第5話


 頭を枕に沈め、昼間起こったことを思い返した。スマートフォンを開き、スミカの連絡先のプロフィールを見た。アイコンはスイーツで、ホーム画面には何も登録されていない。一言コメントにも、何も書かれていなかった。僕はそれに対し、彼女らしい、と思ったが、らしいと思うことが出来るほど、彼女のことを知っているわけではなかった。ということはつまり、それは僕の偏見なのだろう。

 スミカは先程、男によって自分が壊されたことを示唆した。僕は彼女の言葉の切れ端を集め、それで一つのシナリオを作ろうとした。目に見えない部分は、想像で補った。母親の言葉を再び思い出したが、それはもはや考慮のうちになかった。僕は、無理やりに性行為をさせられ、彼女が子供を身ごもる、というシナリオを考えた。僕は考えがパズルのように繋がっていくことに喜びを感じ、シナリオに対して懐疑的になることが出来なかった。それは、何かの定理のように真なる命題のように思えた。

 外は薄暗く、部屋の天井に手を突き出しても、輪郭がなんとなく見えるだけだった。部屋の電気を点けていないため、カーテンも閉めなかった。もっとも、僕の部屋の窓は曇りガラスとなっていて、部屋の中は覗けない。ただ光が洩れるだけだ。しかしながら僕は、自分の部屋をみたす光が外に漏れるのを、酷く嫌っていた。それはきっと、自分の部屋の光が夜の闇を照らしてしまうのが嫌だから、という理由からくる感情だった。夜の闇は誰もが享受することの出来る孤独であり、それを奪う権利など自分には無い、と僕は考えていた。そして、どうやらそれは僕の信念のようだった。

 カーテンを閉め、それから電気を点けた。ウィスキーの瓶を取り出し、グラスに三分の一程注いだ。氷を入れ、そこに炭酸水を注ぎ込んだ。真上から落とすように注いだため、大きな音が鳴り、まるで小便のようだ、と思った。出来上がった薄く黄色いウィスキー・ソーダは、本当に小便のように見えた。

 僕はそれを流し込むように飲んだ。何も食べず、ただ酒を入れた。僕が自宅でそのような飲み方をすることはあまりない。きっと、僕の心境に何か変化があったのだろう。

 酔うほどに飲もうとは思わなかった。今酔うのは、危険なことのように思った。例えば、酔った勢いでスミカに電話をかける虞があった。それは避ける必要があった。僕の印象は、彼女にとって良いものではないのだ。

 カーペットの上に落ちている短い毛を見つけ、それを指でつまんだ。短く、波打つように曲がっていたので、それが陰毛であるとわかった。ゴミ箱に捨て、こんなきりのない事はやめよう、と思った。ティッシュペーパーとカップ麺の蓋で一杯になったゴミ箱に浮かぶ、一本の短く黒い線という異質な存在が、僕の現状を表しているように思えた。が、もちろんそれはただのゴミ箱であり、僕が生活を営んだ結果の産物であり、何の表現物でもなかった。僕はそれを燃えるゴミの袋に詰め、ゴミ捨て場へと捨てに行った。何故かはわからないが、捨てなくてはならない、と感じた。明日は燃えるゴミの日ではなかったが、そんなことはどうでもよかった。

「ねえ、ちょっと、明日は燃えるゴミの日じゃないわよ」

 僕がゴミを置いた時、偶然傍に居た女が言った。何度か見たことのある顔だったが、名前までは思い出せなかった。髪に白いのが混じり、肌が汚かった。めんどくさい女だ、と僕は咄嗟に思ったが、それが態度に出ることの無いよう、意識した。

「すみません、明日からちょっと家を空けるんです。だから、曜日は違うけど、ゴミを捨てておこうと思ったんです」

 僕はそう言いながら、考えを改めてゴミを持ち帰るかのように、装った。女はその様子を見て取り、ちょっと待って、と言った。

「それなら仕方ないし、うん・・・・・・でも、今回くらいにしておきなさいね。だって、計画的に捨てていればそもそも・・・・・・」

「はい、そうします、すみません」

 女は少し不満そうな感じだったが、やがて僕とは逆の方へと帰っていった。あの女はおれの嘘を信じたまま、その嘘を自宅へ持ち帰るんだ、と思い、喜びを感じた。僕は前々からこのような人間だっただろうか、と思った。しかし、前の自分というものが中々思い出せなかった。今の僕は、過去の僕の延長線上に存在するはずだが、どれだけその線を手繰り寄せても、答えは出なかった。

 ふと、赤子を捨てるのと、曜日の違ったゴミを捨てるのは、本質的に同じようなものなのかもしれない、と思った。捨ててはならない物を捨て、それを咎められれば嘘をつく、隠すために工作をする。同じだ。程度の差こそあれど、僕はスミカと同じ道を辿ろうとしているのだ。

 部屋に戻り、キッチンに置かれた小さな鏡を見て、僕はしばらく髭をそっていないことに気が付いた。若さもあるのだろうが、僕はそんなに髭が濃い方ではない。髭をそる時は、眉毛シェーバーを使っている。僕はコンタクトの箱やら目薬やらの入った小物入れをあさり、シェーバーを取り出した。鏡を見て、口の中で舌を突き出し、髭の生えた部分を膨らませた。髭をそってしまうと、僕は自分が少し清潔な人間になったように感じた。

 もう一度鏡をジッと眺めた。と、そこで僕はあることに気が付いた。それは、僕の目が酷く落ちくぼんでいる、ということだった。どうしたのだろう、と思ったが、最近の僕の現状を思い出し、これも宿命だろうと思い直した。僕は中指で涙袋辺りをなぞり、そのまま指を目尻に持っていった。指で目尻を押し、少し涙を滲ませながら、鏡を見た。やはり、そこには酷い表情で鏡を睨みつける男がいるだけだった。

 ――どうしたんだ、何故そんな目をしている、と声がした。

 ――あの女のせいだ、と僕は考えた。

 ――女だけか?

 ――さあ、と僕は首を振った。どうだろうな、あまりわからないな。

 ――本当はわかっているんじゃないのか?

 ――どうしてそう思う?

 ――お前の考えていることなんて、予想がつく。

 僕はふっと息をし、目をつむった。

 ――いいか、と声は言った。今お前を陥れているのは、俺だよ。

 と、そこで声は消えた。僕はやはり空中で放り投げられたような気分になった。このままではダメだ、冷静になろうと思った。冷蔵庫からアイスコーヒーのペットボトルを出し、そのまま飲んだ。安っぽいコーヒーが喉を下り、胃が不快な苦みにみたされた。しかし、先程の空虚感は無くなったようだった。

 ペットボトルの口に黒の液体が浮いていたので、親指で拭った。その指を人差し指とすりあわせ、臭いを嗅いだ。コーヒーの苦さと僕の指の臭いがあわさり、妙な感じがした。コーヒーを冷蔵庫に戻し、その場に座り込んだ。冷蔵庫の真下あたりは掃除がおろそかになっていて、薄く埃が積もっていた。僕はそれを指でなぞって取り、すぐに同じ場所に落とした。そんな意味のない行動を繰り返し、四回目に埃を落とすと、立ち上がった。「掃除、しなきゃな」と僕は口に出して言ってみた。「あと、洗濯も溜め込んでるな、やらなきゃいけないな」もちろん声はどこからも返ってこず、ただ無音の内にちっぽけな空白が出来上がるだけだった。

 ふと、スミカに連絡を入れ、セックスをさせてもらおうかと思った。しかし、それはあまりに現実的ではない行動で、実行に移そうとも思えなかった。それに、僕は彼女に連絡を気軽に出来るような立場にない事を思い出した。僕はそのことを、たとえ一瞬ではあっても、忘れていた。悪い傾向だ、と思った。

 僕の心は、あまりに浮き沈みが激しいと思った。先程僕を覆っていた喜びのヴェールは剥がれ、今は無気力に体を縛り付けられていた。電気を消し、ベッドに体を投げ、枕元のライトをつけた。僕は枕の横に置かれた、黄ばんだ『異邦人』を手に取り、読んだ。『異邦人』を読んでいる時、僕はいつもムルソーになりたかった。しかし、読むのをやめると途端にその考えは薄れてゆき、やがて、ムルソーにはなるまい、と思うのだ。僕はそのたびに、結局どちらが自分の本当の気持ちなのだろう、と悩んだが、あるいはどちらも僕ではないのかもしれない。

 心が深くに沈み、底に存在する藻に絡めとられるのを感じた。その藻が何なのかはわからないが、しかしそれは、僕の心に昔から存在するもので、僕をずっと縛り付けてきたもののように思った。首筋が汗ばみ、枕の下の方を若干濡らした。手のひらを枕と首の間に滑らせるようにして差し込み、汗を拭う。それから、その光を内面に閉じ込めている青い蛍光灯をぼんやりと見た。それが、赤子を見つけたあの便所を似ていると思った。僕は、あの時一瞬走った閃光を期待したが、もちろんそれは起こらなかった。

 気怠さを体の節々から感じながら立ち上がり、僕は再び冷蔵庫を開いた。これは一つの

 癖の様なもので、僕は腹が減っているわけではなくても、冷蔵庫を開けてしまうのだ。冷蔵庫に何もない事を確認すると、次に僕は冷凍庫を開いた。手を突っ込んで中を漁ると、冷気が腕を伝い、それがまるで僕の身体を包むように感じた。冷凍された米を見つけた。僕はそれを電子レンジの中に放り込むと、二分十秒暖めた。二分からはみ出した十秒は僕のこだわりだった。

 特に何かを振りかけるわけでもなく、そのまま米を食べた。虚しいとは思わなかった。僕はそういった食生活に慣れていた。夜中に腹が減って、砂糖を舐めたりすることも、僕にとっては日常だった。食は死なない程度に怠るもの、と僕は考えていた。

 と、その時スマートフォンが鳴った。ベッドの上に投げられたそれは、暗い部屋の中で光った。

『暇でしょ、どうせ』と通知が知らせていた。スミカからのメッセージだった。その文章の下には、位置情報が張られていた。そこはどうやらショットバーのようだった。

『どういう心境の変化だよ?』

 すぐに駆け付ける男だと思われたくなかったので、僕はそう送った。

『暇でしょ』

『まあ、そうだけど』

『なら、これば』

 僕はため息をつき、『三十分後に着く』と送った。実際は地下鉄に乗って二十分とかからない場所にあったのだが、僕は急ぎたくなかった。数分後、『早くね』と返ってきた。彼女のことが、よくわからなくなった。

 寝転がったせいで出来上がった小さな寝癖を軽く直し、部屋を出た。夜が深まっていた。僕はポケットに手を突っ込み、小銭入れを指で弄んだ。

 バッグには二万円が入った財布があったが、ふと、金はそれで足りるだろうか、と思った。僕は、スミカと寝ることになるかもしれないな、と考えたのだった。通りかかったホームセンターの近くにATMがあったので、そこで三万円を下ろした。何故そんなに金を持ってきたのか、と訊かれたら、何と答えたらいいのだろう、と思った。しかし、金の不足が理由でセックスが出来ないのは嫌だった。

 僕は下ろした三枚の一万円札を小さく折りたたみ、小銭入れに仕込ませた。

  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る