第26話 やっと中馬姫奈が消えてくれる

 故郷に帰ってきてからの龍平は苺の世話をするのに懸命だった。龍平の店では冬場に苺狩りの営業を行う。一日に十組近いお客を接待しなければならないうえに、店頭での苺販売も行わなくてはならない。十二棟ある苺のビニルハウスを存分に回転させなければならないので、今から草むしりやら水やりやら、やらなければならないことは山ほどある。故郷に帰ってきてから姫奈とは一度も連絡をとったことがない。龍平からは電話をかけたり、手紙を送ったりするのだが姫奈はどれにも応じない。

 

 今日で故郷に戻ってからちょうど一ヶ月になる。もちろん姫奈のことを想わない日はないのだが、これだけ消息不明だと不安にもなる。いつもの農作業に出る前に携帯電話を握り締めて、姫奈に電話をかけてみようかと苦悶した。もしかしたらふたりはもう潮時なのだろうか。そんなわけがない。龍平はまだ姫奈を慈しんでいる。ふたりは真実の愛を分かち合う同士なのだ。悪い考えを振り切る為に頭を横に何回も振り回した。

 

 その刹那に携帯電話はけたたましい音をあげる。姫奈に違いない。そう思って携帯電話の画面を凝視したが、表示されたのは知らない電話番号だ。慌てて電話に出た龍平の耳に飛び込んできたのはもう懐かしくなった文芸倶楽部の部長である坂本の声だった。拍子抜けだと感じたが、坂本が口にしたのは呑気な言ではなかった。

 

 昨日、十二月二十二日の夜、姫奈が下宿先のアパートで遺体にて発見されたと言う。死因は一度に致死量の睡眠薬を服薬したことらしい。龍平は、ああ、そうですかとしか声にならなかった。坂本にはそれが薄情に思えたのだろう。怒ったような声になった。姫奈の部屋には三通の遺書が遺されていたらしい。ひとつは世の中のみなさんへ。ひとつは家族へ。もうひとつは龍平宛てのものらしい。坂本は葬儀に参列しろと言う。龍平は、はいと頷いた。坂本は姫奈の自殺についてなにか心当たりはないのかと問い詰めたが、龍平は今は忙しいと言って強引に電話を切った。電話の向こうから坂本の怒鳴り声が響く。


 彼女は出会ったときから変わっていた。誰とも違っていた。なにやら不安を感じさせる季節に現れた。小さくて華奢で艶のある黒い髪の毛を仔馬の尻尾のように結んだ容姿はどこか田舎臭かったが、それは僕と同じ匂いだった。小説の世界から飛び出してきたような不思議な女だった。屈託のない笑顔もするし、良からぬことを考えていそうな意地の悪い顔もするし、経験を積んだ大人のような恰好のいい顔もする。少しだけ怒った顔もする。感情をすべて捨ててしまったような冷たい顔もすることもしばしばあった。

 

 初めて見つけた美しい女。どんな芸術の中にもこれほどの女を見かけたことはない。好きになるのにたいした時間はいらなかった。

 

 彼女はちっとも自分の思う様にならなかった。笑って欲しいときに笑わないし、悲しませようとしても泣いたりしない。その代わり、僕は彼女の掌で踊るばかり。彼女に気に入られたくてひたむきに踊った。誤魔化されたことも嘘をつかれたこともあった。不思議と腹が立つことはない。そんな彼女の悪戯な気質もすべて好きだったのだ。遠慮というものをしない女であり、虚しく女の腹を探る必要がないので清々しく接することが出来た。一番好きなのは私意を堂々と訴える姿。もちろんいつも正しい発言をするのだが、彼女が物語ると余計に潔く聴こえる。彼女が物語ると白いものも赤くなるような気さえした。

 

 ただひとつだけ嫌いなのは、将来に対する唯ぼんやりした不安を抱えていると呟くことだ。彼女の心の奥がまるで見えなかった。彼女はそう呟くが怯えた顔も痛そうな顔もしない。嘘をつく女ではないが、どんな不安を背負っているのか想像がつかなかった。きっと彼女が見ていたものは鬼とか悪魔の類ではなかったのだろう。ただ少し先の現実を見詰めていただけなのではないだろうか。

 

 自分を殺すような女ではないと感じていたのだが。生の象徴のような印象だったのだが。人とはこんなに簡単に死に逝くものなのだろうか。

 

 無論、龍平は自分が彼女の生死を左右していることを認知していた。だが、充分ではなかったのだ。まだ犯した罪の大きさを知らない。

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