第32話 恋人を想い出すと想い描くはまるで違うわ

 姫奈がここにいたなら、苦悶する僕にどんな教授をしてくれるのだろう。どんな綺麗な判断を下したのだろう。龍平は姫奈を痛切に想っていたから生々しく想い出すことが可能である。


 恰好はもちろん、振る舞いも声も語調でさえも。彼女はおそらく、叱咤し、激励してくれただろう。ただ、こんな有様の龍平にどんな忠告をしてくれるのかはまったく想像が湧かない。龍平を叱りつける姫奈の顔色は容易に頭に浮かびかがるのだが、彼女がなんと言っているのかは聴き取れない。


 当然のことである。龍平は姫奈ではないのだから。姫奈ほど聡明ではないのだから、想い描くことは不可能だ。


 姫奈をいつでも想い偲ぶこと出来るのだから、姫奈を亡くすことは彼女を失うことにはならないと自負していた。しかし、想い出すことと想い描くことはまったく違う。生きていればきっと龍平に欠かせない所見を伝えてくれただろう。納得のいく説明をしてくれただろう。想い出を繋ぎ合わせても、こぼれた雫を拾い集めてみても姫奈は活き活きとはしない。


 そうなのだ。姫奈はもう龍平の手を握って歩むべき進路に導いてくれることは有り得ないのだ。龍平と姫奈の師弟関係は既に断ち切れているのである。

 

 姫奈はおそらく龍平の訴える真実の愛より斗真と夏苗の俗な愛を称えるのではないか。明白だろう。彼女は性欲というものを愛おしく見做していたようだし、龍平の語る真実の愛に異を唱えて、そしてそれのせいで死んだのだから。

 

 ただ、姫奈はいつも龍平の推察や思案を遥かに超えた哲学を述べるのだ。龍平では見通しもつかない驚愕するような答えを出してくれるのだ。僕の助けになってくれるのではないかと、答えるはずもない姫奈に期待してしまう。


 姫奈がそうしてくれないのであれば、自分で松明をかかげて進まなくてはならない。人は誰でもいばらを掻き分けて進んでいかなければいけないのだが、ひとりでそれを続けるというのはとても恐ろしいことであるし、寂しいことなのだ。

 

 思い浮かべれば、利口な姫奈に凄まじく惹きつけられたのではないか。自分に与えられていないものを溢れるほど抱えていた姫奈に夢を見たのではないか。


 すなわち、利口な彼女に一目惚れしたのだ。この期に及んでやたらと多くのことに納得をする自分が薄馬鹿でみっともないと恥じるばかりである。姫奈の言い漏らした「糞餓鬼。」という口跡が龍平の頭の中でこだました。

 

 小説の中の夏苗は斗真を認知しない日が少しずつ増えてきた。それでも具合の良い日は斗真と同棲していたアパートの部屋で激しく愛し合った。男と女が抱き合って愛を交わせば日常では見えない互いのとびきり充実した顔色を見極められる。ふたりはとても幸福な時間を過ごしていたと言える。


 わたしは、またひとつ注釈しなければならない。龍平はなにも性欲が先走る愛というものを一等だと認めたわけではない。あくまで純粋で清潔な至高の愛とは自分が姫奈に催していた、性欲とはかけ離れた愛だと信じ込んでいる。


 斗真と夏苗は炎をあげて燃えてはいるがそれは一刻のことなのだ。幼気な恋であると分別していた。自分と姫奈の続柄に到達するのはまだ早い。これから徐々にふたりの愛の形状を変えていって、龍平の宿す真実の愛に近付いて貰うつもりだった。それは意地にも似た心意気だった。

 

 ふたりの愛がどこまで崇高なものなのかを確かめる為に龍平は夏苗に試練を課そうと腹を据えた。それは試練と呼ぶより意地悪と言った方が適切かもしれない。

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