第20話 色無き風と飛行機雲


 鈍い音がする、と思わず目を閉じた。


 あの夢と同じように風が孤独と滴れば、ワア、と泣き叫ぶ声が耳朶を打った。


 恐る恐る目を開け、状況を飲み込むと真さんが燕を殴ったのだ、と燕が頬を押さえているのを見て、とっさに判断した。


 殴られた燕は寸でのところで飛び越えるのを停止し、我に返り、ぶるぶると肩を震わせている。




「死にたくない奴なんていない。死にたくない奴なんていない。死にたくない奴なんていない」


 燕は途方に暮れたように硬いアスファルトの上にしゃがみ込んでいた。


 真さんの言葉は燕に対して話しているようにも思えなかった。


 燕を通して、かつての少年時代の自分に対して声を投げているのだ。


 きつい励ましのようにも思えるけれども嘘は含まれていなかった。




「燕君、君のお母さんが心配していたんだ。もしや、と思ってここに登ったんだよ」


 あの夜に夢で出会った少年の切ない眼は今の真さんの眼と同じだ、と気付いたとき、コロナ禍であまり見かけなくなった飛行機雲が空へ黄金色に光ったように感じた。


 燕、と動く咽喉も震えて爛れそうになりながらも涙を堪えながら言う。




「私は燕に死んでほしくない。年老いても燕の世界観を知りたい。だから」


 桜島がこのマンションの屋上からこんなに高く見えるのか。


 はっきりと、くっきりと見える桜島はぶっきらぼうに私たちを見ている。


 燕は興奮状態の魔法から解けたのか、平静を取り戻し、真さんが渡したハンカチで頬を拭いていた。




 短歌なんて私にはまだ詠めないな、と短歌の神様に今更誓う。


 こんな状況でも、うろたえて馬鹿を見てばかりだもん。


 だから、の先は私が舵を取らないといけないよね、と短歌の神様に追伸を送る。




 燕が立ち上がるまで私は色無き風を感じながら夕日と手を取り合う。


 もう一度確認すると真さんの腕の傷はもうだいぶ薄くなっていた。



≪参考文献≫


『滑走路』 萩原慎一郎 2016年 角川出版


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夜落葉 この恋を57577では詠めない。 詩歩子 @hotarubukuro

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