【File1】五十嵐脳病院①

 【00】廃病院へ


 スマホを落とした事に気がついたのは帰路に就いて、ずいぶんと経ってからだった。

 少女は自転車を立ちぎしながら、必死に坂道を登る。

 左側にはのりめんモルタルの擁壁、右側にはガードレールが連なっていた。

 少女は、そのガードレールに沿って弧を描く白線をなぞるように、必死に自転車を漕ぎ続ける。

 ガードレールの向こう側は針葉樹に覆われた下り斜面となっており、木立の隙間からは広々とした田園が望めた。

 その景色を染めあげる夕暮れの赤が、宵の口の紫へと移り変わろうとしている。もうすぐ夜が来る。

 日が落ちてから、あの廃病院へ戻りたくはなかった。

 かといって、スマホを置いて帰る気には当然なれない。

 どこに落としたのかは何となく心当たりがあり、覚えている。

 早く……早く……暗くなるまでに戻らなければ――



     ◇ ◇ ◇


 五月後半の昼下がりの事。

 山深い森を割って延びる未舗装の路上で、沿道からはみ出した木陰の中に、一匹の芋虫がうごめいている。

 茶と緑のまだらで細長い角があった。でたのように丸まったり、まっすぐ伸びたりして、のたうっている。

「……ねえ」

 芋虫を見おろしながら、鈴の音のような声を発したのは、ふじ女子高校オカルト研究会副部長の茅野循である。

「この芋虫、男性器を思い起こさせるわね」

「ウソ!? 男子のアレって……角がはえているの!?」

 循の隣で頰を赤らめ、目を丸くするのは桜井梨沙。彼女はオカルト研究会の部長だった。

 その桜井の疑問に、茅野は極めて真面目な顔で頷く。

「そうね。あがりに見た弟のやつは角つきだったわ」

「マジで!? カオルくんのって、角はえてんの!?」

「そうね」

 あくまでも茅野は真面目な表情を崩さない。

 桜井は「すごーい……」と言いながら、のたうつ芋虫をまじまじと見つめ続ける。

「ところで梨沙さん」

「何?」

「芋虫を見ながら、私の弟のアレを想像しないでほしいのだけれど」

「べっ……別にしてないけど」

 桜井は目線を泳がせる。

「本当かしら……」

 茅野がふっと笑って芋虫を平然とつまみ、沿道の木の枝に乗せた。

「何にしろ、男性器の話をしている場合ではないわ」

「循がし始めたんじゃん」

 ……などと、頭の悪そうな会話を繰り広げながら、二人は歩き出した。

 彼女たちの行く先には、うつそうと生い茂る雑木林に埋没した古めかしいかわら屋根があった。

 おびただしいこけつたによって侵食されたその建物は、大正時代に建てられた廃病院であった。

 ご多分に漏れず、近隣では名の知られた心霊スポットである。

 オカルト研究会の活動を真面目に行う気のなかった二人が、なぜそんな場所へと足を踏み入れようとしているのか。

 事の発端は数日前にさかのぼる――


 【01】オカルト研究会


 その日は朝から陰気な空模様だった。

 午後になると天気は本格的に崩れ、大粒のなまぬるい雨が降り始める。

 その雨水は中庭の紫陽花あじさいの葉を揺らし、雨どいからごうごうと飛沫しぶき をあげて排水溝へ雪崩れ込む。

 やがて風は強まり、雨粒が横殴りになって校舎の窓硝子ガ ラ ス を一斉に たたき始めた。

「この時期の雨は嫌いじゃないのだけれど……ここまでの荒れ模様だと、ちょっと帰るのがおつくうね」

 と、れた窓硝子を眺めながら憂鬱なめ息を吐いたのは茅野循であった。

 その背後で桜井梨沙が得意気な顔をしながら胸を張る。

「あたしは雨合羽があるから平気だけどね。わんこのやつ」

「高校二年生にもなって、雨合羽……」

「何で? 便利だよ? 両手が空くし。敵が来てもだいじょうぶ」

 桜井が虚空に向かって、ジャブとストレートをリズム良く繰り出す。茅野は振り返るとあきれ顔で突っ込んだ。

貴女あなたは何と戦っているのよ」

 放課後、二人は部室棟二階端の倉庫となっていた部屋を掃除していた。

 部活顧問のから、この部屋をれいにしたらオカルト研究会の部室として使ってよいと言われたのだ。

 ちなみにオカルト研究会は、春休み明けからの桜井と茅野による周到な準備によって設立を果たし、五月頭から始動となった。

 しかし、その実態は桜井と茅野の二人以外は全員が頭数合わせの幽霊部員という、存在自体がオカルトのような部活であった。

「テスト、終わったら、どこかへ遊びに行きたいね。ぱあっとさ」

「そうね。ただ、あまりぜいたくはできないけれど」

 首尾よく部を設立した二人だったが、期待していた部費は雀の涙ほどであった。とても自由に遊び回れるというほどの金額ではない。

 新設されたばかりの何の実績もない文科系の部活など、そんなものである。

 落胆はしたが、ここでめげない二人は、せめて自分たちにとって居心地のよい空間を手に入れようと、部室製作に着手したのだった。

 そんな訳で、二人は壁際のスチールラックに納められていた段ボール箱を持って、部屋の外へと出る。

 まずは、この棚の箱を部室棟の玄関へと運び出す事になっていた。後日、教師の立ち会いで仕分けをするはずであった。

 二人は荷物を手に、まとわりつくような湿気に満たされた薄暗い廊下を進む。そして、先頭の茅野が廊下の右側にある階段の前へと差し掛かろうというときだった。

 不意に、きゅっ、と運動靴の底が床にこすれる音が鳴り響いた。何者かが階段の方から飛び出してきたのだ。

 緑のループタイ。制服姿の三年生だった。

「あっ……」

 驚いた茅野は急停止してけ反り、大きくバランスを崩した。手に持った箱を落としてぶちまける。

「危ない!」

 桜井は持っていた箱を空中に放り投げ、とつ に茅野を抱き止める。

「循、だいじょうぶ?」

「ありがとう。梨沙さん」

 茅野は体勢を立て直しながら礼を述べ、辺りを見渡すが、すでに飛び出してきた何者かの姿は見当たらない。

「……ひどいね。謝りもせずに」

 桜井がまゆりあげて言った。しかし、当の茅野は特に気にしていないようだった。

 桜井梨沙と茅野循といえば、この学校ではちょっとした有名人であった。良くも、悪くも……。

「きっと、私たちに関わりたくなかったのね」

「自分で、それを言うんだ」

「そんな事より、これを片づけないと」

「そだね」

 そこで桜井と茅野は辺りを見渡す。

 廊下には、投げ出された段ボール箱からあふれた物が散乱し、酷い有り様であった。二人は黙々と片付け始める。

 そうして、しばらく経った頃だった。茅野が声をあげる。

「あら」

「何?」

 桜井の問いに、茅野は自らの手に持ったものを掲げて見せる。

 それは手作りの冊子だった。装丁がやたらと凝っており、何となく目線が吸い寄せられる。表紙は赤色で、こう記してあった。


『郷土史研究会報12』


 見れば同じような色違いの冊子が何冊もあった。そのうちの一つを手に取り、桜井は首を傾げた。

「きょう……ど……し……って何?」

「特定の地方の歴史って事よ。つまり、そうした歴史を研究する部の会報ね。これは」

「ふうん」

 と、桜井が茅野の答えを聞いて、ぼんやりとした調子の相づちを打った。しかし、すぐにけんへとしわを寄せる。

「でも、そんな部活って、あったっけ?」

「私も聞いた事がないわね……」

 茅野はげんな表情で、冊子の巻末の奥付をあらためる。

「二〇一四年十一月三日発行。五年前の文化の日ね。文化祭の配布物かしら?」

 さらに茅野は先頭のページを開く。そして、そこに記してあった見出しを読みあげた。

「〝闇の歴史、五十嵐いがらし脳病院〞」

「闇の歴史とは、おだやかじゃないね。この五十嵐脳病院っていうのは?」

「この辺りの山奥にある大正時代の廃病院の事ね。それなりに有名な心霊スポットよ」

 茅野が桜井の疑問に答えた。その直後の事だった。

「……ねえ」

 ぽつりと桜井の口から言葉がこぼれる。

「テストが終わったら、その病院に行ってみない?」

 唐突な提案に、茅野は面食らった様子で目をしばたたかせた。

「五十嵐脳病院に?」

「うん。探検してみたい。そういうのなら、お金も掛からないだろうしさ」

「でも、この病院があるのはくろたにの方よ?」

 オカルト好きではあるが、典型的なインドア派の茅野が難色を示した。

 黒谷地区は彼女たちが住んでいる藤見市の北方に位置する山深い土地だった。

「黒谷なら自転車で行けるでしょ? ちょっと、遠いけど、十キロちょい?」

「十キロ……」

 茅野はうんざりとした顔をする。

「そこまでは遠くないでしょ」

 その桜井の言葉に、茅野は思案顔になりながら「うーん」とうなり声をあげる。

 そして、やる気に満ちた桜井のひとみを見て、あきらめたようだ。

 茅野は大きな溜め息を吐いて微笑む。

「……まあ、たまには遠足というのも悪くないわね。私もあの病院には興味がない訳じゃないし」

 ようやく乗り気になったようだ。その返答を耳にした桜井は満足げにうなずく。

「それじゃあ、テストの最終日に学校が終わったら行ってみようよ」

「そうね」

 茅野は『郷土史研究会報12』をパタリと閉じると、段ボール箱の中にしまった。

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