【五章】一口含んだケーキの味は

 初恋がいつだったのかはもう忘れた。初めて付き合った彼女の事ももう忘れた。陽斗にとってその恋は思い出に残らない程度のものだったからだ。大学を卒業する頃になって海斗に彼女が出来た時はそれはもう自分の事の様に喜んだ。そうして社会に出て忙しい日々に恋をする余裕は無くなって行った。

 だから今抱いている感情が恋なのか即答できない。だって恋というものは青春時代に置いてきてしまったから。

 無意識に抱いていた気持ちの半分は否定したい気持ちがあるからだろう。杏は葵と同い年だ。七つ下の高校生に素直に恋心を伝えられる勇気も陽斗にはない。下手をしたら犯罪者になってしまう年齢の相手とどう向き合えばいいのか。本当にこの想いは恋なのだろうか、と陽斗は天井を見上げて考え始める。


「好きって気持ちは色々あるよね……でも、陽のその気持ちは俺にも分かる」

「勝手に人の心を読むな」

「仕方ないじゃないか……陽の事はなんでも分かってしまうんだからさ……」

「……こういう時だけは双子って厄介だなって思うなー」


 お互いに少し恥ずかしくなって顔を背ける。なのに痛い程に伝わってくる気持ちは紛れもないもう一人の自分からの想いだ。陽斗が抱く想いに海斗は気付いているし、海斗が心配する想いも陽斗には届いている。言葉にしなくても直感的な意思疎通が出来るのは双子だからこそ。

 恋心を抱いていると自覚し始めても、忘れていた感情を簡単には思い出せない。でも先程から顔が熱くて仕方がなくて、扇風機でも持ってきたい気分だ。


「足音がする……葵かな……?」

「……帰れって言いにでも来たんだ、……――」


 リビングの扉が開いて、堂々と入って来た人物に陽斗は目を丸くしたまま見続けた。

 扉の隙間から見えた妹の手招きに気付いた海斗は隠れるようにして廊下に出ると音を立てない様に扉を閉める。

 先程座っていた席の前に立った杏は、口をぽかんと開けたままの陽斗と視線を交わせる。逸らしてしまいたくなる程の目力。陽斗はしっかり受け止めて、姿勢を正して真剣な瞳に変えていく。少し腫れた瞳を見てどれ位泣かせてしまったのか容易に想像ができた。


「ごめん」

「……っ」


 杏の瞳は泣いてしまうのではないかと言う位に揺れる。また傷つけてしまったのかもしれない。不器用な自分に苛立ちを覚えるが、きちんと言わなければならない事を胸の中にしっかりと抱いて、陽斗は椅子から立って杏の隣へ歩く。少女はこんなにも小さかったかと思う位に視線の高さが違う事に気付いて、陽斗は少し屈んで視線を合わせた。


「オレは杏ちゃんを傷つけた。その事実は変わらねー。謝って済む問題じゃないって事も分かってる」

「……ちがう」

「……杏ちゃんが許してくれてたとしても、オレは杏ちゃんを傷つけた事を一生後悔する。それ位の事を言っちまった」

「……ちがう、の。あたしが聞きたいのは……」


 逸らされる事のない大きな瞳はずっと向けられていて、その中で揺れるものが何なのかは解らなかった。だけどこのままだと泣かせてしまうと思った。だから陽斗は膝を付いて杏の左手を優しく握った。

 大きく見開いた瞳に映るのは少し照れたように見上げる男の顔だった。


「杏ちゃんに好きな人がいるのは知ってる。こんな大人が言う事じゃないかもしれないって事も分かってる」

「……ぁ」


 何を言われるのか、と鼓動が早くなって行って顔の熱が上がっていくのが解かった。手からでも伝わりそうな位の熱を感じて、杏の小さく開いた口から吐息が漏れる。


「それでも、オレは、杏ちゃんの事が――」

「ま、まって……!!」

「ぐへぇ!?」


 恥ずかしくなって思わず杏は陽斗の顔面を両手で覆ってた。そんなに力を入れたつもりはないのに陽斗は変な声を出して固まる。


「……ちがうの、まって」

「……違わない」


 陽斗は強引に杏の手首を掴んで顔から退かした。顔を真っ赤にして今にも泣きそうな表情で見つめられていて、その表情をしっかりと見つめ返して陽斗は素直になろうとする。


「オレが杏ちゃんを好きな気持ちは違わねー。だから傍にいて欲しい」

「……っ、」


 へたり、と杏は力が抜けて床へと落ちていく。そんな杏に驚きながらも抱きしめる様に受け止めて、杏の顔色を伺う。熱でもあるのかという位に顔が真っ赤で、交わう瞳が回っている様な気がした。否、杏の意識は今にも飛びそうな事に気付いて陽斗は慌てて杏の頬を叩く。


「杏ちゃん!? しっかりしろ!」

「……ぁ、むり…………」

「なんで!? ちょ、ちょっと誰か救急車!!」


 陽斗の叫び声に廊下で様子を見ていた三人が駆けつけてくる。杏は気絶していて、慌てて救急車を呼ぼうと葵はスマホを操作し始めた。


「だいじょうぶだよ!」


 杏の様子を見た凛は安心したように笑った。


「え、凛くん……?」

「杏はね、頭を使いすぎると気絶する癖があるんだ。だから安静にしていればだいじょうぶ!」

「そう言えば、前にもあったね……」

「そ……それはそれで大丈夫なのかな……」


 陽斗の腕の中で眠っている少女の表情は良い夢でも見ている様だった。

 リビングにあるソファに寝かせて、葵が自室から持ってきた肌掛け布団を掛けた。陽斗は杏の手を握ったままソファの近くに座っている。そんな様子を見ながら三人は冷めてしまったお茶を淹れ直して杏が目覚めるのを待った。

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