【File2】黒津神社③

 【02】溢れる憎悪


 中学生になっても、桜井梨沙は連戦連勝の負け知らずだった。

 同じ階級の選手たちは誰もが彼女を倒す事をあきらめていた。それほど他とは実力の開きがあった。

 一方の杉本も中学では柔道部に入り、死にもの狂いで練習を重ねたつもりだった。しかし桜井には、まったく歯が立たない。

 中学二年の夏の大会が終わると、ない自分にあきれて腐り、柔道への情熱を失う。

 部活の練習へも真面目に顔を出さなくなり、三年生や顧問の教師に呼び出され、その態度をとがめられた。

 中には杉本に対して、もっと努力を重ねれば必ず結果は出ると励ましてくれる者もいた。

 しかし、彼女は、それらの言葉を耳にする度に、馬鹿にされているような気がした。

 どんなに努力をしても桜井が存在する限り結果など出ない。それを杉本はうんざりするほど思い知らされてきたからだ。

 そもそも、努力など、すでにやり尽くしたつもりでいた。これ以上、何をすれば良いというのか。

 本物の才能の前では凡人の努力など無意味なのだ。

 それが幼い頃から柔道をやってきた杉本が辿たどり着いた答えであった。

 そうするうちに、杉本はとうとう柔道部を退部した。

 この頃の彼女は、あんなに打ち込んでいた柔道が大嫌いになっていた。

 どんなに努力しても、一部の才能ある人間しか報われないのなら、もうやっている意味がない。杉本はそんな風に諦めてしまった。

 そして、柔道を辞めた事により、彼女の心はき物が落ちたかのように軽くなった。

 もう自分はつらく厳しい練習をしなくてもよいのだ。

 普通の中学二年生の女子みたく、お洒落しやれして、放課後も友だちと一緒の時間を過ごし、格好いい男の子に恋をして……。

 そう考えると、いまだに汗にまみれながら、痛い思いをしている桜井梨沙が惨めに思えた。

 杉本は初めて彼女に対して優越感を味わう事ができた。そのまま、桜井梨沙の事など忘れるつもりだった。

 そんな、ある日の事。

 自宅で夕食を取っているとき、たまたま見ていたテレビのローカル情報番組で桜井梨沙の特集が放送された。


〝美少女アスリート〞

〝未来の金メダル候補〞

〝天才柔道少女〞


 画面の中の桜井梨沙は、まさにダイアモンドの原石で、きらきらと輝いて見えた。

 一方の自分は誰にも見向きもされない路傍の石。どこにでもいる普通の中学二年生。

 柔道から逃げた自分が、急に惨めな負け犬のように思えてきた。

 杉本の脳内で劣等感と敗北感が悲鳴をあげ始める。

 すると、一緒にご飯を食べていた母親が何気ない調子で言った。

「……この子、藤見市だって。あなた、知ってる?」

 その質問には答えず、杉本はリモコンでテレビを消して、無言で席を立つ。母親が何かを言っていたが無視して自室へと向かった。

 部屋のドアにかぎをかけ、ベッドに身を投げると、そのまま右腕を大きく振りあげてたたきおろした。


     ◇ ◇ ◇


 桜井梨沙を呪った犯人を探す。

 それが姉の目的であると知った薫は頭を抱えたくなった。

 彼女は桜井が選手生命を絶たれるほどの大怪我を負ったのは、呪われたからだと考えているらしい。

 しかし、薫にはそう思えなかった。二年前に桜井を襲った事故は、残念ながら偶然に過ぎない。呪いなどこの世に存在する訳がないのだから。

 だが問題はそこではない。

 姉ならば、必ずやりとげる。

 桜井梨沙を呪った犯人を探し出し、必ずふくしゆうを果たす。誰も思いもよらないような方法で。それぐらいの事はやってのける。

 なぜなら姉は悪魔で、その悪魔の唯一無二の親友が桜井梨沙であるからだ。

 呪いの実在はさておき、必ずろくでもない事になるのは明白だった。

 そんな彼の懸念など露知らずといった様子で、対面の杉本奈緒が鼻を鳴らして笑う。

「呪いなんて……冗談でしょ?」

「でも、梨沙さんが引退を余儀なくされる大怪我をみぎひざに負ってしまった事は、あなたも知っているわよね?」

 その言葉を聞いて杉本は肩をすくめた。

「偶然でしょ。いくら右膝を怪我したからって、呪いのせいだなんて。そんなの……」

「あの神社の境内では、他にも三体の藁わら人形を見つけたわ……」

「それが、どうかしたの?」

 どこか挑発的な笑みを浮かべる杉本に対して、茅野は藁人形に名前が記されていた三人について、独自の調査で判明した事を語る。

 もちろん、その際に白浜、鈴木、鏑木の氏名を伏せる事は忘れなかった。

 その話を聞き終えた後、杉本は鼻を鳴らしてばっさりと切り捨てる。

「偶然よ。そんなの」

「……確かに、貴女あなたの言う通りすべて偶然かもしれないわ。だけど、もし、梨沙さんが呪われて、そのせいで柔道を引退しなければならなくなったとしたら、これはゆゆしき事なのよ」

 当時の桜井梨沙は比類なき天才だった。その事は薫もよく知っていた。

「……ねえ、杉本さん。天才を殺すのは、いつだって凡人なの」

「凡人が……?」

 杉本には、姉の言っている事がよく理解できていないようだった。

 しかし、そんな事は、お構い無しに悪魔は言葉を紡ぐ。

「あのジョン・レノンを殺したのだって、くだらない妄想にとらわれたつまらない男だった。天才は常に、凡人によって虐げられる弱者でもあるのよ」

「天才が、虐げられる……?」

 杉本の目つきが鋭さを増す。

 それを見た茅野は不敵に微笑んで黙り込んだ。

 薫には理由が解らなかったが、姉の言葉によって、杉本は機嫌を損ねてしまったらしい。空気がにわかに張りつめる。

 気詰まりになった薫は……。

「あ、飲み物、取って来るけど、何がいいですか?」

 にこやかな笑顔で二人の顔を見た。


     ◇ ◇ ◇


 中学二年生のその日。

 杉本奈緒は学校が終わると在来線に乗り、藤見市へ向かっていた。

 目的はもちろん桜井梨沙に会う為だ。彼女に会って直接言ってやりたかった。

 なぜ、自分のようにちゃんと努力をした人間が、苦しまなければならないのか。

 どうして普通に生まれたというだけで、一部の才能を持つ人間に道を譲らなければならないのか。

 弱者への配慮抜きに才能を振るうのは加害行為に他ならない。

 杉本は面と向かって、その思いを桜井にぶつけるつもりだった。

 藤見市に着いた頃には、既に夕暮れ時が近かった。

 もうすぐ部活が終わる時間だ。今から彼女の通っている中学まで行けば丁度良いかもしれない。

 杉本は駅からスマホを頼りに目的地を目指す。

 そして、寂れた駅前から狭い路地をいくつか曲がったときだった。

 正面の十字路の向こうから、おそろいのジャージを着た女子の集団が歩いてくるのが見えた。

 その集団は十字路の手前で立ち止まると、手を振りながら別れのあいさつを交わし合う。

 そして、その中の一人が杉本の方へ向かってやってくる。他の者たちは右側の路地へと姿を消した。

 そこで杉本は、自分の方へと近づいてくる女子の顔を見て立ち止まる。

 桜井梨沙だ。

 何と話しかけようか。

『久し振り』それとも『私の事を覚えてる?』

 杉本の脳裏に様々な言葉が浮かんでは消える。突然の緊張でのどが詰まり、しやべれそうになかった。

 そうこうするうちに桜井梨沙は、どんどんと近づいて来る。

 もう時間がない。

 そこで杉本は、自分からは話しかけない事を選択した。

 自分から話しかけるのは、桜井梨沙に負けを認めたような気がしたからだ。

 自分が桜井にわざわざ会いにきたのではない。桜井にしよくざいざんの機会を与えようとしているのはこちらなのだ。

 そう考えた杉本は、桜井を見つめたまま、その場でじっと待った。

 しかし、桜井梨沙はすれ違い様に彼女の顔をいちべつしただけで、通り過ぎて行った。

 杉本は絶句する。

 試合で何度も対戦しているのだから、顔を覚えていないはずがない。

 虫けらのように取るに足らない存在。そう言われたような気がした。

 切なくて、情けなくて、声が出なかった。

 杉本は歩き去る桜井梨沙の後ろ姿を見送りながら、いつの間にか泣いていた。

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