第13話 やっと恋文らしくなってきた

 姫奈から龍平が聴いていた話はここまでだ。ただし、これではなぜか上手な演説としては物足りないような気がする。壇上に上がる前の時分の龍平ならここで満足していただろう。しかし、ついさっき姫奈の達者な演説を聴いたばかりだ。もっと喋りたいという欲求が大きかった。これを自己実現の欲求というのだろう。

 

 続けて利他主義者というものについて物語り始めた。ここから先は何者かに教えて貰った説ではない。今ここで龍平自身が考案した説である。


 エゴイストすなわち利己主義者と相反する利他主義者をいうものの存在を疑わしいと言う。理由のひとつは、利他主義者は自分が危険を背負ってでも相手の幸福を願うものある。 


 では、相手がいないときはなにを考えるのだろうか。ひとりぼっちだったときは一体なにを願っているのか。利他主義者というものは常に自分の周りに誰かがいることを前提にしている。孤独というものを認めていないのだ。孤独な人は間違いなく存在する。一日中誰とも会話も出来ない人がいる。そんな人の存在を認めていないのが愚かしい。


 ふたつめ。自分の価値観で判断した幸せというものを押し付けること。個人の幸せというものは誰かと共有出来るものではない。利他主義者は勝手に相手のことを考えたつもりになって、求められてもいない偽物の幸せを押し付ける存在であるのだ。


 最後に。他人に奉仕したことで結局満足するのは利他主義者本人だということ。誰かの為に奉仕することに悦びを感じるということ。それは誰かの満足の為に動いているのではない。自分の満足の為に行動しているだけなのだ。実に利己的な考え方である。なにものかを満たしてやろうと考えてしまった時点でそれは利己的なのではないだろうか。すなわち利他主義者というものはこの世に存在しないのだ。そうであるからこの世のすべての人間はエゴイストであると僕は断言しますと言い切った。


 以上が龍平の演説のすべてであるが、それが終わったとき姫奈はとてもとても冷たい目をしていた。龍平もその目つきを確認したが、なにも気にならなかった。姫奈はつまらないと思っているわけではない。あの目つきは姫奈が今まさに真剣である証明であることを分かっていたから。龍平はこれまでの人生で味わったことのない喝采を受けた。みなに賞賛されることももちろん嬉しかったが、姫奈を真面目にさせることが出来たのがなによりも気持ちが良かった。


 これにて文芸倶楽部の一大行事である弁論会は幕を閉じた。部員全員の演説を聴いて、誰の批評が一番素晴らしかったのかをそれぞれが投票する。一番多くの票を獲得したものが最優秀賞として認められるのだ。九人中六人の人気を得て龍平が最優秀賞に選ばれた。賞品も賞金もない名誉だったが龍平は十分満足した。表彰式で姫奈がとても悦んだらしい顔を見せてくれたのが大きな理由だ。姫奈が悦んでくれなければこんな賞に意味はないと思っていたが、とても幸せな結末になった。早くふたりきりになってこの満足感を分かち合いたい。そわそわして落ち着かない気分だった。


 合宿の最後の夜は大宴会で締め括られるのが恒例である。この場の主役はもちろん龍平に決まっている。祝杯をあげる為に次々に先輩達が集まって来た。それぞれに龍平の演説を褒め称えてくれる。みな羅生門に登場する下人がエゴイストであると見出した着眼点がなにより見事であると絶賛した。


 しかし、実はその視線は僕のものではない。姫奈に与えて貰っただけなのだ。下人がエゴイストであることだけを語っただけなら龍平は満足どころか後ろめたさしか感じることはなかっただろう。利他主義者を否定するという誰に指導されたわけでもない持論を展開したから胸を張れるのだ。龍平は勤勉で努力家であるが、なにかを成し遂げたことでこんなに自信を得たことはない。そのせいか、最近覚えた酒がこの上なく美味だった。


 みなに尊敬されるということは光栄ではあるのだが、いい加減この場を離れてひとりになりたい。いやいや。姫奈とふたりきりになりたいと望んでいた。


 賑やかに始まった大宴会も二時間も経つ頃には大分落ち着いた空気になっていた。もう誰も龍平をおだてあげる者もいない。みな合宿中にそれなりに息抜きをしたり、遊びをしていたのだ。想い出を語り合うのに夢中になっていた。学生の合宿とはそういうものだろう。本来の目的より、ちとした悪さをしたり、恋をしたりする方が余程楽しいものだ。


 その点、龍平は真面目に読書と弁論に取り組んだと言えるだろう。もちろん、他の者と同じで恋もしていたのだが。隣に座っていた先輩に、風に当たってきますと伝えて宴会場を抜け出して庭へ出た。

 

 龍平は姫奈を待っている。必ず来てくれると信じていた。弁論会の最優秀賞をとったことを称えてくれるかは分からない。もしかしたら、けなされるかもしれない。だが、そんなことはどちらでも良いのだ。ただ、ふたりきりになりたかっただけというのが本音なのだ。そんな他愛ない期待に姫奈は応えてくれた。缶ビールを二本持ってきて、一本を龍平に渡して、乾杯しようと言ってくれた。

 

 弁論会についてはそれ以上話題にはしなかった。ただ、思っていた以上に沈黙が続くので龍平の方が気遣って口を開いた。この合宿は姫奈にとってどんな時間だったのかと。


「とても楽しくて、幸せな時間だったわよ。そんなことより星がとても眩いわよ。」


 普段はしゃらくさい女だが、今夜はとても綺麗な顔をしていた。昼間の明るい笑顔の姫奈もいいが、月夜に照らされた姫奈も艶っぽくて好ましい。どうやら龍平は謎めいた女に好感を持つらしい。そして姫奈はとても掴みどころのない女である。


「ずっと考えごとをさせてしまって悪かったわね。これが合宿での最後の質問よ。あなたはわたしのことをどう思っているの。」


 龍平は言に詰まってしまった。答えるべき言はひとつに決まっているのに、それがはっきりと口に出せない。姫奈に限らず女というものは意地の悪いことを聴くものだ。男がどんな受け答えをするのか分かっているくせに問いかけをする。


 龍平は色男なので何度もこのような場面に立たされてきた。いつもはすぐに気の利いた洒落た口舌が出てくるのに、どういうわけか今は口も身体も硬くなってしまって身動きがとれない。龍平だってどのように受け答えれば姫奈がどんな顔をするのかは予見出来て、思った通りに振る舞えば良いだけだと知っているのに。

 

 なにも応答しない龍平に姫奈はしびれを切らしたような態度を見せなかった。これもある程度憶測していたからであろうか。


「答えるのは今じゃなくてもいいわ。」


 缶ビールを勢いよく飲み干して、姫奈はログハウスの中に戻ってしまった。龍平はとても情けなくて恥ずかしい気分になる。いつかこういう日が来るのを期待していたのに。何度か想像した場面であったのに。走って姫奈を追いかけようとも考えたが、それはしてはいけない。そういう見苦しい行動はかえって姫奈の機嫌を悪くする。愛の告白というものは男にとっても粋でなくてはいけないし、女にとってもロマンチックなものでなければならない。

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