオン兄貴さんが僕の元に駆け寄ってきた。

(ウィルソンその娘―)

「はっ!グルル!」

目の前に現れたレオンを見て、シロは数歩距離を取り、喉を鳴らして威嚇した。

「ぁ…やり過ぎじゃないですかぁ?」

(す…すまん…)

僕と背格好も同じぐらいの紫色が混じった白い髪は腰の辺りまで長く、顔に前髪がかかりはっきり顔が分からなかった。

体型に似合わない黄土色のTシャツを着ていて、

腕や太ももは泥が乾いたように茶色く汚れている。

四つん這いになり地面に爪を立て威嚇する姿はまるで猫のようだった。

「大丈夫?…安心して、僕が傍に居るから」

ウィルソンは少女をこれ以上怖がらせないように優しく声をかけた。

「……ん…」

きょとんとした表情で首を傾げた少女。

「レオン兄貴さん、この子がお父さんを助けて欲しいんだって。団長さんたちに知らせないと」

(あぁ、そうだな。おやっさんらと合流しねぇとな)

「うん、一緒に行こう」

ウィルソンは少女に手を差し伸べた。

「うん!早くしないとお父さんが…」

シロはウィルソンの手を取った。

お客さんの前で演奏を続けるリオンの元に戻る。

―しかし…、この娘からは獣の臭いしかしねぇ、   

   こいつの”お父さん”ってのはいったい…―

獣の血の臭い、動物のような威嚇の仕方、この町に到着した時からしていた胸騒ぎに、レオンの疑いは晴れないままだった。

「僕の名前はウィルソン。君の名前は?」

「か…カリーナ…」

オレンジ色の髪、白い顔と赤い鼻、にっこりと笑った背格好も一緒の男の子。

初めて会ったはずなのに、初めて聞く声なのに、安心できた。

言葉の通じないオオカミたちとは違い、人の優しさに触れたのは初めてだった。

この人と一緒に居たいと思った。

繋いでくれた手の温もりは、優しくて太陽のようだった。


ウィルソン…―。


___________


カリーナという少女がお父さんの所に急がないととせがむので、2時間後に宿屋に集合と団長たちから指示もあり、客寄せを終了し、宿屋前に戻ることにした。

「わたしはリオンだよ。よろしく~」

「り…おん」

「そう!わたしはバイオリン弾きなの!」

「このキーキーするの私きらい…」

僕の左腕にしがみついたままリオンと話すカリーナという女の子。

宿屋前の木製のベンチに3人で座り団長たちの帰りを待つ。

(俺もその音は正直好かん。もう慣れたがな)

「そうなの?」

「ん?なぁにウィルソン」

「レオン兄貴さんもバイオリンの音色苦手なんだって」

「なにぃ!じゃぁ好きになってもらえるように練習するね!」

ポジティブに大人からも動物からも好かれるように練習しなきゃね!

「れ…おん」

カリーナは初めて聞く言葉を覚えるためだろうか、聞いた言葉を復唱している。

「レオンはこっちの黒いの。かっこいいでしょ」

(黒いのって…)

「ウィルソンは動物とお話しできるんだって」

「”お父さん”とも…お話しできる?」

「え?君のお父さんって誰なの?」

腕にしがみついて密着して、ようやくこの子の血の乾いた臭いとレオン兄貴さんと同じ動物の臭いに気付くことが出来た。

「私のお父さんは―」


「おーぃ、お前たち大丈夫かぁ!」

するとキースさんの声が聞こえた。

団長さんたちが中心街の方から歩いてくる。

「ん?ウィルソンたちの真ん中に居る子供はなんだ?」

「また"みなし児"ですかね…」

ベンチに座る3人に向かい歩いていると見知らぬ少女も一緒だった。

ったく…、なんだって身寄りの無い子供がこんなに多いんだよ…。

双子姉弟もリオンもそうだが、薄汚れた子供の姿ほどむごい物は無い…。

「団長さん、この子"カリーナ"って言うんですけど、お父さんが怪我していて助けて欲しいみたいです」

とウィルソンはその少女のことを説明する。

「それで、その父ちゃんは今何処に居るんだ?」

髪もボサボサで前髪で目が隠れている少女の目線に合わせ、しゃがんで顔を覗き込む。

「……あそこの上…」

とカリーナは山の頂上を指差した。

「この子、動物の血の臭いがするんです…、もしかしたら…森の動物たちに…」

確かに、獣の臭いが染み付いているような臭いがこの

「怪我してるかも知れないってことだな。案内、出来るか?」

少女は横目でウィルソンの顔を見る。

ウィルソンは"うん"と微笑みかけ頷いた。

「…うん」

「リーガル、リオンと一緒に留守番頼む、宿屋で待機していてくれ」

「ぁ、はい!」

「わたしもお留守番?」

「あぁ、森の中は危険だからな。キースとウィルソンは俺と同行を頼む」

「はい」「わかりました団長さん」

この娘もウィルソンには心を開いているようだ、ウィルソンが傍に居れば話やすいだろう。

「レオンな」

グルル…とレオンも喉を鳴らした。

只事じゃねぇのは確かだ。血生臭いにおいもする。


ゴードン団長、ウィルソン、キースはカリーナの案内を元に山の頂上を目指すことにした。


#あなたがいてくれるから


個室の病室から分娩室に移動した。

ふぅ…ふぅ…とか細い呼吸になって、額から汗が流れている。

薄紫色のユニフォームに身を包んだ助産師3名がカリーナが仰向けに寝る分娩台を囲うように集まる。

呼吸が荒く心拍も弱くなっているため、酸素マスクと右の手の甲に点滴の針が取り付けられた。

「ゆ~っくり呼吸してくださいねぇ」

「ダーリン…、ち…、近くに…居る…」

拘束されそうな恐怖感があるのか、カリーナは手を掴んで欲しそうに手を伸ばす。

「あぁ、近くに居るよ」

ダグラスは分娩台の左脇にしゃがみカリーナの左手を握り、右手でカリーナの頭を撫でた。

「…ん…」

近くに居ることが確認出来て安心したのか、しわの寄っていた眉間が緩んだ。

「子宮口6㎝まで開いていますね。痛みが来たらおもいっきり息んじゃいましょう。もう少しですよお母さん!」

助産師は手探りで内診をし、子宮口の経過を伝える。

するとカリーナがダグラスの左手を強く握り返した。

「―っふ、んん--!はぁ…ぁ…」

息んでは休み、息んでは休み、を繰り返した。

カリーナの握り締める左手は今までにないくらい強く、爪を立て力を振り絞っているのが分かる。

「がんばれ…」

苦悶に歪むカリーナの表情、絞り出す悲痛な叫び…。

「…―ソン…、、、ウィル…ソン……」

カリーナの口から小さく漏れた幼なじみの男性の名前。

「あぁ、そうだ。…ウィルソンくんだって…応援してくれているぞ…」

カリーナの心の中には彼が居る。

カリーナにとって心の支えであり、強さを与えてくれる幼なじみの男性だ。

「―っ、ふーーー!!っ…」

また息んで左手に力が入る。

「子宮口8㎝。がんばれお母さん!ゆっくり息を吐いてぇ、赤ちゃん出たがっていますよ!」

「…はぃ……」

出口の見えないトンネルを必死にもがいて進んでいるように、気が遠くなるみたい。

長く…、苦しい…、早く会いたい…、あなたの顔を見せて…。


___________


5年前、ネルソンが少女を助けた森のある”サリスキン”を目指し進路を変えたウィルソンとキースは、街灯もない暗い峠道を抜けた。

昔は馬車で下った渓流沿いの川路はアスファルトで舗装されていた。

”モンズビレッジ”の町の看板が暖色の蛍光灯で照らされている。

「サリスキンまであと21㎞だって」

「昔は森の中を歩いてサリスキンに行ってたんだな。改めて自分にびっくりだな…」

アップダウンの激しい峠道、蛇のようにくねったアスファルトの道路を、何度も右へ左へハンドルを切り返し慎重に運転していくキース。

するとポーン、とオーディオのスピーカーから電子音が飛ぶ。

アナログメーター右下の燃料残りわずかを知らせ赤ランプが点灯した。

「おいおい…、こんな山ん中でガス欠は御免だぞ…」

だがサリスキンの街まで18㎞とナビは示している。

「給油所が近くにあるか調べてみるね」

ウィルソンは道中に給油できる所がないか検索し始めた。

「あと6㎞この峠を下った所にスタンドがあるみたいだけど…」

「なんとかそこまで保ってくれ!」

峠の頂上に差し掛かり、疎らになった木々の隙間から三日月が夜道を照らしていた。


________。。。。



カリーナという少女の案内でモンズビレッジの集落から少し離れた森の中を進む。


「本当にこんな森の奥に怪我した父ちゃんが居るのか?」

「このまま進んで良いの?」

余程ウィルソンが気に入ったのか、ウィルソンの言葉になら反応するようだ。

「うん、もっと上…」

カリーナはウィルソンの左腕にしがみついたまま、岩肌がゴツゴツと飛び出した山の斜面を指差して言う。

木々の間から日差しが漏れている。

真っ昼間だってぇのに夕暮れみてぇに薄暗い。

(ウィルソン気を付けろ。血生臭い獣の臭いが強くなっているぞ)

レオン兄貴さんの忠告が耳に届く。

すると山の斜面を向かい風が通り抜け、複数体のオオカミの咆哮が木霊する。

「グル…」

ウィルソンの腕にしがみついているカリーナは、ウィルソンの腕をパッと離して前方の森の奥を睨んでいる。

「どうしたの?」

するとカリーナはウィルソンの言葉には答えず、近くにあった樫の木の枝に素早くよじ登った。

「おいおい…まるで猿みたいな身のこなしじゃねぇか…」

足の指をフックの様に使い、軽々と木に登る姿を見て団長は驚いた。

「本当にこの森の中で生活してるんじゃないですかね…」

すると茂みから4匹と灰色オオカミがウィルソンたちの前に立ちはだかる。

「っち!出やがったな獣ども」

「カリーナちゃん下がって!」

身の危険を感じてウィルソンはカリーナに話し掛けた。

「グルル…、ガウガウ!」

さっきまでのひ弱そうな体型からは想像もつなかいようなカリーナの放つ唸り声。

複数体が同時に放つ咆哮に思わず身体が硬直する。

身体の硬直が見てるウィルソンを庇うようにレオンがウィルソンの前に立ち前傾姿勢を取る。

「しっかりしろ!慌てるんじゃねぇ、複数とはいえそうデカくねぇ」

カリーナと複数体のオオカミは顔見知りのように睨み合っている。

団長たちには解らない会話のような唸り声を出しカリーナはオオカミたちの攻撃を抑制する。

話が通じているようだ。

(俺たちの縄張りに入ったヤツにはしっかり罰を与えねぇとな!)

(ハハッ!全員仕留めりゃあ、みつき(3ヶ月)は飯にこまらねぇな!)

「ガガゥ!」(そんなことさせない!)

「グルル、ガウ!」(お前らに用は無い。邪魔するな!)

灰色オオカミの声とレオン兄貴さんの声が混じって耳に届いた。

だけど僕の耳にはカリーナちゃんの唸り声には意思を感じ取ることができなかった。

即座に襲い掛かって来ないところを見ると、カリーナちゃんの声はオオカミたちには届いているみたいだ。

「俺たちゃぁ急いでんだ!このまま突っ切るぞ!」

「はい!」

団長はレオンがオオカミの攻撃を防いでくれることを信じ、山の頂上を目指し駆け上がる。

そのあとをキースが付いていく。

「ガガフ!」

「んぁ!?」

1匹の灰色オオカミが団長の右隣に居たキースの首を狙い飛び掛かる。

「っらぁ!」

団長は黒マントをひるがえし、オオカミの顎をめがけ踵を蹴り上げる。

団長の蹴りはオオカミの顎に命中し、オオカミは力無く地面に倒れた。

「団長!」

「走れ!止まるな!」

「「はい!」」

キース、ウィルソンも団長の後に続く。

地面に突っ伏した仲間の姿を見たオオカミ3匹は激昂し団長に狙いを定めた。

グルル、と喉を鳴らした3匹のオオカミは姿を散らし、2匹は茂みに入り込み姿を消した。

もう1匹は頭上の木々を伝い団長に眼前に先回りをした。

頭上と両脇から一斉に飛び掛かるオオカミ。

「うざってぇ!」

右脇腹に噛み付こうと牙を剥くオオカミに肘打ちで応戦する。

身体への負傷は逃れ、黒マントが引き裂かれただけで済んだ。

だが団長は1匹を相手にするので精一杯だった。

「団長!後ろに!」

頭上と背後から続け様に飛び掛か―、

「くそがぁ!」

ウィルソンとキースの間合いを瞬足ですり抜けた黒い影が団長の背後のオオカミの首に噛み付いた。

(っ!…てめぇ…)

(鈍いな、こんなもんか?)

同時に頭上のオオカミの胴体にカリーナの踵落としが炸裂した。

「カリーナちゃん!」

「すげぇな…」

「サンキューレオン!」

3匹の灰色オオカミは地面に崩れ落ちた。

いや、まだだ!

「油断するな!走れ!」

完全に仕留めたわけじゃねぇ、また起き上がってくるぞ!

「「はい!」」

森の斜面を駆け登る。

カリーナとレオンが先陣を切り道を示す。

山を登るにつれて人間でも分かるほどの血生臭い獣の臭いと腐乱臭が鼻を突き刺す。

「うっ…」

「ここやべぇな…」

思わず胃液がこみ上げる。

(なんてざまだ…)

突き出た岩肌に内臓だけ食い散らかされたイノシンやシカの残骸が突き刺さっている。

「きたないな…」

「…カリーナちゃん?」

ボソッと声をもらした先頭を走るカリーナちゃんは唇を強く噛み締め走る速度を上げた。

最後尾を走るキースが後ろを振り返る。

「追って…来ないみたいだな…」

だが木々の擦れる音も、森を抜ける風の音も一切無くなり静まり返った森の中は不気味さを増していく。


山の頂上に近付くにつれ木々が疎らになって風の通りが良くなって来ているようだ。

だが森の雰囲気はより不気味さが増し、偏頭痛を起こしてしまいそうになるほど気圧が高くなっている。

すると先頭を走るカリーナとレオンが同時に歩みを止めた。

「グゴォォオ!」

と重圧のある咆哮とともに鳥の群れが木々から一斉に羽ばたいた。

「ダダ!」

カリーナちゃんが血相を変え怯えた顔をする。

「また出やがるか!」

(今までのガキどもの比じゃねぇぞ!)

レオン兄貴さんも警戒態勢を高め、息を荒げている。

「ダダってでかいオオカミが来ます!」

ウィルソンはカリーナとレオンの意思汲み取り団長とキースにこれから現れる正体について伝える。

カリーナとレオンが睨む目線の先には2匹のオオカミが突き出た岩肌の上に立っていた。

先ほど邪魔をしてきたオオカミと同じ体格の濁灰色オオカミが1匹、そのオオカミより2周りも体格の大きい濡羽色オオカミが姿を現した。

(追い付いたぜ!)

(くたばったかと思ったかぁ?)

(喰らう!)

耳に届いた複数の声。

「また来ます!」

頭上の木々を飛び交う灰色の影。

先ほど対峙したオオカミたちが加わり、囲まれた。

「ちっ!仕留めちゃいねぇと思ったが…」

「この数を相手に…」

団長とキースの額に汗が流れる。

団長は腰に提げていたマジック用のステッキを抜き剣を両手で持つように構えた。

キースは団長と背中合わせになりディアボロ用のスティックをヌンチャクのように脇に挟みます身構える。

「いけるな?」

「はい!」

4匹のオオカミが一斉に飛び掛かる。


岩の上に立っていた2匹はゴツゴツした岩の斜面など臆することなく疾走し、カリーナとレオンの前に砂ぼこりを巻き上げ着地した。

濡羽色の巨体の威圧感に押し潰されそうになる。

(知らねぇ臭いだな…。お前)

(血生臭いお前らと一緒にされちゃぁ困るな)

頭を下げず、目線だけを動かしレオンを睨む濡羽色オオカミ。

「グルル」(よう、小娘)

「……くっ…」

巨体の背後からぬるりと間合いに入る灰色オオカミ。

そのオオカミの左目には傷があるのか、片目しか開いていない。

そのオオカミとカリーナが睨み合う。

「どいてよ!お父さんに会いに行くんだから!」

人間の言葉でオオカミと話すカリーナ。

「グルフフ」(お前が弱いからだろ)

灰色オオカミはカリーナを嘲笑っているかのように余裕な足取りで近く。

…そう…私が…罠に捕まった小鹿を見て…躊躇ったから…。

「そんな……―っう!」

核心を突かれ戸惑うカリーナに灰色オオカミは頭突きを浴びせ弾き飛ばす。

「カリーナちゃん!」

攻撃を受け、よろめいたカリーナの顔を続け様に尻尾でひっ叩く灰色オオカミ。

一撃では殺さない、あくまで何度も痛めつけて、精神的にも、肉体的にも追い詰める。

楽しんでいる、奴らのやり方。

「うっ!あぅ!」

何度も、何度も、執拗に。

…ひどい、こんなやり方…。

ウィルソンは助けに入ろうと地面に落ちていた木の枝を拾い灰色オオカミに近付き木の枝を頭の上に振りかぶる。

「ガウッ!」(退いてろチビ!)

「っ!あぅ!」

背後のウィルソンの気配を感じ取った灰色オオカミはすかさず体勢をひねりウィルソンに後ろ脚の蹴りをくらわせる。

オオカミの後ろ脚はウィルソンの左肩に直撃しウィルソンはそのまま地面に尻もちを付いた。


レオンは自分の2倍もの体格差のある濡羽色オオカミに飛び掛かる。

「フンッ!」

「なに!ちぃ!」

ボフン!と空気弾でも撃ち込まれたかのように、指先ひとつ触れずにレオンは弾き飛ばされ、大樹に叩きつけられる。

「レオン兄貴さん!」

(お前はカリーナを守れ!)

…僕が助けないと…っ!

濡羽色オオカミは左前脚を振りかぶりカリーナに狙いを定める。

ビュン!と空を切る鈍い音と共に、濡羽色オオカミの前脚はカリーナに攻撃し続ける灰色オオカミとカリーナを同時になぎ払う。

「ぎゃぅ!」「グフォ!」

カリーナは木に叩きつけられ、灰色オオカミは茂みの奥に吹き飛んだ。

濡羽色オオカミの攻撃には、慈悲など仲間への配慮なと皆無。

ただ目の前の邪魔者を排除することだけだ。


「カリーナちゃん!」

「…ぅ……」

カリーナちゃんは苦悶の表情を浮かべ、立ち上がる事ができないみたいだ。

右肩の破れた赤く染まる服、隙間から見える深い切り傷、細い腕には血が伝っている。

その時脳裏にちらついた、あの日、担架で運ばれて行くにぃちゃんの、布から覗かせた傷だらけの細い腕…。

―…もう…、いやだ…、見たくない。


とくん…。


全身に熱を帯びた瞬間、大きく跳ね上げた心臓の鼓動…。


カリーナを守ろうと無意識に動いた僕の身体は大の字になってカリーナとオオカミの間合いに入り込んだ。

「「ウィルソン!」」

団長さんとキースさんが僕の名前を叫んだ。

「グガゥ!」

荒々しく喉を鳴らした濡羽色オオカミの鉤爪が眼前に迫る。

咄嗟にオオカミの前に立ちはだかったは良いがこの後の行動など思い付く間もない。

だがウィルソンは目を瞑ることもなく、オオカミの攻撃からカリーナを守ることしか考えられなかった。

時間にすれば1秒にも満たない物だ。

だがウィルソンには濡羽色オオカミの鉤爪が顔面に届くまでの時間がスローモーションのように長く感じた。

これ以上カリーナちゃんを傷つけたら、許さない!

(やめろ!!)

(っ!?)

ウィルソンは濡羽色オオカミと目を合わせキリッと睨み付けた。

ウィルソンは口には出さない頭の中だけでオオカミに向け怒りをぶつけた。

濡羽色オオカミは何かを感じ取ったのか一瞬怯んだように振り下ろされる前脚の勢いが揺らいだ。

…シュパッ…

とオオカミの鉤爪はウィルソンの左頬を掠め、鼻先の赤鼻をなぎ払った。

「ぐおぅ!」

次の瞬間、濡羽色オオカミの前脚がウィルソン眼前から消え、オオカミの巨体がくの字に曲がり宙を舞った。


。。。―――


キースの運転するワンボックスカーはサリスキンの街を目指しアップダウンの激しい夜の峠道を進む。

給油を知らせるランプが点灯し、いつガス欠になるのか気が気じゃなかったが、何とか麓にあるガスステーションに到着することが出来た。

「いやぁ、あぶねぇあぶねぇ。なんとか間に合ったぜぇ…」

「24時間営業してくれているスタンドで助かったね」

時刻は深夜1時をまわったところだった。

ウィルソンとキースが辿り着いたのは24時間営業のセルフサービスの給油所だった。

従業員の姿は見えないが、給油所天井の照明は煌々と場内を照らす。

キースは計量機前の駐車スペースに車を移動させようとした時だった。

―ブロロォォン!!

―バリバリバリ!!

アクセルを吹かす爆音とともに3台の大型バイクがスタンドに入ってきた。

その集団はヘルメットも被っておらず、スキンヘッドやドレッドヘアーの革ジャンを着た見るからに柄の悪い男たちだった。

「あぶねっ!なんだあいつら!」

キースの車が入ろうとした駐車スペースに2台のバイクが強引に割り込み、もう1台は機械の反対側の駐車スペースに金属バットを地面に引きずりながら入ってきた。

あっという間に集団に占領されてしまった。

「給油が済んだら移動してくれるんじゃないかな?」

「まぁ、そうだな」

なるべく面倒事は起こしたくない。

集団と距離を取って、スタンドから出ていくまで待つことにした。

バイク集団もウィルソンたちの乗る車の間を縫うように入り込んできたことは気付いている。

あからさまな煽りを受けた。

運転席のキースとスキンヘッドの男と目があった。

「てめぇ何ガンつけてんだごらぁ!!」

「あぁ?なんだ?文句あんのかぁ!」

不良集団がウィルソンたちの乗る車に向かい難癖をつけて詰め寄ってくる。

「…ったくめんどくせぇ」

「一旦出た方が良いんじゃない?」

エンジンを掛け後方を確認する。

しかし車の背後には金属バットを持ったがたいの良い色黒男が行く手を阻む。

ドレッドヘアーの男が車のボンネットに蹴りを入れた。

「あ!?やりやがったなてめぇ!」

キースは我慢できず車外に出た。

「止めなよキース…」

ウィルソンは止めようと声を掛けるがキースには聞こえなかった。

「割り込んできたのはお前らだろうが!」

「あぁ?!んだてめぇ」

「殺すぞごらぁ」

ドスのきいた声で恫喝され3人に囲まれた。

「てめぇ、覚悟できてんだろうなぁ!!」

キースの背後に立つ大柄男が金属バットを振り上げる。

「っふん!」

右肩に振り下ろされたバットをキースは振り向くこともなく左拳だけで受け流し、バットを弾き飛ばした。

「ぐあっ!」

先端部分のヘッドが凹み、衝撃が大柄男の腕に伝わる。

「ばーか、食らうかそんなもん」

ダメだ、話が通じるような相手じゃない。

ウィルソンも慌てて車外に出た。

「くそがぁ!」

ドレッドヘアーの男が腰に巻いたベルトからサバイバルナイフを抜き取りキースに向け付き出した。

刃物なんて!このままじゃマズい!

「てめぇは俺だ!」

スキンヘッド男がウィルソンの前に指の節を鳴らしながら立ちはだかり、キースへの干渉を遮る。

サバイバルナイフで突き刺す動作をするドレッドヘアー男。右脇腹、左肩とナイフを突くがヒュン、ヒュンと空振り、キースはするりとかわす。

「俺の動体視力ナメんなよ!っらぁ!」

左脇腹のナイフを避けると同時にドレッドヘアー男のみぞおちを狙い蹴りを食らわせる。

「ぐぅ!くそっ!」

ウィルソンの相手をするスキンヘッド男はメリケンサックの付いたグローブを着けている。

男は素手でウィルソンの顔を狙い殴り掛かる。

「っ!僕たちはただ給油したいだけだっ!」

大振りな拳は動きも俊敏ではなかったから容易くかわせた。

「黙れヒョロ助!俺を倒してからだぁ!」

顎を狙い左アッパーが飛んでくる。

左腕を盾して顔面への直撃を防ぐことは出来たが左腕手首に着けた腕時計にメリケンサックが直撃し、ガラス部分にヒビが入りひしゃげてしまった。

「くっ!僕たちは争う気はありませんって!」


キースの蹴りがみぞおちに命中したドレッドヘアー男はその場に膝を付いたが、ナイフは離さず再びキースに斬りかかる。

ヒュン、ヒュンと空を切るナイフ。

「おっと、させねぇよ」

「っち!離せ!」

背後の大柄男がキースの両腕を拘束し、抵抗されないよう動きを封じる。

体格に相応しい怪力を持った色黒男を引き剥がすことは出来ない…。

ドレッドヘアー男の縦の一閃はキースの右肩、鎖骨にかけて切り裂いた。

「うっ!く…そ…」

「キース!」

ダメだ…このままじゃキースが…。

切られた肩から血が流れている…、殺される…。

団長やレオンだけに留まらず、キースまで…僕の目の前で…。


―ドクン…。心臓が大きく跳ね上がる。


―…まだ抗っているの?―

―すっかり丸くなりやがって、情けねぇ!…―

―さっさと解放しろよ。楽になるぜぇ?―


どこからともなく聞こえてきた声はウィルソンの意識を蝕んでいく。


スキンヘッド男の右フックを頬に触れる寸前で受け止めたウィルソンは男の拳を握り潰す。

「うぐぁががが!」

メキメキと骨の断裂していく音が心地良い。

―なぁ、最高だろ?…―

スキンヘッド男は力なく地面に跪いた。

が、ウィルソンは握り潰す手の力を緩めることもなく、ナイフを振り回すドレッドヘアー男めがけスキンヘッド男を蹴り飛ばした。

「ぐふ!」「うお!」

糸で吊るされた人形のように、フラフラと男2人に歩み寄るウィルソン。

「…ウィルソン…お前…」

どうした…ウィルソンの様子がおかしい。

「来るな!来るなぁ!」

腰を抜かしたドレッドヘアー男はナイフをウィルソンに向け振り回す。

「―っふ!」

ウィルソンはナイフに怯むこともなくナイフを蹴り飛ばした。

ぶっ飛んだナイフは給油所の天井に突き刺さり、破損した蛍光灯から火花が散り、男たちの頭に降りかかる。

「て、てめぇいったいなんなんだ!」

キースの腕を掴む色黒男もウィルソンの異様な姿に後退りをする。

「"なんだぁ?もうおしまいかぁ?"」

地面に転がった金属バットを手に取ったウィルソンはニヤリと不敵な笑みを浮かべる。

「ウィルソンよせ!もういいっ!」

ダメだ!このまま続けたらウィルソンが人殺しになってしまう!

キースは咄嗟に金属バットを振りかざすウィルソンと男2人の間合いに入り込む。

「死にたくなきゃさっさと逃げろ!」

後方の男2人と色黒男に向け吠えるキース。

「ひひひ…」

キースが目の前に現れても表情ひとつ変えずにやけ顔のウィルソンは、バットをキースの脳天めがけ振りかぶる。

「やるじゃねぇか、ウィルソン…」

キースは金属バットを真剣白羽取りのように見事に直撃を防いだ。

「目を覚ませくそったれぇ!!」

ウィルソンから金属バットを奪い取ったキースはバットとグリップ部分でウィルソンの顔面を思いっきりぶん殴る。

糸が切れたように洗脳から解けたウィルソンは膝から崩れ落ちうつ伏せに倒れた。

「…おい、そいつ…死んだんじゃ…」

色黒男がキースに問う。

「…早く行けよ…」

「「……」」

「早く行け!ぶっ殺すぞ!」

男たちは給油はせず、すぐにアクセスを吹かしスタンドをあとにした。


切りつけられた肩を押さえながら倒れたウィルソンをただ呆然と見ているだけだった。

「…ウィルソン」



暗闇の霧の中、ぼんやりとした光が宙を舞う。


―…お母さんを助けて…―


その光は僕の心に話しかけてくる。


―ウィルソンに傍に居て欲しいなぁ、なんてぇ…。お願い、します…―


…そうだ…約束したんだ…君と…。


―…お母さんを助けてくれるって約束したのに…、嘘つきだね。ウィルソンお兄ちゃん。―


そんなことないさ…、でも…身体が冷たくて重いんだ…。


―お母さんはあなたを待っているのに…―


わかってる。約束したんだ、絶対離さないって。


―このまま"目を閉じたら"お母さんに会えなくなるよ! 起きてよ!ウィルソンお兄ちゃん!―


 ありがとう、ルシアさん。


闇を漂う小さな光は、やがて高く舞い上がり、雲間から差し込む天使の梯子のような優しい光によって闇を掻き消していく。


ひんやりと冷たいコンクリートの地面。

徐々に開いていく瞼、目の前に見てた物は僕の左腕。

視界が鮮明になり見えたのは小指のピンキ―リングとひしゃげた腕時計。


こんな僕にも愛する人が、守りたい人が出来たんだよ。

それによって気付いたんだ。

かつて好きだった初恋の人…、

それが君だったんだよ。

約束したんだ、絶対離さないって…。

だから…会いに行くって決めたんだ。

約束だから…。


目も見える、指先も動く、音も聞こえる。

「…会いに…行かなきゃ…」

声も出せる。

「ウィルソン!お前…平気なのか…」

目の前にはキースが立っていた。

青ざめた顔で僕を見つめている。

「キース…怪我してる…治さないとね」

キースは肩を押さえている、切り傷みたいだ。

「なぁ、ウィルソン…」

ウィルソンは今までのやりとりがまるでなかったかのように平然と立ち上がり、膝の汚れを払う。

「その傷、治すね」

ウィルソンはそう言うとキースの右肩に左手をかざした。

「ウィルソン…なにを…。―っく!」

ウィルソンのかざした手の周囲だけ、直射日光を間近で浴びているかのようにジリジリと熱を帯びた。

するとみるみるうちに傷口が塞がっていく。

「流れた出た血は戻らないけど、傷は直したよ」

「お前…身体は無事なのか?…その力は…」

傷口は完全に塞がり、ウィルソンは左手を下ろした。

「僕は何ともないよ。時計は壊れちゃったけど…」

ウィルソンの顔には打撲痕や傷はひとつも無い。

そんなバカな…、おもいっきりぶん殴って顔面の骨だって逝ってるはずだろ…。

「キースは少し休んでいてよ。僕一人で森に行ってくるから」

「何言ってんだよ!獣だって出るだろ!」

「大丈夫。思い出したんだ、約束してた場所…」

「…約束?」

「待ってて…」

ウィルソンはそう言ってスタンドの敷地から出て行く。

夜空に浮かぶ満月を見上げたウィルソン。

「…キース…」

一言言って振り向いたウィルソン。

「このことは…アリシアには…内緒ね…」

口の前に人差し指を当て、優しい目をして微笑んだウィルソンの瞳は一瞬金色に反射した。

「…おぅ……」

ウィルソンは暗闇の森の中へ消えて行った。


―――――


助産師から"子宮口の開きが8㎝です"と報告を受けてから一向に状況は変わらない。

「―っふー、んん~!…はぁ…はぁ」

分娩室に入ってから何時間が経っただろう。

気が遠くなるほどに、体力を消耗していく。

力を振り絞って息むカリーナの手の握力、強くグラジスの手の甲に食い込むカリーナの指先は血の気を失い真っ白になっている。

「―んんーっ!!あぁーいたぁーい!」

息を殺して息むだけで済む訳もなく、耳にキーンと耳鳴りが残るほどの悲鳴をあげるカリーナ。

「…がんばれ」

傍に居てがんばれしか言ってあげられない、助産師と一緒になってカリーナの腰を撫でてあげることが今できる精一杯。

カリーナの広げる足の間に助産師がもう1人加わり2人体制になった。

「がんばれお母さん!頭見えてるよ!」

「もうすぐだよ~、がんばれ~」

定期検診時に説明を受けて想像していたよりも何倍も壮絶な生命の誕生の瞬間に立ち合っている。

「っんんー~っ!くあぁー!」

助産師に励まされカリーナも息んで力を振り絞る。

―…んぎゃー…おぎゃー…―

待ちに待った小さな命は元気な産声を上げた。

「うまれましたぁ」

「おめでとうございまぁす、元気な女の子です」

毛布にくるまれた赤子を見た瞬間涙が零れた。

「はぁ…やっと…会えたぁ…よかったぁ…」

カリーナのおでこにキスをして頭を撫でた。

「生まれた…、頑張ったね…。ありがとうカリーナ…」

「…うん…、ありがとうダーリン…」

「3時14分、2710gの元気な女の子ですよぉ」

身体の羊水を拭き取りへその緒を切る施術も終わり、助産師の腕の中には毛布にくるまれた我が子がカリーナの腕の中に手渡される。


「はじめましてぇ…おかあさんですよぉ」


なんて愛らしい光景だろう。

家族が増えて未来を語る幸せ。

その瞬間瞬間でしか味わえない幸せがかけがえのな宝物になる。

支え合って生きていくんだ、3人で。


―――。。。


濡羽色オオカミの巨体がくの字に曲がり宙を舞った。

濡羽色オオカミの巨大に、漆黒、焦茶、白銀3体の影が同時に突進撃を浴びせた。

木に叩きつけられたオオカミの巨体、衝撃に耐えきれる訳もなく、次々と森の木々をなぎ倒していく。

霞む視界の中で馴染みのある臭い…。

「おとう…さん…、ブチ…」

漆黒と白銀は妙に懐かしい臭いに気付いた。

「おう、兄貴」

「おう、デカくなったなチビすけ…」

かつて故郷で別れた白銀のオオカミが、俺より1.5倍の体格に成長していた。

だが、その背中には十字に避けた切り傷があった。

「お前…その傷…」

「"家族"を守って付いた傷だ、大したことはない」

痛みなど感じさせない凛とした顔つきは、家族を守る父としてと、森の長としての勇ましさを思わせる風格があった。

この町にたどり着いた時から感じていた違和感は懐かしい匂いと共に察しが付いた。

″虫の知らせ″というヤツだ。

こいつに死が近づいていることを知らせる、胸のざわつきなのだと。


木にもたれ掛かるカリーナにブチが近く。

「ガガウッ!」(大丈夫かシロ!)

「カリーナちゃんに触るな…」

なんだ、ウィルソンの様子がおかしい…。

(どうしたウィルソン!)

レオンの声は今のウィルソンには届かない。

「この子は…私の家族だよ…?」

「グフ…」(なんだあいつ…?)

さっきまでの優しい表情とは違いギラリと目付きの変わったウィルソンがブチを睨む。

「だめだよブチ!この人は良い人だから」

「グル、ガウッ!」(お前の敵はダダだろ!)

ブチはウィルソンの目を覚まさせようと、ウィルソンの身体に飛びつき地面に押し倒した。

「僕が!守ら…ないと!」

こいつは正気を失っている。

「ガガウ!」(目を冷まさせウィルソン!娘は生きるぞ!)

レオンはウィルソンの頬を尻尾で叩いた。

「……ぁ…レオ…ん」

ウィルソンが正気を取り戻したようだ。

「しばらく見ねぇうちに堕ちたもんだな、そのガキも」

かつて背中に乗せて草原を疾走したことは今でも思い出す。

「あぁ、お前が連れてきた厄介なガキさ。おかげさまで苦労している」

ウィルソンに俺のことを"兄貴"と紹介したのはやはりお前だったか。


4匹のオオカミの相手をする団長とキースもウィルソンが無事なことに安堵した。

「ったく…ウィルソンのやつ心配させやがって。おぅらっ!」

飛び掛かってくる2匹のオオカミをステッキでいなした団長は、1匹のオオカミの前脚を掴みもう1匹のオオカミに叩き付ける。

「あの白オオカミは良いヤツみたいですっね!」

ディアボロ用スティックをヌンチャクのように振り回すキースは、左右、頭上、背後とオオカミの突進の入り込む隙も与えないほどの素早い立ち回りを見せる。

ヌンチャクなんていうものを知る由もないオオカミ2匹は素早く回転するスティックの餌食になる。

側転による遠心力も加わったスティックの威力は骨にヒビが入る程だ。

此処に来る途中で対峙した時のダメージが癒えていなかったこともあり、体力の有り余った団長とキースの攻撃力を前にオオカミたちは立ち上がることが出来ない。

「「よしっ!!」」

起き上がって来ないオオカミたちにはそれ以上危害は加えず、ウィルソンとレオンの援護に加わった。

「レオン、ウィルソン大丈夫か!」

「グル!」(あぁ!)

ウィルソンの上に馬乗りになる焦茶オオカミはカリーナを庇うように立ち身構える。


―「グガォォォォオ!!」


森の茂みの奥から濡羽色オオカミの咆哮、分かってはいたが容易くくたばる玉じゃねぇ。

口から血を垂らしながらそろりと姿を現した濡羽色オオカミ。

「安心するのはあいつを倒してからだなぁ!」

「久々の共闘だなぁ兄貴ぃ!」

十数年ぶりの友との再会で、背中の傷の痛みなど吹き飛ぶほどの武者震いが肉体を強化する。

「…ぁ、レオン兄貴さん…ぼくは…」

「ガウッ!」(起きろ!まだ終わってねぇぞ!)

「ガルル!」(お前の殺気、確かに伝わったぞ!)

目の前のただのデカブツに臆するものか。

生まれ持った肉食獣の血統と魂の共鳴により、逆立つ毛先から放つ狂喜と殺気は最高潮だ。

「ウィルソン!娘を守れ!これ以上傷つけさせるな!」

団長がウィルソンに指示を出す。

「はい!僕はまだやれます!」

ウィルソンも立ち上がる。

戦意喪失はしていないようだ。

濡羽色オオカミの血走った獲物を狩る視線はウィルソンを捕らえている。

 ―あのガキから感じた瘴気はなんだ…。

   この俺が、あんなガキに怯んだだと…。―

一瞬でも油断した己の未熟さに腹が立つ。

あのガキは必ず始末する。

ピリピリと肌を刺す殺気にウィルソンも気付いた。

…僕を殺しにくる。

ただ、カリーナちゃんをこれ以上傷つけないために、僕は逃げちゃいけない。

濡羽色オオカミは前傾姿勢を取り、怒りに満ちた咆哮と共にオオカミの周囲をつむじ風が巻き上げたような瘴気を放つ。

「くっ!なんだこの瘴気は!」

「ち…近づけない…!」

団長やキースのような大人ですら、突如吹き荒れる瘴気に怯んでしまう。

「…うぅ…」

偏頭痛と寒気が身体を襲う瘴気に圧され膝を着いたウィルソン。

山の頂上に近づくにつれ濃くなっていく灰色の霧と嫌悪感はヤツが放つ残り香だったのだろう。

無理もねえ、ウィルソンの小せぇ身体じゃ耐えられねぇ圧だ。

「グガゥ!!」

隙のできたウィルソンを一息に喰い殺そうと牙を剥く濡羽色オオカミ。

「逃げる…もんか…」

ウィルソンは地面に膝を着いたまま両腕を広げ、背後にいるカリーナとブチを守ろうとする。

カリーナはウィルソンの小さな背中に守られていることを実感し喜びを感じた。

「ウィル…ソン」

この人は、良い人なんだって信じられる。

カリーナの口から小さく発した名前を聞いたブチは瞬時に喉を鳴らした。

―そうだ、お前が居るべき場所はここじゃない―

ウィルソンの頭を踏み台に勢いをつけ濡羽色の巨体に立ち向かうブチ。

「ブチだめっ!!」

ブチの咄嗟の行動にカリーナが叫ぶ―。

…ズシュ…と鈍い音と共に血飛沫が舞う。

濡羽色の巨大の動きが止まり静寂に包まれた。


「…何が悲しくて獣どものいざこざにまで巻き込まれなきゃならねぇんだったく!」


「団長さん!」

目の前には濡羽色オオカミの巨大に立ち向かう団長の大きな背中があった。

団長は濡羽色オオカミの大顎が閉じ切る前にステッキを縦に刺し込み助けに入ったのだ。

ステッキは濡羽色オオカミの上顎を貫通、勢いの死んだ牙でブチの胴体が真っ二つにならずに済んだ。

ブチは濡羽色オオカミの口蓋に噛み付いた。

「もういいよブチ!」

カリーナが濡羽色の巨体に食らい付くブチを引き剥がす。

勢い余って地面に倒れ込むカリーナとブチ。

「ブチ…」

「グフ…」(シロ…)

怯むこともなく濡羽色オオカミは続け様に団長に向け左前脚の応酬をくりだす。

「っふ!させねぇっての!団長こういうの大好きでしょ!」

キースはディアボロスティックを鞭のように濡羽色オオカミの前脚に巻き付け手繰り寄せ団長への攻撃を阻止。

「まぁな!」

(ぐぬっ!小癪な人間ども!)

「―グガァォォオ!!」

「ぐっ!」「うわ!」

再び巻き起こった瘴気のつむじ風で団長とキースを弾き飛ばす。

つむじ風の間を掻い潜り漆黒と白銀が牙を剥く。

漆黒は濡羽色の左脇腹に、白銀は濡羽色の喉元に食らい付く。

―おやっさんが作った一瞬の隙、この期を逃してなるものか。

―たとえ四肢がもげようが、こいつと道連れになろうが一度噛み付いた獲物は離すまい。

「グォォォォオ!!」

濡羽色は纏わりつく漆黒と白銀を振り払おうと身体を激しく揺らし地団駄を踏む。

喉元に噛み付く白銀は地面に激しく叩き付けられる。

深い背中の傷口からは血が吹き出すが、食らい付く顎の力は緩めはしない。


ダメだ。

このままじゃレオン兄貴さんもオオカミさんも団長さんもキースさんも怪我だけじゃ済まされない。

誰か…助けて…。

ウィルソンはぎゅっと目を瞑り、ただ祈ることしか出来なかった。


―君は優しい子供だね―

―力を貸そう、人間の子供―


耳に届いた声とふわりと頬を撫でた優しい風はウィルソンを追い風のように通りすぎた。

通りすぎた風は濡羽色オオカミの脚を掬い上げ、オオカミの巨体を宙へと浮かす。

「…グゥ!」(…なんだこの風は!)


―この人たちを助けるんだよ―

―お前は悪さをし過ぎた―


濡羽色オオカミを宙へ浮かす正体、それはこの山でオオカミたちの愚行により悲惨な死を遂げた動物たちの魂が風となり姿を表したもの。

「なんだいったい!」

「オオカミの巨体が浮いて…」

団長にもキースにも状況が把握出来ない。

(離れろチビすけ!)

(あぁ!)

浮いた巨体から口を離す漆黒と白銀は地面に着地、白銀はよろめいて膝を着く。

…さすがに…血を流し過ぎた…か。

霞む視界の先には頭を伏せて身を守るカリーナとブチの姿があった。

「グルッ!…ガウッ!」

(兄貴!少年!……シロを、頼む!―)

「…っ!」

「オオカミさん…」

それはレオンにもウィルソンの耳にも、そしてカリーナの耳にもはっきりと聞こえた。

「おとう…さん…?」

白銀オオカミは宙に浮く濡羽色オオカミの脚に噛み付き地面に叩き付け、地を引き摺りながら森の中を疾走する。

「お父さんヤだっ!」

「カリーナちゃん!」

父親の後を追いかけようと走り出すカリーナをウィルソンはくい止める。

白銀オオカミが濡羽色オオカミを引き摺り疾走していった後の森は禍々しさと静寂だけが残る。

「おとうさん!このままじゃおとうさんが!」

「…ダメだよ!危ないからここに居て!」

ウィルソンは今にも走り出してオオカミを追いかけようとするカリーナを止めるので精一杯だ。

「グルッ!ガガウ!」(ウィルソン乗れ!娘も一緒にだ!)

「レオン兄貴さん!」

レオンはウィルソンに背中に乗るように指示を出す。

悩んでいる暇はない!

「行こう!一緒に!」

カリーナに手を伸ばし、レオンの背中に乗って見せるウィルソン。

「うん!」

カリーナはウィルソンの手を取り、ウィルソンの腰に強く抱き付いた。

「お願いレオン兄貴さん!」

「ガウッ!」


動物たちの魂は濡羽色オオカミの体力を奪い、瘴気を抑え付けられた巨体は為す術なくただ地面を引き摺られるのみ。

木々や岩肌に激突しては傷ついていく濡羽色の巨大、己の身体も悲鳴を上げる。

濡羽色オオカミは白銀オオカミの脇腹に噛みつき必死の抵抗をする。

動物たち魂の力により体力を奪われ、噛み付く顎の力も微弱で生ぬるい。

「おのれ!放せ亡霊どもっ!」

…苦しい…、早く…解放してくれ…。

木々の生い茂る森林地帯を抜けた先は岩肌の鋭く尖った崖縁だ。

「ガガウッ!」(チビすけ!)

「おとうさん!」

背中にウィルソンとカリーナを乗せて疾走するレオンが追い付いた。

「グフ!」(お前たち!)

だが崖の下は先の見えない奈落の底。

落ちればただでは済まないだろう。

地を這いずり回る濡羽色の巨体は宙に浮き、白銀オオカミの後ろ脚が地を蹴ると同時にレオンが横並びに飛ぶ。

「ガルルっ!」(おとうさんっ!)

レオンの背中に乗るカリーナは父親に救いの手を差し伸べる。

地から脚の離れた身体は奈落の底に落ちるのみ。

―…お前には…まだ未来がある…―

必死に私の腕を掴もうと手を伸ばす娘の泣きじゃくった顔を横目に優しく囁く。

―…達者でな…シロ…―

「…わりぃ兄貴」

「っ!グゥ!」

静かに良い放った白銀オオカミは宙に浮く身体を90度身体をひねりレオンの腹を思い切り蹴り上げ崖縁に押し返した。

白銀オオカミの咄嗟の行動に面食らったレオンは受け身を取れず地面を転がった。

「オオカミさん!」「おとうさんっ!」

ウィルソンとカリーナの叫びが虚しく響く。


背中の深い十字傷と体力の消耗した白銀と魂に精力を吸い取られ金縛りに合う濡羽色の2体のオオカミの速度の増した巨体は抵抗する力も無く落下する。

「お前も地獄に道連れだ。穢れたデカブツよ」

「…ようやく…か」

「?!…お前…」

まるで死ぬことを望んでいたかのように小さくつぶやいた。

私に噛み付くヤツの牙には殺意はおろか精気すら感じられなかった。

一度暴走した己の力が自我を越え、いつしか制御出来なくなっていた我を鎮める者が現れることをずっと待ち望んでいた。

あぁ…ようやく…終われるのだな…。

照り付ける太陽に身を焦がされながら、最後に見た遠くの景色が、こんなにも美しいとは…。


40m崖下の森の木々に身体を打ち付ける。

受け身の取れない濡羽色の巨体は石製の祠の屋根に激突、祠は粉々に粉砕し砂ぼこりをあげる。

反動で投げ出された白銀オオカミは石畳の階段を力無く転げ落ちる。


ようやく動きが止まり、辺りは静まり返る。

一切の光も届かない暗闇の森の中、地面を覆い尽くす蓄光植物"ジュエルオーキッド"の放つ淡い緑色の光だけが唯一の明かり。

濡羽色オオカミの巨体は粉砕した祠の上で天を仰ぎぐったりとしている。


白銀オオカミの背中の傷から鮮血が吹き出すしている。

足腰に力が入らずガクガク震える白銀オオカミは絶え絶えの息の中、身体を起こし濡羽色オオカミに目を向ける。

濡羽色オオカミに取り憑いていた亡霊は蜃気楼のように揺らめいてオオカミの身体から離れていった。

…どうやらこいつにも、完全には侵蝕されなかった″良心″の部分が残っていたようだ。

6段ある石階段の中段で止まったボロボロの身体を引き摺って白銀オオカミは濡羽色オオカミに歩み寄る。

私もかつては悪事を働き、無差別に命を殺めた過去がある。

同じ山に生きた獣としてお前を許そう。


「ガガウッ!」(チビすけ!)

「おとうさん!」「オオカミさん!」

あの崖を降りて来たのか、兄貴とシロと少年の声が頭上から降ってくる。

近付いてきた足音は私の首元に腕を回し優しく抱き寄せた。

「グルル…グル…」(おとうさん…ごめんなさい…)

「…グゥ…」(…シロ…)

…お前が無事なら、それで良い…。

静かに喉を鳴らしシロに身体を預ける。

「…グフ…」(…あいつの傍に…、行かせてくれ…)

「…オオカミさん」

(あいつの…傍?)

白銀オオカミは首を曲げ、濡羽色オオカミが横たわる祠をレオンとウィルソンに示す。

(あいつに寄り添えるのは…俺だけだ。…死ぬ時ぐらい…一緒に居てやるさ…)

(ウィルソン!チビすけを運ぶぞ!)

「はい!」

レオンは白銀オオカミの腹の下に潜り込み、ウィルソンは腰元を支える。

「…一緒に運ぼう」

「……グスン…」

もう時期父親が死ぬことがわかっているカリーナちゃんは鼻をすすりながら父親の頭を支える。

3人係りで白銀オオカミを祠の傍までゆっくり運ぶ。

「…グフ…ガウ…」

(…泣くなシロ…、お前の笑顔は…

      私の救いなんだ…笑っていろ…)

「…ぅ……ぅん…」

泥にまみれた細い腕で涙を拭うカリーナ。

「…ガルル…」

(…兄貴…少年、シロを…頼む…)

「はぃ…」

(…あぁ…)

ウィルソンもレオンも小さく返事をした。

濡羽色オオカミの横たわる祠の傍までたどり着き、白銀オオカミを地面に下ろそうとした時だった。

暗闇の森の中、ふわりと舞い込んできた風が白銀オオカミと濡羽色オオカミを包み込む。

………―ありがとう―……

ジュエルオーキッドの淡い緑色は光を強め、鱗粉が風に乗るように光が宙に舞う。

白銀オオカミと濡羽色オオカミを包み込む風は光を巻き込み、天高く上がっていった。


(…戻るぞウィルソン)

レオン兄貴さんは淡々と指示を出す。


「…カリーナちゃんは僕が守るから…、

             …約束するよ」

ウィルソンはカリーナの手を取り、優しく言葉を紡いだ。

ウィルソンからの言葉が何よりも嬉しくて…。

「…約束……うんっ!」

カリーナはウィルソンの手を強く握り返した。

「…一緒に帰ろう、団長さんが待ってる」


ウィルソンとカリーナはレオンの背中に乗り、白銀と濡羽色の眠る祠を後にした。


――――


カリーナを連れモンズビレッジの宿屋に到着した団長たちはリーガルとリオンと合流した。

気付けばもう辺りは薄暗くなる時間になっていた。

宿屋の食堂に集まり夕食を取る。

皿に盛られた焼かれた鶏肉や川魚に目を奪われているカリーナ。

「おいしい…でしょ?」

ウィルソンは私の顔を見て料理の感想を聞く。

「…うん」

ムニエル?銀ぎらに包まれた魚…おいしい。

「はい!わたしのもあげるぅ!」

年の近い3人はもう打ち解けたようだ。

「おめぇも暮らす当てがねぇんだろ?

俺たちと一緒に来るか?」

「サーカス団楽しいよ!」

「体力もありそうだしな」

ウィルソンの顔を横目で見るカリーナ。

「"じゃま"じゃ…ない?」

「邪魔だなんてみんな思っていないよ?一緒にサーカス団やろう?」

"サーカスだん"が何かは分からないけど、ウィルソンっていう男の子からの誘いの言葉がすごく嬉しかった。

「…うん!…ありがとう…ございました」

カリーナは団長の方を向き直し、ペコリとお辞儀をした。

「ガハハ、それじゃおしまいみてぇになっちまうだろ。これから始まるんだぞ、宜しくなカリーナ」

「よろしく~!」

「また面白い仲間が増えたな」

「あぁ」

「ありがとうございます、団長さん!」

「なぁに、通りかかった船にはたとえお節介だろうが困ってりゃぁ手を差し伸べてやれ。そうすりゃぁ、その恩はいつか自分に返ってくるってもんだ。それが返って来なくても、恨んじゃいけねぇんだ。何せ、てめぇで勝手にやったことだからな。 ガハハ」

カリーナのニッコリと笑った頬には一筋の涙が流れていた。

たぶんこの子の心からの笑顔だったんだろう。

この笑顔につられて僕も顔がほころんだ。


。。。――――


ジュエルオーキッドの淡い光は深闇の森の中を照らす。

ウィルソンの身体には何の異常もなく、植物の蓄光は祠への道しるべとなった。

「忘れていた気持ちを思い出したよ。ありがとうオオカミさん」

年月が経ち、苔で覆われた小さな祠に手を合わせるウィルソン。

「……これは…」

植物の小さな光しかないためはっきり見えた訳では無いが、祠の横に寄り掛かる物体に目が行った。

ウィルソンはそれを手に取った。

「君が守ってくれていたのかな?」

それはネルソンが小さい頃に肌身離さず持ち歩いていた小さな布製の人形だった。

土で汚れて所々破れているが見覚えがあった。

ネルソンの人形が落ちているということはネルソンは5年前にこの場所を訪れている。

「オオカミさんの…魂…か…」

確かな答えは出ないけど、

もしかするとルシアさんはオオカミさんの生まれ変わりなんじゃないかって思う。

「約束は…守るから」

手に取った人形をまた祠の横に戻し、ウィルソンはその場を立ち去った。


森の祠からキースの待つガスステーションに戻ってくる頃にはもう日が昇り始めていた。

キースのワンボックスカーはスタンドの端に移動してあった。

キースは運転席の座席を倒し眠っていた。

キースを起こさないように静かに助手席に乗り込む。

エンジンはかかっていて暖房がついていて車内はほんのり暖かい。

ガソリンのアナログメーターを確認すると針は上を向き、燃料は満タンに入れられたようだ。

ダッシュボードの上に置かれた携帯電話を手に取り画面を確認する。

時刻は5時51分、着信履歴は無い。

「カリーナ…大丈夫かな…」

「…んぉ?ウィルソン戻ったのか…」

キースが目を覚ました。

「ぁ、ごめん起こしちゃったね」

「いいさ、少しは寝れたからな。何処に行っていたんだ?」

「″カリーナのお父さん″の眠る祠にね。思い出したんだ、昔オオカミさんと交わした約束も、カリーナを離さないって決めたことも…」

「そうか。お前にまだカリーナへの気持ちがあるなら、全部正直に話して来い。あとは変に引きずらないでアリシアちゃんを全力で大切にするこったな」

「うん。そうする」

「よし!そうと決まれば病院に急ぐか。ナビよろしくな」

「わかった、ありがとう」

「おぅ」


――――


それから240㎞の長距離を休憩を挟みながら移動すること8時間。

シンクローズの街に到着することが出来た。

バスターミナルに隣接した駐車場に車を停めることにする。

―この先右折です。―

ナビのアナウンスが指示を出す。

「やべっ!ここ一般車両入れねぇのかよ!」

どうやら入ってくる通路を間違ってしまったキース。

数台の大型バスが行き交うターミナル内に無謀にも侵入してしまう。

すれ違うバスの運転席からのクラクションと痛い視線…。

「くそ…ウィルソン、お前はここから歩いて病院に行け、俺は駐車場探しておくから!」

「ぇ…でも…」

大型バス専用の白枠の中に一時的に車を停めウィルソンを降ろす。

「いいから!カリーナが待ってるんだろ!」

「わかった、ありがとう!」

ウィルソンは慌てて車から降り、丘の上の総合病院に向かい走る。

信号の無い横断歩道を渡ろうとしたその時だった。

坂になった斜面を猛スピードで下りてくる1台のスポーツカーがウィルソンにクラクションを鳴らす。

「うわ!…っ…危ないな…」

スポーツカーを避けようと後退りしたウィルソンは縁石に足を捕られ尻もちを着いた。

何事もなく猛スピードのスポーツカーはそのまま走り去って行った。

「まったく乱暴な…」

ウィルソンは立ち上がり病院を目指す。


病院の入り口を入り、総合窓口で病室の番号を聞く。

「カリーナ•ハーベスターという方の病室は何処になりますか?」

「只今確認致しますので少々お待ち下さい」

そう言って事務員は受話器を取り内線を飛ばす。

しばらく待って確認が取れた事務員が受話器を置いた。

「お待たせ致しました。ご家族様がお待ちになられて居ますので、エレベーターで3階段にお上り下さい」

「ありがとうございます」

総合案内所で病室の番号を聞き、案内された通りエレベーターで3階に上り廊下を歩く。


病室前の廊下の長椅子にグラジスさんが腰掛けていた。

「やぁ、ウィルソンくん」

「こんにちはグラジスさん。遅くなりました」

「大丈夫だよ。カリーナに顔を見せてやってくれ」

「はい」

良く見るとグラジスさんの左手には包帯が巻かれていた。

「怪我したんですか?」

「え?あぁ、このぐらい。カリーナの痛みに比べたら、なんてことないよ」

「そう…ですか」

「君はすごいな…。私だけじゃ何もしてやれなかったよ…」

「え?…僕は何も…」

「いいや…、ありがとう。15分後に戻ってくるから。カリーナを宜しく」

「?…はい…」

クスッとはにかんだグラジスさんはそう言って廊下を歩いて行った。


病室302。名札にはカリーナの名前だけ。

個室みたいだ。

スライドドアに手を掛けゆっくり開けた。

「カリーナ?」

病室のドアを開けてすぐ、ベッドに横になるカリーナが目に飛び込んできた。

カリーナはすーすーと寝息を立て眠っている。

カリーナが眠るベッドの左隣にはベビーベッドが設置してあった。

真っ白なシーツと掛け布団にくるまれてすやすや眠る生後間もない赤ちゃん。

「はじめまして、ルシアさん」

僕はカリーナを起こさないようにルシアさんに小声で話し掛けた。

…助けてくれてありがとうね。

するとその言葉に反応するように、握っていた小さな手をにぎにぎと動かしあくびをした。

前屈みになりベビーベッドに顔を近づけた。


「…ぁ………ウィル…ソンだ……」

目が覚めて、ぽやぁと虚ろな視界の中で部屋を見渡すと、そこには私が待っていたオレンジ色の髪の人影が立っていた。

その姿を見た瞬間、ぶわぁと感情が高ぶり涙が溢れた。

「ぁ、カリーナ。起きたんー」

「ごめん見ないで!…泣いてるから…」

カリーナはババッと目を隠すように顔の前で両腕を腕組みする。

「…もぅ……おそいよぉ……ばかぁ…」

「ごめんね、遅くなったね」

僕は椅子に腰掛けカリーナが落ち着くのを待った。

薄ピンク色の病衣に身を包んだカリーナは髪は結っておらず、落ち着いた印象がある。

「タオル取って。柵の所に掛けてあるでしょ…」

「ぁ、うん」

ベッドの柵の縁に掛けてあったハンドタオルをカリーナに渡した。

カリーナはタオルを受け取り、顔を覆った。

「…ありがとう。…来てくれて…」

「良かった。カリーナが元気そうで」

優しい言葉…、はうぁぁ…またぶわぁっと涙が…。

タオルで目をゴシゴシ擦り涙を拭き取って、ゆっくりお尻を引きづりながら起き上がる。

「…ダーリンは?会った?」

涙を拭いて落ち着いたカリーナはタオルを柵の縁に掛けて、ウィルソンの方を向き直した。

「うん、さっき廊下で。手に包帯巻いていたけど…」

「あは…、あれは私の爪がダーリンの手に食い込むぐらい握ってたみたいで…、切れちゃったんだって…」

「それだけ頑張ったんだもんね。カリーナ」

「…うん。がんばった。すっっげぇ痛かった」

「何か僕に出来ることはある?」

「……」

目線だけ伏せて黙ったカリーナ。

「…ん?」

カリーナの顔を覗き込む。

「頭…撫でて…」

「うん、いいよ」

僕はカリーナの要望通り、椅子から立ち上がりカリーナの頭に右手を添えて、優しい撫でた。

「おめでとう。頑張ったね」

頭を撫でてくれるウィルソンの優しい手の温度。

「…うん……偉いでしょ…お母さんになったよ」

「元気な女の子だね、よく眠ってる」

ウィルソンの傍に居ると胸がきゅってなって息が苦しくなる…、肺炎が悪化した時みたいな…。でも違う…、苦しいけどもっと感じていたい…、すごく温かい…。離したく…ないよ。

ごめんダーリン…。本当の気持ちを言わないままじゃ…苦しいから…。

今だけ…ね…。

「離れて…いかないで…ずっと…」

目線を伏せて両手をぎゅっと握った。

「離れていかないよ。約束…しただろ」

「私…ウィルソンのことが…好き…」

パッと顔を上げ、見つめ合った視線。

潤んだ瞳にドキリとした。

「…うん」

カリーナの口から紡がれた本当の気持ち。

無事に出産を終えて、カリーナのいつも通りの笑顔を見て、僕にも確信が持てた。

僕はカリーナのことが好きだったんだって。

数年ぶりに再会したからじゃない。

もっと昔から、気付いた時には好きだった。

仲間としてではなく、一人の女性としてカリーナが好きなんだって。


"あんたにはアリシアちゃんが居るんだからね!しっかりしなよ!"

"これからカリーナとどう付き合っていくのか、決めるのはお前だ"

シエルとキースから贈られた言葉が不意に口の動きを止めさせた。


この気持ちを無駄にするような事を言ってしまったら、ルシアさんの言った通り、今後のカリーナの生死に関わる…。

ただ、どうすれば未来のことを回避出来るかなんて、僕にはわからない。

昨日まで一緒に居たルシアさんの存在をカリーナに教えてしまえば…。

「実は、昨日の夜までルシー…っ!」

ピーーン…、とこめかみに突き刺すような痛みが走った。

まるで、その言葉を口にすることを制止するかのように。

「?どうしたの」

その痛みは一瞬だけで、スッと消えていった。

「…僕はどこにも行かないよ。カリーナがどこか行っちゃうんじゃないかっていう心配の方が大きいよ?」

「言えてるかも。そしたら必死に探してくれるでしょ?ウィルソンだもん」

昔から変わることのない、無邪気な笑顔。

「リザベートのお屋敷でアリシアと一緒に生活するようになってから。

少しおっちょこちょいで、失敗もするけど、諦めないで仕事を手伝ってくれるアリシアの姿を見てるとさ…。

リズワルドの宿舎でカリーナと一緒に料理していた時のことを思い出すんだよね」

「あはは…、私も落ち着き無いし、よくお肉焦がしてアイラさんに怒られてたもんね…」

「そうだね。イシュメルの港で、アリシアと出会っていなかったら、キルトの街でカリーナに再会することも、こうして出産に駆け付けることもなかったんだよね」

「うん。私もウィルソンにまた会えるなんて、思っていなかったから、すごく…、嬉しい…」

カリーナが本当の気持ちを打ち明けてくれた。

なら、僕もその気持ちに応えられる、最善な言葉。

「僕はカリーナが好きだよ。ずっと前から好きだったんだよ。そしてこれからも、変わらないよ」

「…うれしい…ありがとう…」

ずっと言えずにいた恋心。

こんな何年も経ってから、両想いだって分かったことが…、嬉しくて。

「でも…、私が居たら…、邪魔…でしょ…」

"邪魔者"。カリーナは昔からこの言葉を意味嫌う。

「またそういう言い方する…」

この言葉をカリーナの口から聞くのは何度目だろうな。

「アリシアちゃん…大事でしょ?お揃いの指輪付けてるんだもんね…」

アリシアちゃんも指輪をプレゼントされてすごく喜んでることも知ってるよ。

ウィルソンの小指にはリングが光っていて、手首には私があげた時計がつけられていた。

時計…、ちゃんと着けてくれてたんだね。

ただ時計のガラス面にヒビが入ってブレスレット部分も傷だらけだった。

「ぁ…時計壊れたの?また無茶したんでしょ?正直に言いなさい」

カリーナが腕時計に目をやり、薄ら笑いを浮べ睨まれた。

「ぁ…、ごめん。気付いたら…壊れてた…。この時計が僕を守ってくれたんだよ。たぶん、ありがとう」

「もう…私があげた物壊すの何回目よ」

「助けられてばっかりだね。今も会いに来ることが出来た」

カリーナがニヤリと誇らしげな笑みを浮かべる。

「じゃぁ、もうこの時計は必要ないね。返して」

カリーナが広げた両手に左腕を差し出す。

カリーナは両手でブレスレットの金具を外す。

ウィルソンの左手の小指に視線を下ろす。

「僕は今までも、カリーナのことを邪魔だなんて言ったことなんて一度も無いよね?」

「ぇ?…ぅ…ん…」

「カリーナはずるい。僕が返事をする前に居なくなろうとする」

「ぁ…はぃ……」

素直に気持ちを伝えて断られるのが怖かったの…。

「カリーナは知らないだろ。アリシアってさぁ、まだ10歳なのに、僕だけじゃなく、皆のことも優しく包み込んでくれるんだ。もちろんカリーナもね。」

「私も?はい、取れたぁ」

金具が外れた時計を左手からするりと抜いた。

「そう、アリシアはカリーナの事をちっとも"邪魔な人"だなんて思っちゃいないよ。カリーナが命懸けで産んだこの子の事も、大切に想ってくれるはずだよ」

「詳しいんだね、アリシアちゃんのこと」

「まぁ一緒に暮らしているからね。アリシアはカリーナのことをリスペクトしている面があるから、安心して良いよ」

「そっか」

「だから今度はカリーナが、僕とこの子とアリシアのために、お店に来て欲しいんだ」

「うん…、そうする」

そっか…、また会えるんだ。良かった。

「じゃぁ、ウィルソンにお願いがあるの」

「うん?」

「この子の名前…、一緒に考えて、欲しいな」

その言葉を聞いて、何の躊躇いもなく、すんなり出た名前。

「"ルシア"って名前、どうかな」

「ルシア…」

カリーナがルシアの名前を口にした瞬間、ベビーベッドで眠っていたルシアの瞼がゆっくり開き、目を覚ました。

「…おはようルシアちゃん、おかあさんですよぉ」

カリーナはルシアの顔に手を伸ばし、名前を呼んでぷっくりしたほっぺを優しく撫でた。

「カリーナにとっても、この子に関わる全ての人にとっても"光"になれる女性になるように…」

「…うん。素敵な名前…。ありがとうウィルソン」

これから育児をしていくことになって、お店に行く機会が少なくなっても、この子の名前を呼ぶだけで、ウィルソンとの日々を思い出して、安心できるかも知れないね。

「良かった。気に入ってくれて」


年月が経って、身体も大きくなって、それぞれの道に歩み始めても、心はまだずっと子供の時のまま。

ずっと変わらなかった気持ちを共有出来る人が近くに居る。

勇気を分けてくれる人が近くに居る。

それはこの先もずっと、変わらない。

仲間、家族、恋人、どの枠にも収まらない、大切な人。



第5章 第2部 心の灯~ともしび~ 終

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