【六章】甘いケーキで満たされる

 数十分経って葵と凛と海斗が控えめに雑談する声で杏はゆっくりと目を開ける。目の前で安心したような表情が見えて、杏は状況を理解した。気を失う前に言われた事を思い出して、杏は恥ずかしくなって布団で口元を隠す。何を言えばいいのか、どう応えればいいのかと考えていると手を握られている事に気付いてその大きな手をじっと見つめた。自分より高い体温と二回りほど大きな手は男の人なんだと認識させられてしまって、目を合わすのが怖くなってしまう。


「痛い所があれば言えよ。撫でてやるから」

「……子供扱いしないで」

「違ぇよ、レディーファーストってやつ」


 ゆっくりと視線を上げれば少し照れたように頬を掻く姿が見えて、不器用なんだと思うと口端が上がる。布団で隠していてよかったと思いながらその様子を眺めていた。


「あたしね、好きな人がいるの」

「……知ってる。さっきのは、オレが言いたかっただけだから忘れてくれ」

「……やだ」


 我儘を言う様に控えめな言葉が聴こえて、陽斗はゆっくりと起き上がってソファに座る杏を見続ける。

 唖然として床に座ったままの陽斗を杏は見つめた。


「だって、その人より好きな人ができたから……」


 熱を帯びた瞳で告げる少女の言葉の意味を理解できない。ただその熱はとても魅力的で、催眠術にでも掛かっている程に夢中になる。


「陽斗、さん……」


 初めて名前を呼ばれた気がした。名前を呼ばれただけなのに病気にでも掛かってしまったかのように心臓が痛くて。置いてきてしまった感情を思い出すかの様に加速しだす鼓動。


「あたしが好きな人は、」


 その先の言葉を聞きたくないような位に苦しくて、高校生に戻ってしまっている気分になる。高校生の頃よりは落ち着いてその言葉を聞けている気はするけれども、想像してる通りの言葉が来るとは限らない。だけど聞きたくて小さく開く口から紡がれる言葉を待つ。


「……杏ちゃん?」


 熱い視線を送られたまま固まってしまった杏を不思議に思いながら頬に軽く手を添えると、少し肩が揺れた。もしかしたら少し意識が飛んでいたのかもしれない。熱を帯びた視線は少しだけ潤んでいるようにも感じて、陽斗は小さく笑った後、添えていた手で頬を撫でた。


「……いーよ無理に言葉にしなくても。ちゃんと、伝わってっからさ……」


 林檎の様になった陽斗の顔を見て、杏の体温も上がっていく。今まで何度も交際をしてきたのに、こんな初々しい関係は久々だった。ちゃんと目を見てくれる陽斗の事を大切にしたいと、ずっと握られていた手にもう片方の手を乗せる。少し驚いた表情にくすぐったくなってしまって、小さく笑い声を漏らすと陽斗も照れた様に笑った。

 その後ろですすり泣く声が聞こえて杏は我に返ってダイニングテーブルに目を向けた。海斗は泣いていて、凛と葵は嬉しそうに微笑んでいる。今までの行動も会話も全部見られていた事に気付いて杏は握られていた手を振りほどいてそっぽを向く。その行動に陽斗も我に返り振り向いて三人の姿を確認すると、ばつが悪そうに背中を向けた。


「見んなよ……ってか海はなんで泣いてんだ……」

「だって……陽が嬉しそうだから……」


 また勝手に人の心を読むのか、と背中を向けたまま照れた様に膝を曲げて頬杖を付いた。双子って言うのは厄介だ。だけど双子だから出会えた縁もある。陽斗は立ち上がると杏の前に手を差し出した。不思議そうな顔をしてその手を見てから視線を合わせる。


「お茶会、再開してるみたいだしな」

「うん、診ててくれてありがとう」

「すっげー心配したからもう倒れんなよ?」

「……うん」

 

 差し出された手を取ると、ダイニングテーブルへ引っ張られる。椅子を引いて座らせてから陽斗も元の席に座る。凛が新しい紅茶を淹れてくれて、小さな声で礼を言うと花が咲いたように笑っていた。その横で同じように笑っている葵の顔を少し見つめた後に紅茶を口に含む。温かくて心が満たされる。こんな関係がこれからも続くのだと思うと嬉しくなって、ティーカップに隠して口端を上げた。目の前で新しいコーヒーに砂糖を入れている姿は見なかった事にしよう。

 少しだけ素直になれた自分を褒めて、でも今度は素直に言葉に出来るようになれますようにと、心の中に浮かんだ感情を優しく包み込んでいく。

 もうすぐ五月になれば暑い日々が待っているだろう。どんな風に過ごせるのか楽しみで、ティーカップで隠すことなく微笑む杏みて陽斗もつられて微笑んでいた。



<十一話へ続く>

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